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なぜ竈門炭治郎は心折れないのか? 「ケア」と「正義」という両面から考える。

2020/11/25 18:52 投稿

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 「『鬼滅の刃』、中1の娘を魅了した「いい子な主人公・炭治郎」…その〈新しさと古さ〉 「忠」「孝」から「ケア」へ」という記事を読んだ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77444)。

 いまのところ玉石混交、それもいくらか石のほうが多いかもしれない『鬼滅の刃』評のなかで、かなり秀逸な内容である。『鬼滅の刃』を戦前の名作と比較する一方で、炭治郎の倫理的な基盤を「ケアの倫理」に求める発想が光っている。

 筆者は『鬼滅の刃』は大正時代の『猿飛佐助』に似ているという。佐助もまた炭治郎と同様、その超人的な力を利他的にのみ用いる「いい子」なのだ。しかし、著者によれば、佐助と炭治郎の「いい子さ」には大きな違いがある。

「水の呼吸」ならぬ「水遁の術」で洪水を巻き起こせる佐助の超人パワーをもってすれば天下統一も夢ではないはずだが、剣術で降参させた佐助の説教で相手が改心するのが十八番となっている。佐助が戦うのは、あくまで主君のため。「忠」という儒教道徳に従順な「いい子」なのだ。

(中略)

『鬼滅の刃』の炭治郎は親きょうだいを鬼に殺されているが、身体がボロボロになってまで戦うのは「親の仇討ち」のためだけではないし、鬼殺隊を束ねるお館様に忠義を尽くすためというわけでもない。

大正時代の貧しい炭焼き小屋の長男として生まれ、父亡きあと母を支えて家業と弟妹の世話と家事を担っていた炭治郎の正義の基盤は、「ケアの倫理」にある。ケアの倫理とは、儒教道徳のように秩序を守るために一般化された原理ではなく、それぞれ異なる他者の感情を想像し、配慮し、手を差し伸べるといった具体的な実践に価値をおく倫理である。兄とともに家を支えていた長女の禰豆子も、兄の倫理感を継承している。

 『猿飛佐助』は読んだことがないが、なるほど、と思う。ただ、何も戦前までさかのぼらなくても、いままで少年漫画に「いい子」型の主人公がいなかったわけではない。

 いくつも例はあるだろうが、比較的最近の場合だとぼくがすぐに思い浮かぶのはたとえば『魔法先生ネギま!』の主人公ネギである。

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 ネギと炭治郎には共通点が少なくない。ネギも炭治郎に匹敵するであろうほぼ完璧な「いい子」で、エゴイスティックな感情はほとんど見せない。

 また、その冷静な態度が崩れそうになるのは、多くは何者かによって石にされた郷里の家族が関わるときであることも、炭治郎と似ているかもしれない。

 ただ、ネギはおそらくは炭治郎以上に聡明である。まだ十歳でしかないにもかかわらず、かれは徹底して知的かつ倫理的に行動しようとする。むしろ、あまりに知的であり過ぎることが足かせになるほどだ。

 全編にわたって「鬼を殺す」ことの正義をまったく疑っていないように見える炭治郎に比べ、ネギはときに自分の行動の正義を巡る倫理的葛藤、つまり「モラルジレンマ」に捕らわれてしまうのである。

 たとえば、物語前半でのクライマックスである超鈴音(チャオ・リンシェン)との死闘において、ネギはついに「自分の正しさ」を盲目的に信じることができなくなる。相手にも相手の正義があり、もしかしたらそのほうが大局的には正しいのかもしれない。

 持ち前のインテリジェンスでその可能性を悟ったかれは、もはや超のことを単純に悪と見なして対決することはできない。ネギは複数の「正義」が対立し「何が正しいことなのかわからない」というどうしようもない「モラルジレンマ」に陥ったのだ。

 そして、そのとき、ネギはあえて視点を変えれば自分の行動もまた「悪」であることを受け止め、受け入れ、引き受けた上で、それでもなお自分たちの「日常」を守ろうとする道を選んだのだった。この複雑に錯綜した倫理的な思考は『鬼滅の刃』にはあまり見られないものであるように思える。

