ども。遥か遠くにかがやくあのリア充の星を目ざし、きょうも一歩、また一歩と進んでいる(つもりの)海燕です。
いやー、リア充への道は果てしなく長い。生きているうちにたどり着けるのかどうか、何かもうかぎりなく怪しいところ。でもね、あこがれるよね、リア充。
そういうわけで、きょうはリア充の必須スキルであるところの「コミュニケーション」について解説した漫画を読んでみました。その名も水谷緑&吉田尚記『コミュ障は治らなくても大丈夫』。
これさえ読めばきょうからぼくもリア充だ! と思ったのですが、これがね……じつに何ともいえない気持ちにさせられる本だったのですよ。どういうことなのか、これから説明しますが、ほんとにちょっと説明しがたい読後感でしたね。いやはやいやはや。
まず、この本ではいわゆる「コミュ障」であるにもかかわらず、なぜかラジオアナウンサーになってしまった著者(吉田尚記)が自分の抱える問題点を分析し、克服していく過程が書かれています。
それは良いんですよ。いくつか非常に参考になるところもあって、「ふむふむ」と関心しながら読んでいました。それが違和感がつのってくるのは、著者が芸人たちのコミュニケーションを学び始めるあたりから。
そこには「相手の発言から2秒間以上空けずに話を相手に投げ返すべき」ということが書かれています。いわば「2秒パスルール」ですね。つまり、話の内容は何でも良いんだと。
ただ、2秒以内に相手にパスしつづけることこそが肝心なのであって、そういう意味でコミュニケーションとは協調のゲームなんだということです。
そして、さらに読み進めると「愚者戦略」という言葉が出て来る。これは「人にバカにされても怒らずへらへらしていろ」というような「戦略」です(ほんとにそう書いてあるのよ)。
その名の通り、あえて愚か者の「キャラ」を受け入れることによって、その場を楽しくさせるのだ、ということなんですね。
ここまで読むと、ぼくははっきりと「ちょっと待って」と思ってしまいました。いや、それはあまりに「浅い」コミュニケーションでしょうと。
ただひたすらにバカのふりをして、「いじられキャラ」になって、2秒以内に言葉をパスしつづける。そういうコミュニケーションを続ければ、たしかに気まずくはならないし、その場の空気も崩さないし、楽しく話ができるかもしれない。
でも、それだけですよね。ただ「2秒パス」を続けるだけで人生を変えるような深い話ができるはずはない。もちろん、初対面の相手とはいきなりそんなに深い話はできないし、する必要もないでしょう。
だから、「2秒パスルール」はある限定された条件のもとでは有効だと思う。とはいえ、すべてのコミュニケーションを「2秒パスルール」や「愚者戦略」で切り抜けようとすることには無理がある。
もっとも、著者もそのことは良くわかっているようで、この本のあとがきにはこう書いてあります。
ただ、もしかしたら気になっている人がいるかもしれません。コミュニケーションは自己表現ではなく、会話の時間を繋いでいくゲーム。そして、相手が答えやすい質問をすることが大切。そんなことをしていたら、薄っぺらい関係しか作れないんじゃないの?と。
もう一つ、大切なことを書いていませんでした。和やかな会話をくり返していると、努力しなくてもいつまでも会話が終わらない相手が不思議と現れます。そういう相手とは、いつの間にか、大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりすることになります。「この人と友達になろう」って思ったり「私たち、友達だよね」って確認をしなくても、一緒にいて楽な人。それこそ、友達、なんじゃないでしょうか。
でも、一足飛びに友達にはなれません。すべては会話からスタートします。普通の会話を繰り返しているうちに、いつの間にか、そう、なるんです。
なるほど。つまり、この本で解説されているのはすべて親しくない人と「浅くて楽しいコミュニケーション」を行うための方法論であって、「「大切なことを打ち明けたり、聞かせあったりする」深くてマジメなコミュニケーション」はその「浅くて楽しいコミュニケーション」を通して「友達(とか恋人とか)」になった相手とだけ行えば良い、ということなのでしょう。
これは良く理解できる。ただ、「浅くて楽しいコミュニケーション」のことだけを「コミュニケーション」と呼ぶのはやめてほしいけれど。
で、また、本書のAmazonレビューにはこのような文章があります。
自分は馬鹿にされても良い、愚者を装ってでも相手を楽しませる。イジられてナンボなんだ、と。
コミュニケーションは対戦型のゲームではなく参加者全員が協力するゲームだから、みんなが楽しくなれば、(自分も含めた)みんなの勝ちなんだと。
それはその通りなのかもしれないけど、それは本当に「楽しい」のだろうかと思ってしまう。少なくとも私はその場で笑えたとしても、次に同じ相手に会う時に気が重くなっていると思う。(だから私はコミュ障なんだろうけど)
著者はコミュニケーションは出世やお金儲けのような利益を得るための『手段』ではなく、それ自体を楽しむことが目的なんだ、とおっしゃるが、私は読めば読むほど「こんなこと、何か利益でも得られないとやってられないよ…」という気になりました。
これ、吉田さんのコミュニケーション理論に対する非常に本質的な批判だと思うんですよ。
あるいは、吉田さん本人は「2秒パスルール」や「愚者戦略」に基づくスピーディーな心から楽しめる人なのかもしれません。しかし、そういうやり取りを楽しいと思わない人は大勢いるはずです。
そういう人はどうすれば良いのか? そもそも浅いコミュニケーションができなければ深いコミュニケーションを取れる相手を見つけることはできないのだから、とりあえず浅いコミュニケーションのやり方、つまり「2秒パスルール」や「愚者戦略」を学ぶべきなのか? しかし、どうしてもそれがイヤだったら?
