老害の人老益の人―老人と、これから老人になる人々へ

 ぼくがこのブログの前身となるウェブサイトを始めてからそろそろ13年になる。最近の悩みのひとつは、記事の内容がワンパターンになりがちなことだ。

 可能なかぎりバラエティ豊かな内容を書きたいとは思っているのだが、しょせん家にひきこもってひたすらキーボードを打つ毎日である。それほど多彩な記事が書けるはずもない。

 まあ、オタ系の雑文に偏るのはもうどうしようもないのだけれど、取り上げる作品が偏向するのは何とかしたいところ。やっぱり一部の好きな作家、作品だけを取り上げることになりがちなんだよね。

 同じ作品をたびたび取り上げることが一概に悪いわけではないけれど、やはりいろいろな作品を読んだり観たりしなければこういう商売は成り立たないと思う。

 それも上澄みだけをすくいとろうとしてはダメで、歴史の陰に消えていく凡作をいくつ知っているかが勝負みたいなところはある。名作や傑作はだれでも知っているのだから。

 そういう文脈で云えば、最近、とにかくインプットが足りなくなっているということを痛切に感じる。いや、この頃、全然本を読んでいないからね。

 本来なら最低でも1日1冊くらいは読んでいないと困るわけなのだが、ほんとうにまったく読めていない。これは非常に深刻な問題だ。

 ぼくの仕事は過去の財産だけではやっていけない。「いま」の作品を楽しめなくなったらおしまいなのだ。ライトノベルでも何でもいいから、とにかく読むべきなんだと思う。

 名作といわれる作品はたくさんあるし、名作ではない作品にしても、読んでおくことに意味がある。

 ひとはときとして自分が青春を過ごした時代を美化し、そのときがいちばん良かったように思い込むものだ。しかし、現実には必ずしもそんなことはない。

 その時、その時で生まれてくる新しい作品には新しいバリューがあるものなのである。

 何も流行りを追いかけることだけが読書ではないが、やはり押さえておくべきものはあるわけで、それをきっちり押さえられなくなったら時代に置いて行かれることになるのだろう。

 時代とともにあること。それはつまり、世界とともにあることでもある。

 何も変わりゆく世界に合わせて自分を変えつづけなければならないと云っているのではない。そうではなく、常に世界に関心を抱きつづけることが大切だと述べているのだ。

 世界は絶えず変わりつづけている。その変化にわくわくする心を持ちつづけること。それが「書く者」が最低限持っているべきセンスなのではないか。

 「昔は良かった」という言葉は、たしかに一面の心理を表している。じっさい、昔は良かったのだ。しかし、昔が良かったからと云って、いまがダメになるわけではない。

 いまはいまなりに、また一風異なるおもしろさがある。そのおもしろさをキャッチしつづけられるかぎり、青年の心を忘れ去ることはないだろう。

 新しいものは常に正しい。いまはいつだってすばらしいのである。しかし、ひとの心はやはり過去の重力に引かれている。いつもいまを楽しみつづけることは恐ろしく困難である。

 単なる義務として、いやいやいまの作品を鑑賞しつづけたところで何にもならない。あくまでいまを楽しみつづけることが大切なのだから。

 世の中には60歳になり、70歳になってなお、いまの作品を十全に楽しんでいるひとたちがいる。ほんとうに偉いと思う。

 いや、何も偉い偉いと褒められるためにそうしているわけではないということはわかるのだが、それにしてもそういうひとたちこそは永遠の若者というべきだろう。

 反対に、若年にして心老いてしまっているひとたちもある。この差は何なのだろう、といつも思う。

 ひとつ大切なのは、偏見によって判断するのではなく、常に実体験を重視することだ。

 「なんだこんなものくだらない」と云ってしまえばそれまでである。だが、じっさいに読んだり観たりしてみると、くだらなく見えた作品が、案外、予想以上におもしろいということはよくあるものだ。