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「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)

 有名人について考えたことがあるだろうか。何十冊も著書があったり、しょっちゅうテレビで顔を見せたりしているひとたちのことだ。Twitterでひとこと呟いただけで、たちまち何千もの人々が反応する現代の特権階級。

 かれらはぼくたち一般人の手がとどかない高みに住んでいて、その高さそのものに守られている。だれもがあこがれてやまない新世紀の神々だ。

 しかし、ほんとうにそうだろうか。有名人とはそれほど良いものなのだろうか。ぼくは時々、かれらを可哀想に思うことがある。

 インターネットが発達し、ソーシャルメディアが普及したいま、かれらの高さは昔ほど絶対的なものではなくなった。いまではどんな無名人も有名人を嘲り、ののしることができるのだ。

 わずか10年ほどで世界のルールは書き換わってしまったわけだ。こういう時代において有名人であることは、昔ほど良いことには思えない。

 いま、すべての有名人は視線の牢獄のなかに住んでいる。その一挙手一投足を監視され、判定され、批判される。それが有名人が抱える宿命なのだ。

 かれらはたったひとことの失言で大罪人のように石を投げられる。おそらくは有名人であることそのものが罪だとみなされているのかもしれない。

 かれらにできることは、せいぜい品行方正にし、スキャンダルに飢えた群衆にネタを提供しないよう気をつけることくらい。そしてそれもほとんどの場合、うまくいかない。

 なぜならひとはそこまで完璧ではありえないものだからだ。たくさんの有名人が些細な失敗をとがめたてられて栄光の座から滑落していった。そういう光景を見るたびに、ぼくは心から思ったものだ。有名人にだけはなりたくないな、と。

 こう書くといまにも「心配しなくてもどうせなれやしねえよ」という罵声が飛んできそうだが、そんなことは百も承知の上で、あえていおう。もし何かの奇跡が起こり、有名人になるチャンスが得られたとしても、ぼくはそれに飛び乗りたくはない。

 いま、有名人であることはあまりにも対価が大きすぎる。たしかに得るものはあるかもしれないが、失うもののほうがはるかに大きいように思えてならない。

 もちろん、何らかの成功の結果として、いわば副産物として有名人になることは、ひとつの必然として甘受しなければならないかもしれない。

 しかし、積極的に「有名人になること」を目ざすつもりはまったくないし、もし何かの偶然で有名になってしまったとしたら、ひどい災難だと思うだろう。