何より、ぼく自身、「2秒パスルール」や「愚者戦略」のようなやり方がコミュニケーションの本質だとか奥義だと思われると非常にイヤだな、と思のです。
吉田さんは、コミュニケーションというゲームに参加するプレイヤーたちの共通の敵は「気まずさ」だと書いています。つまり、浅いコミュニケーションにおいていちばん大事なことは相手と気まずくならないことなのだ、ということですね。
そのためにこそ、2秒以内に会話を相手に投げ返したり、真剣な顔をせずへらへらしたりする必要がある。しかし、ほんとうにそうでしょうか? もちろん、ほんとうに「浅い」内容しか理解できない相手とのあいだでは、そのようなやり方を採用するしかないかもしれません。
けれど、もう少し「深い」話ができそうな人が相手なら、たとえ親しい「友達」でなくても、もう少し違うやり方を試してみても良いのではないでしょうか? ぼくはそう思います。
とはいえ、この本は非常に面白いひとつの事実を教えてくれています。つまり、一般にコミュニケーションと呼ばれているものには、じっさいには「深さ」のレベルがあり、「浅い(表面的な)」コミュニケーションと「深い(熟慮を要する)」コミュニケーションはまったく違う性質のものだということです。
で、いささか唐突ではありますが、ここでぼくは非モテ界隈でよく聞かれる話を思い出すのです。つまり、「女は「男らしく」暴力的な男を好むものだ」という話です。無関係に思われるかもしれませんが、まあ、読み進めてみてください。
この話、かぎりなくマユツバではあるのですが、そうかといって否定できない真実の響きを秘めているように思います。というのも、少女漫画などを読むと、よく暴力的としかいいようがないイケメンの「ドS男子」が出て来て、主人公をいじめながら愛の言葉をささやいたりしているからです。
もちろん、それはフィクションであるに過ぎませんが、男性向けの漫画と同じく、現実の嗜好を繁栄している一面はあると思います。
で、それだけだと、まさに非モテの恨み節というか、「どうせ「ただしイケメンに限る」なんだろ?」みたいな不毛な話にしかならないのですが、面白いのは女性のほうも「男は「女らしく」従順な女を好むものだ」と考えている人がたくさんいるということなんですよね。
先ほどの『コミュ障は治らなくても大丈夫』と同じ水谷緑さんに『男との付き合い方がわからない』という本があるのですが、この本ではまさにそういうことが書かれています。
女性から見た男性の真実というか、まさに「ただしイケメンに限る」の裏返し、「ただし従順で貞淑で清楚な可愛い女に限る」というわけですね。
そして、ぼくもひとりの男性として、少なくとも「ただしイケメンに限る」と同じくらいには、この言葉が真実であると感じます。
しかし――ほんとうにそうなのでしょうか? 男性はみながみな、従順で貞淑な女だけを好み、女性はだれもがマッチョな金持ちのイケメンだけを好きになるものなのでしょうか? そうではない選択はすべて「妥協」の産物なのでしょうか?
