放課後のトラットリア 1 (メテオCOMICS)

 先日の炎熱地獄我慢大会――もとい夏のコミックマーケットでは、ぼくも協力した同人誌『敷居の部屋の最前線』が発売されました。

 おかげさまで評論系同人誌としては異数なほどの冊数が売れたようで、関係者ともどもほっと安堵しているところです。めちゃくちゃいい本に仕上がっているので、ぜひ、いろんなひとに手にとってもらいたいんですよね。

 ちなみにぼくの原稿ではブロマガ運営の裏側をすべて(すべて、ですよ)ぶっちゃけています。いやー、恐ろしい。こんなに書いてしまっていいのだろうか。いいのだろう。いいと思おう。もう書いちゃったから仕方ないしな。てへぺろ。

 まあ、いろいろと興味深い記事がそろっているわけですが、そのなかでも最も素晴らしいのは、やはり橙乃ままれさんのインタビューでしょう。

 これは素晴らしい。橙乃ままれという作家へのインタビューとして、過去になく、おそらく未来にもないであろう特異なものとなっています。

 ぼくはこのインタビューを読むことによってそれまでくわしく知らなかったVIPSSの世界を初めて知りました。ひとは本来そういうことに向かないメディアでもどうにかして物語を紡ごうとするものなのですね。感動というほかありません。

 で、このインタビューのなかで登場しているのが「物語のライブ感」という概念です。物語は、ただその完成度だけで語れるものではない。ライブ感もまた重要なのだ!という話ですね。

 物語のライブ感とは何か。それは、「いままさに目の前で物語が紡がられている」という実感のことです。

 ぼくたちはいままで多少の例外はあれ、完成されたパッケージで物語を楽しむことをあたりまえとして受け入れて来ました。つまりは物語は完成品となって提示されるものだったわけです。

 しかし、それは恒久不変のことかと云えば、じつは必ずしもそうではない。近代以前には、そもそも物語とはライブで語られるものだったわけです。

 それこそ吟遊詩人とか琵琶法師によって目の前でリアルタイムに生み出されるものだった。さらにさかのぼれば、それこそ寒い夜、燃えさかる人々が火を囲んで語り部による民話とか神話に耳を澄ませた時代があったわけでしょう。

 その種のライブ感は、しかし時代が下り、印刷技術という魔法が生まれるにつれ、失われていきました。それでもまあ、いくらかライブ感がある表現方法は存在すると云っていいでしょう。