昨日のラジオで『せんせいのお人形』の話がちょっと出たので、この作品についてもう少し解説しておこうと思います。
前の記事で書いた通り、『せんせいのお人形』は典型的なピグマリオン・テーマの物語です。男性が女の子を拾って自分の理想通りに育てる、というお話ですね。
いわゆる「落ち物」の一種といえるし、『ラピュタ』のような「空から女の子が降って来る」パターンも同じテーマの変奏曲でしょう。何しろ神話時代からあるテーマですから、きわめて普遍性の高い一種の「王道」といえるかと思います。
男性は女の子を育てたがるものなんですよ。フェミニズム的にいえばマンスプレイニング(男性が女性に対し「上から目線の説教」をしたがる癖)ということになるのでしょうが、面白いのは女性側もこのパターンを愛好しているということです。
あるかっこいい男性に育ててもらうということは、女性にとってもひとつの魅力的な夢物語なのでしょうね。
ここには、あきらかに権力の非対称性があります。男性のほうが優位で、女性のほうは劣位に置かれているわけです。『せんせいのお人形』でもそれは変わらない。
ただ、物語が進展するにつれ、それがどう変わっていくのか、あるいは逆転する可能性もあるのかというところが見どころだし、面白いポイントでもある。
連載はすでに終わっているそうですが、いったいこの物語はどのような結末を迎えるのか? まあ、ストレートに考えると、恋愛関係になって結ばれるという結末が想像されますよね。まさにピグマリオン・テーマの「王道」です。
これは、男性向けでも女性向けでも変わらない。女性向けだと『うさぎドロップ』もそういう結末でしたね。そういえばこのテーマでは清水玲子に『月の子』とか『MAGIC』というちょっとひねった傑作があったなと思い出したりします。『月の子』は超凄いので、オススメ。
ただ、「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし」では凡庸とも思えるので、何かひねったエンディングを期待したいところです。
ちなみに、このピグマリオン・テーマの逆転バージョンを描いたのが、栗本薫の『真夜中の天使』です。
この作品は栗本薫なので両方とも男性なのですが(笑)、最終的に主人公がかれを操っていた支配者を乗り越え、ふたりの関係がゆるやかに逆転していくというところで終わっています。
支配者は奴隷になり、ただの人形であったはずの少年はその奴隷のうえに君臨するというわけです。これは数あるピグマリオン・テーマの変奏曲のなかでも、傑出して素晴らしい結末といえるかと思います。
トーマス・マンの原作をヴィスコンティが映画化した『ヴェニスに死す』なども男性と美少年テーマでしたね。
あくまでも男性と女性という関係では、『GUNSLINGER GIRL』が思いあたりますね。これもじつに素晴らしい傑作でした。初めは「男性」と「少女」の非対称的な権力関係であったものが、しだいに対等な関係が描かれるようになっていくというところにこの作品の特色があります。
ピグマリオン・テーマは「男性」と「少女」の非対称性、歪んだ権力関係にその魅力の根源があるわけですが、これはそこから一歩踏み込んで「対等の関係とは何なのか?」を問うた作品といえるかと思います。
いまとなってはもう過去の作品ではありますが、とても完成度が高いので、ぜひ読んでおいてほしい一作です。
もうひとつ、このテーマではやはりリチャード・コールダーの「自動人形三部作」が凄い(じつはこのシリーズの三作目は出版社が潰れたため未訳で終わってしまったのですが)。
これは「男性」と「少女」の関係性を描いた作品のなかでは、究極的な一作といって良いのではないかと思います。
後半のSF的なオーヴァドライブも含め、きわめてマイナーでマニアックではあるものの、ぼくは大傑作だと捉えています。まあ、いまでは新刊での入手も不可能だし、あらためて読む人もいないだろうけれど。
で、さらに文学的に考えるなら、ナボコフの『ロリータ』、その祖先にあたるポオの『アナベル・リィ』なども男性の少女幻想の系譜にあたるでしょうね。
この「男性」と「少女」の関係性と比べると、最近少しずつ描かれるようになった「女性」と「少年」の関係を描く作品は、少し不利であるようです。
『私の少年』だとか、『魔女集会で会いましょう』だとか、一応、ウケることはウケるし、どうやら需要はあるようなのですが、普遍的に受け入れられるところまでは行かないらしい。
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