あなたは「オープンダイアローグ」をご存知だろうか。おそらくご存知ではない方のほうが圧倒的に多いだろうと思う。それくらい(少なくとも日本では)マイナーな概念だ。

 すでに何冊か解説書は出ているものの、GoogleやYouTubeで調べてもあまり情報は出てこないし、いまのところ「知る人ぞ知る」言葉に留まっていると思しい。しかし、これが面白い。

 この記事の目的は、いま読んでいるあなたを「オープンダイアローグ沼」にひきずり込んで、可能であればオープンダイアローグをいっしょに体験してみたいというものだ。

 何しろ、「ダイアローグ(対話)」というくらいで、オープンダイアローグはひとりでは実践できない。最低3人、できれば5~6人くらいの参加者が欲しいのだ。

 しかし、友人連中を誘ってもほとんど乗ってこないため、ぼくはいま「対話仲間」を探し求めている。この記事を読まれた方は、よければぼくといっしょに「沼」に足を踏み入れてみてほしい。

 大丈夫。決して底なし沼というわけじゃないし、その先には、ちょっといままで経験したことがない領域がひろがっている、かもしれない。

「オープンダイアローグ」とは何か?


 まずは「オープンダイアローグ」という言葉の説明から始めるべきだろう。それは、フィンランドのとある病院発祥の対話の手法である。何らかの精神病を初めとするさまざまな困難を抱えた当事者を関係者が囲んで対話を行う。

 ひと言で対話といっても色々なやり方があるわけだが、オープンダイアローグの特徴は関係者全員が車座になって話し合うところにある。

 そのなかにはいわゆる「患者」も含まれていれば、「医師」や「看護師」、「心理士」、「患者家族」も属することになるわけだが、そこに「医師は先生だから上」とか「患者は治療してもらう立場だから下」というような権力関係はないとされる。

 もちろん、そうはいっても現実にはそうはいかないだろう、と疑いたくなるところだ。やはり医師と患者のあいだには非対称な権力関係が必然的に紛れ込むのではないか、と。

 そう考えるのは自然なことだが、じっさいのオープンダイアローグの動画などを見てみると、この療法においてはわりとほんとうに対等に近い関係が維持されているように見える。

 これは「医師」と「患者」が一対一で向かい合う従来の治療現場では考えづらいことだろう。いままでの治療現場では、いわゆるカウンセリングもそうだと思うのだが、どうしても権力関係を排除し切れなかった。

 というか、二者が一対一で向かい合うと、そこにはどうしても権力関係が発生してしまうのだ。オープンダイアローグはその「閉じた」関係を三者以上の関係に開くことによって、権力をフラットにする。「開かれた対話」と名づけられたゆえんだろう。

 もうひとつ、オープンダイアローグには斬新な特徴がある。それは「患者のいないところで患者に関する話はしない」ということだ。つまり、患者の治療方針など、患者に関するすべての情報を患者や患者家族に対して公開してしまうのである。

 通常は医師と患者には、病気についての情報格差があるものだが、オープンダイアローグではそれも存在しないことになる。


オープンダイアローグのエビデンス

 オープンダイアローグの目的は、「患者」の「モノローグ(独白)」を「ダイアローグ(対話)」に開くことである。

 これは多くの方にご理解いただけると思うのだが、人間、ひとりで延々と考え込んでいると、ときに病的なほど不健康な方向に発想が飛躍していくものだ。

 その「不健康なひとり言」を「健康な対話」に開いていくための方法論、それがオープンダイアローグだということもできる。

 ここまで読んで、「なるほど。それは良さそうな対話のやり方かもしれないが、軽い悩みはともかく、重度の精神病などに対してはじっさいのところ、ほとんど効果はないのではないか」と思われた方もいるかもしれない。

 あるいは、オープンダイアローグに対して何か怪しげな印象を抱いた方もいらっしゃることだろう。つまりは疑似科学か代替医療のようなものなのではないかと思われた方の感性はまっとうである。

 しかし、そうではない。オープンダイアローグにははっきりと統計的なエビデンスがある。そして、驚くべきことに、いままで薬物療法以外はほとんど効果が見込めないとされていた重い統合失調症などもオープンダイアローグは治してしまえるらしいのである。

 もっとも、何しろ発祥は遠いフィンランドのことだから、いま、まだ日本では十分なエビデンスが積み重ねられているとはいえない。ただ、オープンダイアローグをアヤシイものと見ることはやはり一面的な見方であるとはいえそうだ。何しろ、たしかに効果があるというデータが上がっているのだから。

 Wikipediaによると、オープンダイアローグは以下のような成績を残している。

この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮された。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0

オープンダイアローグはどのように行えば良いか?


