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 電子書籍新刊『Simple is the worst -単純すぎる扇動言論がこの世界を焼き尽くす-』をAmazon Kindle Storeにて(ようやく)販売開始ました。ぱちぱちぱちぱち。

 まあ、そういうわけでひさしぶりの新刊なのですが、原稿そのものは随分前からできていました。ちなみに『ヲタスピ(仮題)』上下巻の原稿もすでにしあがっています。なぜすぐに出ないんでしょうね。不思議だ。

 まあそれはともかく。『Simple is the worst』はタイトルの通り、「単純すぎる言説」を批判する内容となっています。

 シンプル・イズ・ザ・ベスト。一般に、世間ではそのようにいわれることが多いでしょう。シンプルであることは当然に「良いこと」であり、言葉をもちいるときにはよりシンプルな内容になるよう工夫するべきであると。しかし、本書の内容はそれとは正反対です。

 シンプル・イズ・ザ・ワースト。本書は「シンプルであること」がときに非常な問題を孕むことを指摘し、多数の参考資料をもとに、その問題を解決するためにはどうすれば良いかを語っています。

 ただし、単にシンプルさを否定しているわけではありません。本書で問題として取り上げるのはあくまで「過剰な単純さ」であり、決してシンプルであろうとすることそのものを問題視しているわけではありません。

 アインシュタインがいうところの「simple(適切な単純さ)」と「simpler(過剰な単純さ)」の差はどこにあるのか、それもまた本書のテーマのひとつといって良いでしょう。

 また、本書は男性と女性、右翼と左翼、フェミニズムとアンチフェミニズム、リベラルとアンチリベラルといった、ネットでよくみられる素朴な対立項を解体することも目的としています。

 このような一見すると不倶戴天の関係は、しかし、その実、見た目ほどわかりやすい対立を抱えているわけではないと著者は考えます。

 じっさい、普段からソーシャルメディアをお使いの方のなかには、このような対立する党派の人間が延々と議論ともいえないようないがみあいを続けているところを見てうんざりしたこともおありなのではないでしょうか?

 Twitterなどでは一見するとほとんどすべての人間が対立する派閥のどちらかに属しているように見えてしまう一面がありますが、じっさいにはどちらにも属さない「サイレント・マジョリティ」が大勢いるが大勢いるはずです。

 本書の想定読者の第一はまさにそのような方たちです。もし、あなたにそのようなところがあるとすれば、本書を読み、いっしょに問題についてお考えになってくだされば幸いです。現在、特価100円で販売ちうです。よろしくお願いいたします。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6MY3WY8

 ちなみに、新刊発売記念の販促企画ということで、以下のツイートをリツイートすると5000円+αが当たります。ぜひ、RTしていただけると非常に助かります。よろしくお願いします。

https://twitter.com/kaien/status/1663675372851056640

 以下に、本編の冒頭第一章までを掲載しておきます。

 まえがき

「今や社会そのもの、さらには社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」が、あらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。だが、そのうちかなり正しいと言えるものさえ一つもない。」

 経営学の巨人ピーター・ドラッカーが著書『新しい現実』のなかでこのように述べてからすでに四半世紀が経ちます。

 その間も社会はいっそうの複雑化と不透明化を遂げ、ドラッカーが「新しい現実」と呼んだその難解な社会状況を作り上げています。

 もはやきわめて多面的な社会の全体像を理解している者はひとりもおらず、諸々の問題に対して唯一にして明快な「正しい答え」を見出すことは不可能になってしまったかのようです。

 たとえば原発稼働問題や少子化問題ひとつ取ってみても、往古、アレクサンドロス大王が一刀両断したというゴルディアスの結び目さながら、あまりにも多くの事情が絡み合っていて、シンプルに解き明かすことはきわめてむずかしいでしょう。

