精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるのか? 『風の谷のナウシカ』に感じたささやかな疑問。(2046文字)
いうまでもなく戦後漫画の金字塔、天才監督宮崎駿による唯一の長編漫画作品であるわけですが、その最終巻に「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」というひとことがあります。
このセリフにてれびん(@terebinn)が言及して始まった話が面白かったので、きょうはその話。
てれびんはどうもこのセリフに違和感を感じる、気に喰わないものがあると云うのですね。お前はこの大名作に何をケチを付けているんだという話であるわけですが、聞くと奴の話にも一理ある。
つまりてれびんが云うには、人間にはそんなに苦悩しないタイプのひともいる。そういう呑気なタイプのキャラクターが出てこないと、作品世界が狭く感じるということのようでした(要約)。
これはたしかにそうかもしれない。ぼくはシリアスに苦悩するタイプの作品が好きで、そういう作品をこそ高く評価しがちなのだけれど、その種の苦悩だけを偉大なものとして賛美し、特に苦しくない人生を一段下のものとしてみることは、たしかに問題がある気がする。
当然、苦しみを通じて偉大な精神を育んでいくひとはいるだろうけれど、それは「そういうひともいるよね」というレベルの話であって、普遍の法則ではないんですね。
「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」ということは、つまりは苦しまなければ偉大になれないということを意味しているわけで、「そんなこともないんじゃないの?」という意見はあって当然だと思う。
毎日をあかるく楽しく過ごしている偉人だっていないわけではないでしょう。
もちろん、人生は楽しいことばかりではない。生きていれば必ず苦しいことにも出逢う。しかし、それは「だから苦しまなければならないのだ」ということとは違う。
仮にどこかで落とし穴が待ち受けているとしても、それに落ちるまでにはのんびりと暮らしている人間だっているはずだ――てれびんの理屈をかってに解釈するなら、そういうことになるでしょうか。
まあ、それはたしかにそうだよなあ、と思いますね。
われらが風の谷のナウシカさんはとほうもなく真面目なひとで、真面目に考え、真面目に悩み、真面目に苦しんで偉大なひととなっていくわけですが、それではそういう真面目な生き方だけが唯一の生存戦略なのかと云えば、決してそんなことはないわけです。
世の中には徹底的に不真面目な人間もいて、日々をいいかげんに過ごしていたりするんですね。
おそらく宮崎駿自身がとんでもなく真面目なひとで、だからこそナウシカみたいなキャラクターを生み出しているのだと思いますが、でもだから不真面目なひとが悪いのかと云えば、そんなことはない。
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