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 さて、このような「モラルジレンマ」の問題を発達心理学の観点から考えつづけた学者にコールバーグがいる。コールバーグは、「ハインツのジレンマ」と呼ばれる「モラルジレンマ」を用いて人間の道徳的発達段階を測ろうとしたことで知られている。

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ハインツの妻Xが特殊ながんにかかっており、いまにも死にそうな状況に置かれている。Xの担当医は、ハインツに対して、Xが助かるには薬屋Yが発見し、製造・販売している薬を飲む以外助かる方法はないと説明した。その薬は、10万円の製造費に対して、100万円で販売している。

ハインツは、妻を助けようと親戚や知人などからお金を集めたが、半額しか集めることはできなかった。そこでハインツは、Yに事情を説明し、安く売ってくれるか、まずは半額を支払い残りはその後にしてもらおうと交渉した。

しかし、Yは、「私が薬を発見した。私は、それを売って儲けるつもりだ」と言い、取り合ってくれなかった。そこで、悩んだハインツは、薬を盗もうと薬屋に忍び込んだ。

 このとき、ハインツの行動を是とするべきか、非とするべきなのか、とコールバーグは問うのだが、フェミニスト、倫理学者、そして心理学者であるキャロル・ギリガンがこのジレンマに対して疑義と批判を突きつけるために持ち出したのが他ならぬ「ケアの倫理」という概念なのだ(『もうひとつの声』)。

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 ギリガンはコールバーグの道徳的発達の階梯に関する認識を「ケアの倫理」という対抗概念とともに批判する。どういうことなのか、くわしく解説している記事から引用しよう。

コールバーグは、道徳性の発達の基準は、以下のようなプロセスを経るという。まず自己中心主義(例:妻を見殺しにすると社会的制裁をうけるので 盗むべきだ/盗むと警察に捕まってしまうので盗むべきではない)。つぎに社会的視点の獲得(例:妻は薬を必要としているから盗みは正当化される/薬を盗まずに妻が死んでもお金が集まらなかったことは非難されるべきじゃない、従って、盗むという手段に訴える必要はない)。そして原理的な考察にいたるような視点に至る(例:薬を盗むことと「生命(一般)を救うこと」は直結しているので、命を救うためには盗みはやむをえない/ものを盗むことは一般的に反道徳的な行為なので盗んではならない)。

コールバーグの結論は、最終的に女性は自分の行動を正当化できないが、男性は行動の理由を説明できると結論づけているのである。これは、ジャ ン・ピアジェの、女性は抽象的思考ができず、道徳の完成という規範化には至らないという断定と類似のような判断であると言える(ブルジェール 2014:28)。

ギリガンは、このような道徳性の発達性が男性(男の子)を中心的モデルにしているために、ジレンマに直面した女性(女の子)の意見、すなわち, モデル形成から抜け落ちた「もうひとつの声(原題:a Different Voice)」に耳を傾け、そこから導きだせる、ジェンダーと結びついた(あるいはそのように訓育される)倫理観を「ケアの倫理」という形で定式化した。

ギリガンの被験者である、ジャックという男の子は、刑務所に入ってもハインツは奥さんを救うために薬を盗むべきだと答える。他方、エイミーとい う女の子は、盗むべきか/断念すべきかという問いの立て方に対して、薬剤師に話して緊急の事態であり、説得すべきだという問いが前提にする判断とは別のアプローチを考案する(端的に言えば、それこそが関係性の倫理すなわち「ケアの倫理」だということができる)。ギリガンは、コールバーグの論理だと、エイ ミーの判断は「社会的視点」から「原理的な考察」に至る段階で止まっているとするところが(コールバーグ自身の) 問題だとするのである。
ケアの倫理は、正義の倫理とは対極的な位置にある。正義の倫理とは、裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるものである。

したがって、ケアの倫理学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」のことである。そして、ケア倫理の人類学とは、「ケアという実践活動の社 会的属性(=社会的性格)が、ジェンダーにより不均等配分されているのではないかという議論の学問」を文化人類学的に分析する学問である(→「」)