ぼくはそうは思わないのですよ。本来、男性にしろ女性にしろ、好みは多様だと考えます。つまり、ほんとうは多様な需要があるはずだと思うのです。繊細な男性が好きだという女性がかなりの割合でいてもおかしくないし、気の強い女性が好きな男性だってそれなりにいるはずだと。
それなら、なぜ、奇妙なほど男女の「好み」は一様化している(ように見える)のか? そう、ぼくはその原因こそが「ジェンダーロールの呪い」だと思います。
つまり、じっさいには多様な需要と供給があるはずの恋愛マーケットのプレイヤーたちに「男は男らしいほうが良いに決まってる」とか「女は女らしいほうが良いに違いない」と思わせている「呪い」がある。それが「ジェンダー」なのだと。
ただし、ぼくは一部のフェミニストたちのように「ジェンダーの押しつけは悪なのだから、人をそこから解放しなければならない」といった考え方はしません。それはあまりにも単純すぎる見方に思えます。
じっさいには、ジェンダーにはある種の魅力がある。人はそれをむりやり押しつけられてジェンダーに従うだけではなく、その魅力に惹かれて自らジェンダーロールを演じるようになるのです。つまり、「ジェンダーにはアメの側面とムチの側面がある」ということ。
そのジェンダーの魅力とは、つまり、「ジェンダーロールに沿った行動をしていれば異性からの評価が上がる」ということです。より簡単にいい換えるなら、「男らしく」、あるいは「女らしく」していたほうが、モテやすい。
そういう意味では、非モテの人たちが言うことには、一面の真実がたしかにある。ぼくもたしかにそうだと思います。ただし! それはあくまで表面だけのことです。なぜなら、この世には多様な人間が存在し、やはり多様な価値観を抱いているからです。
「男はこうだ」とか「女はああだ」といわれるときの「男」とか「女」とは、まさにジェンダーロールの仮面に過ぎない。その仮面をかぶっていれば、たしかに異性からの評価は上がるかもしれません。
たとえば、女性は可愛い恰好をして清楚を演じて、そのうえで何かと「すごーい!」と男を立てていれば、モテやすくなるのはたしかでしょうね。ですが、それはやはり「浅いコミュニケーション」の方法論に過ぎないのです。
もちろん、男性が「ただしイケメンに限る」とか「女はマッチョで頼りになる男しか好きにならない」というのも、あくまで表面的な話です。
ようするに、不特定多数からやたらと好意を寄せられるという「モテ」とは「浅いレベルのコミュニケーション」の結果にしか過ぎないということ!
いや、もちろん、より「深い」レベルで他者からモテている人もいるのでしょう。めちゃくちゃに人間的魅力があり、異性(や同性)をやたらに惹きつける、そういう人はたしかにいます。ここではそういう人のことを「本物のモテ」といいたいと思います。
もっとも、そういう「本物」はやはり数少ないものです。大半の「モテる男」とか「モテる女」は、容姿とか収入とか、そういう「ジェンダー的長所」に魅力を依存しているのだと思います。
そして、世の中の「モテ本」などを読むと、たいていは意図して「男らしく」なったり、「女らしく」振る舞ったりすることによってモテよう、ということが書かれている。つまり、「男と女ごっこ」を演じさえすれば労せずしてモテるのだ、ということですね。
この手の恋愛観は男女を問わず見られます。いわゆる「恋愛工学」がそうですね。あれは徹底して女性をバカにして下にあつかう方がモテるのだという理論なのですが、その成功率はともかく、たしかにそれでトライアルアンドエラーを繰り返せば、一定の確率で女性と関係を結ぶことができるようになることはたしかだろうとぼくも思います。
そのような「男らしい」態度を好ましいと考える女性は一定数いるはずだからです。それは男性が「女らしい」女性を好む、とされていることの鏡像です。そう、単に「モテ」を目指すのならそれで良い。
しかし、このやり方にはひとつ問題があります。そのようなある種のジェンダーロールになり切る方法論を使っていると、モテればモテるほど異性が嫌いになっていくということです。
なぜか。それはジェンダーロールにもとづく「浅いコミュニケーション」にひっかかって拠って来る異性がバカにしか見えないからです。
この種のモテ理論は、「どうせ男はこういう女が好きなんだろ」とか「どうせ女はこういう男が好きなんだろ」という、一種の人間に対するニヒリズムが根底にある。
そして、恋愛を、あるいはコミュニケーションをそのような「浅い」ゲームだと認識している限り、「深く」相手を知ることはできない。それは人間を嫌いにもなるだろう、と思うところです。
それでもモテるなら良いだろうと思うかもしれません。そうでしょうか? 昔読んだ本に『モテる小説』という作品があります。この本の主人公は、モテる方法について考えに考えたあげく、最後にはネットで見つけた適当な相手にひたすら性的な誘いのメールを送りつけるようになります。
もちろん、その大半は断られたり無視されることはわかり切っている。それでも一定の割合で誘いに乗る相手はいる。その相手との関係を増やしていけば良い、という理屈なのです。