 オープンダイアローグを行うためには、数年間にわたる研修を通して、それなりの技能と専門知識を身につける必要があるようだ。そして、いまのところ、その資格を取得している人は日本には何人もいない状況らしい。

 まあ、さすがにフィンランドまで行って何年もかけて資格を取って来るのはラクじゃないよね……。

 そういうわけで、しろうとが本格的なオープンダイアローグを行うことはむずかしいのだが、その形式を真似した「なんちゃってオープンダイアローグ」ならできるだろう。

 じっさい、オープンダイアローグの形式そのものはごくシンプルで、特に「秘密の技術」みたいなものがあるわけではないというから、何となくマネしてみるくらいならしろうとでもできる、らしい。

 何しろ、オープンダイアローグの日本への伝道師であるところの斎藤環さんの本にそう書かれている。そして、ぼくが何冊か本を読んでみたところでは、何だかとても面白そうなのである。

 オープンダイアローグは、かならずしも精神病の治療法に留まるものではない。じつに色々な悩みの解決に使える対話のやり方なのであって、日本ではひきこもりの解決に応用されることが期待されていたりする。

 というわけで! ぼくは一度、「オンライン(なんちゃって)オープンダイアローグ」をやってみようと思う。そのためにLINEでオープンチャットを作った。もしお暇な方がいらっしゃったら、ぜひ、入ってみてください。

 人数がそろったら(ほんの数名で十分だ)、スケジュールを合わせてやってみましょう。その際は、参加者のだれかが悩みを持ち込んでも良いし、だれも話したい人がいないようならぼくが悩みを吐き出させてもらう。

 もちろん、統合失調症は治せないと思うが、より軽い悩みなら案外軽くなったりすることもあるかもしれない。そうでなくても、失うものは特にないのではないだろうか。そう思われる方は以下のLINEオープンチャットにご参加を。よろ。

「なんちゃってオープンダイアローグでお悩み解決!」
https://line.me/ti/g2/3zLYUWG79aYjah4zR0BDyA

「議論」ではなく「対話」の方向へ


 ここからは余談になるが、いま、ぼくがオープンダイアローグについて書いていて思い出すのは、ネット論客である青識亜論さんのことである。

 かれは一面でアンチフェミの立場に立ちながら、つねに「対話」の重要性を説き、意見が対立するフェミニストと「対話」を望んでいると語っている。

 それ自体は素晴らしいことだと思う。対話が途絶えるとき、暴力が生まれる。逆説的ではあるが、最も対話不可能と思われる相手とこそ対話を続けなければならない。ぼくもそう思う。

 しかし、一方でぼくは青識さんのともすれば攻撃的な姿勢に違和を感じるのである。かれは「対話」の相手を論理でもって徹底的に追い詰め、皮肉や揶揄で攻撃することをためらわれないように見える。それは望ましい「対話」の姿勢だろうか。

 ぼくには、青識さんは「対話」を望んでいるといいながら、その実、「議論」をこそ希望しているように見えてならないのである。というか、おそらく青識さんは「対話」と「議論」を同じ概念として区別していないのだろう。

 あるいは、「対話」を「議論」を包括した概念として捉えているのか。だが、ぼくにいわせれば「対話」と「議論」は異なる概念だ。

 何といっても「対話」の目的が「その対話を続けること」でしかないのに対し、「議論」の目的は「自分の理屈で相手を説得すること」である。違っていると考えることが当然なのではないか。

 ただ、言葉の使い方はそれぞれだし、ぼくには青識さんを批判する意図はない。その上でひとつ思うのは、ぼくの言葉でいう「議論」をいくら繰り返したところで、あまり相互理解は進まないのではないということだ。

 ぼくは最終的に「議論」は避けがたいにしろ、その前段階として「対話」が必要だと考える。何のために? お互いを知るためにである。

問題の地下茎をさぐれ!


 べつに追従するつもりはないが、青識さんの論理展開はいつもクリアーで、きわめてわかりやすい。説得力もある。だが、それにもかかわらずかれは、少なくともいまのところフェミニストを説得することに成功していないように見える。

 もちろん、それは非論理的なフェミニストたちが悪いのであって、青識さんに責任はない――そうだろうか? しかし、その立場に立つ限り、アンチフェミとフェミニストはいつまで経っても平行線の「議論」を続けるほかないだろう。

 人間は結局、論理だけで納得する生き物ではない。初めから自分のなかで「正しさ」を決定していて、後から理屈を考えるようなところが、だれにでもあるはずだ。

 もちろんいうまでもなく、理想をいうなら、たとえ感情的に納得しがたい理屈であっても、論理がそれを指し示すのならきちんと受け入れていくことが合理的な姿勢であると思われる。

 ただ、それはやはり建前であって、現実はそうはいかないことが多々あると思うのだ。何より、「感情(お気持ち)」を論理の下位に置き、それを理屈で封印することを求める限り、現実的には「議論」はいつまでも先に進まない。

 あなたはインターネットで繰り広げられる「議論」がロジックのやり取りだけで綺麗に決着を見るところを見たことがあるだろうか。ぼくはない。それは人間がやはり、どんなに理性的に振る舞おうとしても感情を無視し切れない生きものであることの証左だと思う。

 だからこそ、そこで「対話」が必要となる。フェミニストが正しいのか、アンチフェミが正しいのか、そういった矛盾の故事をそのままなぞるような「絶対正義のぶつけ合い」はとりあえず脇に措いて、相手がどのような「お気持ち」を抱いていて、それがどういう環境から発しているのか、いわばその問題の地下茎を傾聴してみる姿勢がまず要るわけである。

 現在のインターネットで、その実現はむずかしいかもしれないが、それでもぼくはそのような意味での「対話」なくして「分断」の解決はありえないと考えている。

 対話こそは人間の叡智である。ぼくは対話の可能性を信じる。信じつづける。そして、そのためのひとつの方法論として、オープンダイアローグにはつよい関心を抱いているのである。