 もちろん、それこそ現代のアレクサンドロスたらんと、自分こそはこの時代と社会に対して明快な処方箋を提示する人物は多数存在します。

 しかし、その意見に対しては同程度の説得力を持つべつの意見が必ず存在し、熾烈な言論闘争が繰り広げられることになります。そして、その双方が自分の主張こそ絶対的に正しいとみなしているようなのです。

 分断と対立の時代。

 思えばドラッカーが上記の内容を記したのは1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が本格的に終わりを告げた年のことでした。

 善悪も成否もすっかり理解しづらくなってしまった現代の社会が冷戦終結による「大きな物語」の失墜から始まるとすれば、わたしたちはまさに「混迷の三分の一世紀」を見て来たことになります。

 そういうわけで、何もかも複雑で手に負えない時代であるわけですが、逆説的なことに、まさにそうであるからこそ、世界各地で極度に単純化された言説が飛び交っています。

 もちろん、粗雑なまでに単純な扇動が人々を動員する事態はいまに始まったことではありません。

 文豪ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読むとき、わたしたちは人々を突き動かすアジテーションの実体が何も変わっていないことに苦笑させられるでしょう。

 しかし、そうはいってもインターネット、特にいわゆるソーシャルメディアを通して「インフルエンサー」たちがアジテーションを続け、影響力を発揮する現代特有の問題は看過できないものがあります。

 わたしの目から見ると、そういったインターネット・インフルエンサーの意見はしばしばあまりにも単純すぎます。

 必ずしも端的に間違えているというのではありません。ただ、きわめて複雑で難解な問題をシンプルに読み解きすぎている、極端な党派性に拠って自派の正統性を盲目的に信頼しすぎている、そのような印象を受けます。

 ドラッカーがいうには、「あまりに複雑」なこの社会に対して「正しい答え」は「複数ある」。

 ですが、それにもかかわらず、その複数の「答え」のもち主がいずれも自派の主張のみが絶対的に正しいと主張し、他派を揶揄し嘲弄し罵倒し攻撃する、「合理的な批判」という美名のもとに。そのような事態をあまりに多く見かけることになりました。

 それは思想的に右派であるか左派かといった違いに依存しません。むしろもはやイデオロギー的な左右など、表面的な差異に過ぎないようにすら感じられるほどです。

 たしかに、ものごとをよりシンプルに切り詰めて考えることを奨める「オッカムの剃刀」という言葉があるように、複雑なことを単純化して捉えることは重要です。

 大半の人はあまりに複雑すぎる情報を一瞬で把握できるような特殊な頭脳を持っていないので、わかりやすく説明することによって初めて他者の理解を得られる一面はあります。

 とはいえ、その剃刀で色々なものを切り落とし過ぎて本質を見失っては元も子もありません。ものごとを単純化して認識する際には、なるべく丁寧かつ慎重に自己批判しながら実行するべきでしょう。

 それが本書の基本的なスタンスです。

 もっとも、本書の姿勢そのものが丁寧さと慎重さを十分に備えていないというご批判はありえます。

 可能な限り公正を心がけたつもりですが、読者諸氏のご意見ご批判を承れれば幸いです。

 わたしは学者でもなければジャーナリストでもありません。また、べつだん、社会に対し高邁な識見を持っているわけでもなければ、崇高な理想を胸に抱えて活動しているともいえないでしょう。

 一介のライターないしブロガーです。つまりはどこにでもいる在野の一市民に過ぎません。

 しかし、そのわたしの目から見ても、いま、あまりにも単純な言説が飛び交い、しかも一定の支持を受けていることは大きな問題に思えます。

 もちろん、そういった粗雑な意見に対してはそれなりの批判が寄せられるのですが、管見するところ、その批判に対する反応が成熟した対話なり議論なりに進むことはほとんどなく、ただ相手に対する怒りと憎しみが増進しつづけているように思われます。

 本書は、そのような現実に対する危機感から書かれました。

 特定の思想なり理念を指示するものではなく、そういった理想を表明する際の方法論について記したつもりです。

 よろしくご一読をお願いします。