バガボンド(34) (モーニング KC)

 「最強」。その概念はいつの時代も少年漫画にとって重要だった。いや、むしろ少年漫画が始まるはるか前から「最強なのはだれか?」というテーマの物語は存在したといっていいだろう。その歴史はさかのぼれば神話時代にまで至るかもしれない。

 しかし、ちょっと考えてみればこの概念が実体のない幻想であることがわかる。しょせん生身で核兵器に勝てるわけでなし、最強とはいってもむなしいものではないか。何より、最強という概念を突き詰めて考えていくと、際限がない話に至る。

 『ドラゴンボール』の孫悟空はたしかに最強の戦士だったかもしれないが、かれの前には次々とより強い相手があらわれてくる。最強を証明するためには、永遠に戦いつづけ、勝ちつづける必要があるのだ。

 その「永遠の戦い」構造を告発したのが『幽☆遊☆白書』で、ある敵キャラクターが「オレ達はもう飽きたんだ お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい」といって去っていく展開には唖然とさせられたものだ。

 「最強」はどこまで行ってもむなしい幻影であるに過ぎない。この認識を最もソフィスティケートされた形で提示したのが荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』だろう。この作品では「スタンドに強いとか弱いという概念はない」と明確に定義され、勝負は個性の差だとか精神力の差によって決着することになる。

 当然、ただひとりの最強は存在せず、優劣もまたない。あえていうなら、最も精神力が強く、最も戦い慣れている人間が最強といえるかもしれないが、それもしょせんは総体的な評価だ。

 こういう「すべては相対的」「強さとか弱さといったものは実在しない」という価値観はとても知的でクールだといえる。しかし、それでは飽き足らないひともいるだろう。たとえば『刃牙』シリーズの板垣恵介などはとてもそんなあいまいな価値観は受けいれられないに違いない。

 かれにとって最強とはもっと実体的な価値であり、「とにかく最強だから最強」というものなのだ。当然、この観念を突き詰めていけば物語は滑稽とも思えるところへ至らざるをえない。「実体としての最強」を描く以上、拳銃やライフルはもちろん、毒ガスや爆弾やミサイル、果ては核兵器とも最強を競わなければならないのだから。