いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

 長年ブログを書いたりしていると、自分の綴った内容が、とんでもない誤解を受けたと感じることがある。そういうとき、そんな意味ではないのに、どうしてわかってくれないのだろうと思い、怨みに感じたりする。

 しかし、ひとがひとりひとり違っている以上、そしてそのひとりひとりに理解を求めてまわるわけにはいかない以上、誤解されることはある意味ではどうしようもないことだろう。

 もちろん、最大限に誤解されないような書き方を選ぶべきかもしれないが、どんなに慎重に書いたとしても、読む側の理解をひとつに統一することはできない。誤解は必然的に生まれるのだ。ぼくたちは何かを主張する時、誤解されることを覚悟しておく必要がある。

 もっとも、そうはいっても、わかってもらいたいからこそ書くわけだから、誤解はどうしても苛立たしい。あいての読解力を疑いたくなることもある。しかし、いちいち誤解に苛立っているようでは、何かを伝えることなどできない。

 あまりにひどい「読み」は論外かもしれないが、そこまで行かなくても、どうしても想定外の解釈は出て来るものだ。これは言葉で思いを伝えようとすることの限界だということもできる。自然言語の文章というものはどうしようもなく多様な解釈を許すところがあるのだ。いくら精緻な文章であっても、数式のようにひとつの解しか許さないというわけにはいかない。

 あるいは「いいたいことが正確に伝わることがありえる」と考えることがそもそも幻想なのであって、コミュニケーションは誤解しか生まない、ただ程度の差があるだけだ、といい切ることすら可能であるかもしれない。もちろん、極論には違いないが、そう考えておいたほうが苛立ちは少なくなるだろう。

 かつてのウーマン・リブ活動家に田中美津というひとがおり、彼女の言葉に「わかってもらおうと思うは乞食の心」というものがある。「乞食」という表現の是非はともかくとして、とてもわかりやすいいい方だと思う。

 ぼくたちはよくだれかにわかってもらいたいと思う。自分の主張を理解してほしいと願う。しかし、それは「乞食の心」に過ぎないというのだ。わかってもらうことを当然と思い、誤解されることを恐れてはならないということだろう。