初めてこの本を読んだとき、ぼくはひとつの根本的な疑問を抱かざるを得ませんでした。「で、それって楽しいの?」と。ぼくにはこの主人公が究極的な本末転倒に陥っているように思われてならなかったのです。
楽しい時間を過ごしたいがために恋愛をするはずなのに、それをただの「退屈な作業」にまで貶めてどうする、と。もっとも、いや、楽しいかどうかという話ではないのだ、という人もいるでしょう。
重要なのはセックスができるかどうかであり、性欲さえ効率良く満たせるならそれに越したことはないのだ、と。そういう人はそれでかまわないのかもしれません。ですが、それを一生続けられる人は少ないだろうとぼくは見ます。
それで「モテ」たとしても、大半の人はどこかでむなしくなるはず。なぜなら、そこには「ほんとうの自分」を自ら開示し、「ほんとうの相手」を知ろうとするという意味での「深いコミュニケーション」が決定的に、そして致命的に欠けているからです。
「深いコミュニケーション」を抜きにして、いくらからだを重ねたところでむなしいのではないか、とぼくは考えます。ただ、それはぼくの個人的な価値観ですから、「女性に求めるものはセックスだけだ」とか、「男性に求めるものは金銭だけだ」というような価値観も否定はしません。
とはいえ、そういう人にはひとつだけいっておきたいことがあります。それは、「あなたがバカにして見下している男(女)は、同じくらいあなたをバカにしていますよ」ということ。
そう、男も女も、互いに対して呪いをかけあっている。男は女に「もっと可愛い女になれ。そうでないと愛されないぞ」と呪うし、女は男に「もっと強い男になれ。そうでないと選ばれないぞ」と呪う。さらにもちろん、同性への同じような内容の呪いもある。
したがって、非モテは基本的にいくらモテても救われません。かれらが救われるためには、本来、「素顔(ほんとうの自分)」での「深いコミュニケーション」が必要なのに、「仮面(偽りの自分)」で「浅いコミュニケーション」を繰り返し、その結果、「モテ」たとしても救いにはたどり着けないわけです。
そもそも非モテが不特定多数からやたらに好意を寄せられるという意味での「モテ」を目指すこと自体が間違えているというしかない。それは非モテがモテることが不可能だからではありません。むしろ、非モテがモテること自体はまったく不可能ではない。
けれど、いくらモテたところで仮面をかぶったままでは人は救われないのです。綺麗ごとをいうようだけれど、やっぱり人は「ほんとうの自分」をさらして生きていかないと幸せになれないのではないでしょうか。
我孫子武丸さんに「人形シリーズ」というミステリの連絡があるのですが、そのなかで主人公の女性が気の弱い男性を好きになって、より「男らしい」男を拒否するんですね。
ぼくは個人的にその描写に説得力を感じました。それはそういうこともあるだろう、と。すべての女性が同じ需要を抱えているはずはない。
でも、ジェンダーは「男らしく、女らしくしたほうがモテますよ。愛されますよ」と誘惑する。それで世の中ではときに互いに深く軽蔑しあったカップルが生まれるわけです。不幸な話。
このディスコミュニケーションは、ジェンダーが要求する仮面をかぶったままの「浅いコミュニケーション」では解決しません。どうしても「深いコミュニケーション」が必要になるはずです。
しかし、「ほんとうの自分」をさらし、「ほんとうの相手」を知ろうとする(もちろん、どんなに知っても知り尽くせるはずがないことをわかったうえでそうする)という意味での「深いコミュニケーション」は、「ザ・男」とか「ザ・女」のようなジェンダーロールを通したやり取りほど簡単ではありません。
「生身の女とは話が通じない」と思っている男性も、「男はバカばっかりで話し合えない」と感じている女性も多いと思いますが、それはどこまでも相手とのあいだに「浅いコミュニケーション」しか行っていないからです。
その不幸なすれ違いを脱するためには、相手と「深いコミュニケーション」を行うしかないでしょう。ぼくはいわゆる「ルッキズム」とか「収入至上主義」が一概に悪いとは思いません。顔や金だって、人間の重要な要素です。
そうではなくて、「そういった価値観で相手を選んで、自分はほんとうに幸せになれるのか?」と考えなければならないということです。
どこまでも「浅いコミュニケーション」しかできない相手と結婚し、一生、仮面をかぶったまま生活する。そんなことに耐えられる人はそう多くはないでしょう。
そうだとしたら、「深いコミュニケーション」にもとづく恋愛ができる相手を探すべきじゃないかな。それは必ずしも見た目とか収入のスペックとはマッチしないかもしれないし、そのやり方では男性であれ女性であれ、「モテ」になることはできないだろうけれど。
でも、それがたぶん「ほんとうに幸せな恋愛」をするための方法論なのではないかと。ぼくはそう思います。おまえがモテないから自己弁護でそんなことをいっているんだろうと思われるかもしれないけれどね!
うん、「浅い」レベルでモテているという意味での「リア充」にはならなくても良い気がしてきた。もっと「深い」レベルで人と話ができる人間になりたい。まずはそれが目標だと、いまは思います。
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