鏡リュウジさんという人物をご存知でしょうか。「占星術研究家」を名のる人で、まあ、占いの本を書いているわけなのですが、ぼくはこの人のとても興味があるのです。
というのも、この人、「占星術研究科」であるにもかかわらず、占いの効果を信じていないのですね。占いというものが「あたる」ものだとは考えていない。むしろ、「あたるはずがない」とすら考えているようにも見える。
そして、そのうえでなお占いに価値を見出だすのです。その鏡さんに『「占い脳」でかしこく生きる』という本があって、これが非常におもしろい。
オススメの一冊なのですが、この本が何をいおうとしているのか、わからない人にはわからないかもしれない。そこで、ここでちょっと解説しておこうと思います。
この本では、占いは「科学」とは異なる知の体系であることがていねいに説明されています。そして、「科学」はクールだけれど、「占い」はウェットだと語られているのです。
一般に「科学」はその「再現性」に本質があるとされています。つまり、ある事象が真実なのかどうか、何度でも「再現」してチェックすることができる。それが科学的手法なのだと。
しかし、逆にいえば、この科学的なやり方では「ただ一回限り」の現象について調べることはできません。その「ワン・アンド・オンリー」の現象とは、ほかならぬぼくたちの人生です。
たとえばあなたが何かの災難に出くわしたり、病気にかかったりしたときに「なぜわたしはこの世に生まれてきたのか。そして、なぜこのような災厄に遭い、苦しまなければならないのか」と問うたとして、「科学」は答えを与えてはくれません。
彼女はただ冷ややかにこう告げるだけでしょう。「ただの偶然だ。統計的に見れば一定の割合でありえることであって、何の意味もない」と。これが「科学的真実」。
しかし、このような「この世の無意味さ」に、人間はなかなか耐えることができません。何しろ、この種の「科学的真実」を通すと、「虚無」の深みが垣間見えるのです。
この世のすべては単なる確率的な偶然の連続でしかなく、人間的な意味での善も悪も意味も価値もない混沌にすぎないという「虚無」が。それは、あらゆる倫理的判断や「生きる喜び」を破綻させかねないあまりにも恐ろしい「無意味の深淵」です。
べつだん、善い生き方をしたとして、良い結果が出るとはかぎらない、善悪や倫理などといったものは幻想に過ぎない、むしろ人間がやることなすことすべては無意味で無価値なのだ、このような「真実」をまえにして、それでも充実した「いま」を生きていこうとできる人間がどれほどいるでしょうか。
Amazonの『「占い脳」でかしこく生きる』にこのようなレビューが載っています。
あえて言わせていただきます。占い脳などいりません。人間が人間らしく生きるうえで、自分の能力と人格を陶冶すべきです。その基本もできない中学生、高校生ぐらいが読む本としては不適当な内容です。単なる娯楽本のような体裁をとりながら、社会の中に害悪となる思考を蔓延させるべきではありません。こんな社会だから、こんな環境だから、あんなやつがいるからできないなどと泣き言をいうまえに人間らしく生きようと努力すべきです。出版界の正義はどこにあるのでしょうか。
ぼくにいわせればあまりに無邪気な内容です。鏡さんが本書のなかで語っているのは、そもそもここでいう「人間らしさ」は偶然が支配する世界のなかでまったく通用しない、あるいは少なくとも通用すると考える根拠はないということなのですから。
この世では、どんなに善良に、親切に生きたとしても「不条理」で「理不尽」な出来事が起こる。それは科学的に見れば「無意味な偶然」でしかない。そういうふうに考えると、この世界に一切の救いはありません。ただ荒涼たる「虚無」が広がっているばかりです。
その「虚無」を直視してそれでもつよく生きられる人もいるのかもしれません。たとえば風の谷の姫君ナウシカあたりは、そういう人間なのかも。
しかし、そうではない人間は「この世に生きる意味」を欲します。「いったいなぜわたしは地震に遭ったのか? ガンにかかったのか? 事故で子供を喪わなければならなかったのか?」といった「不条理な出来事」の「答え」を。
そのとき、役に立つのがまさに
コメント
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実践として科学と魔術を両立させる例としては、受験勉強をしつつ合格祈願のお守りを買ったりすることでしょうか?
(著者)
それは一例としてありですね。鏡さんの本でも書かれているのですが、現代において魔術的な思考は社会性を帯びない個人的な行動の範疇であれば許容されているということができます。