それに対して、ケアの倫理は、ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するものである。

この倫理は、ギリガンは女性(女の子)からの資料収集からモデル化されたが、ジェンダー区分に必ず帰着するわけではなく、男性(男の子)もまた ケアの倫理を共有している――この意義を取り違えるとギリガンはセクシストと誤った理解を誘導することになる。そのため、正義の倫理とケアの倫理は、もちろん共存可能だとギリガンは主張する(cf. 川本 2005:2-3)。


 つまり、より一般的で男性的だとされる「正義の倫理」とは異なる「もうひとつの声」として「ケアの倫理」が存在するといっているわけである。

 「ケアの倫理」に対しては特にフェミニストからそれを女性というジェンダーに紐づけている(ように見える)ことを指していろいろと批判があったようだ。

 しかし、おそらくギリガンはべつだん「女性に特有の倫理」として「ケアの倫理」を持ち出したわけではなく、ただコールバーグやカントやロールズといった男性たちが築いた「正義の倫理学」や道徳発達理論の傍らで無視されている「もうひとつの倫理学」に注目を向けようとしただけなのであろう。

 さて、ここでいちばん最初に引用した記事の話に戻る。その記事では、「ケアの倫理」の話に続いてこのように語られている。

この二人が普段優しい反面、よその子を傷つける強者に危険を顧みず立ち向かう正義心の持ち主だったことが、生前の弟の口から語られる回想シーンがある。二人は鬼が現れる前から、ケアを担う相棒同士だったのだ。鬼とのバトルでも基本的にはお互いを守るように戦うが、兄が自分を守ることで里の人々が守られなくなると判断したら、禰豆子は自らの死を覚悟のうえで兄を蹴り飛ばして民衆を守る戦いへ追いやる。炭治郎も妹の判断を尊重する。二人が戦うのは、自分たちのような悲しい思いをほかの人にさせないためだ。

 はたして炭治郎と禰豆子のこのような行動を「ケアの倫理」という文脈だけで語ることが、あるいは正当化することができるだろうか。

 作中、本来、「優しすぎるほど優しい」少年であるはずの炭治郎はネギのような倫理的な苦悩を見せない。あくまで「人を食う鬼は悪である」という「正義」を信じ抜いて過酷な戦いへ向かうだけである。

 このような炭治郎の倫理観は、それこそネギのそれと比べれば幼く、無邪気で、たとえ「ケアの倫理」を持ち出して考えるとしても、その過激な暴力に対するためらいのなさはまさに倫理的な瑕瑾を抱えているのではないだろうか。

 そうではない、とぼくは思う。炭治郎の行動にはたしかに大いに「ケアの倫理」的な側面があるにせよ、それを「ケアの倫理」だけで説明しきることには無理がある。

 しかし、炭治郎はただ無邪気に自分の倫理的正当性を盲信しているわけではない。炭治郎が鬼を殺すとき、かれを支えているのはもうひとつのモラル、即ち「正義の倫理」なのだ。

 それは「たとえどれほど追い詰められても、自分より弱い人間を食うことは許されない」というシンプルな、あたりまえともいえる倫理である。しかし、作中、炭治郎は「鬼」と「人」との間にこのラインを引き、そこから一歩も下がらない。

 その正義を信じる信念の強さこそが、炭治郎という人間の、底知れない優しさと並ぶ魅力だろう。つまり、炭治郎においては「正義の倫理」と「ケアの倫理」が両立し、しかも補完しあっているのである。

 これこそは、ギリガンが唱えた理想的な倫理状況ではないだろうか。以前、炭次郎は、そして『鬼滅の刃』という作品は、従来の作品では併存させることができなかった「正しさ」と「優しさ」を両立させているところに凄みがある、といった意味のことを書いた。

 それはつまり、「正義」と「ケア」を両立させているということでもある。上記記事によれば「正義の倫理」とは「裁判のようにさまざまな行動のタイプと、それに対する正当性を検討し、行動 とその行動に価値付けれたものに優先順位をつけるべきだと考えるもの」であった。

 そしてまた、「ケアの倫理」とは「ジレンマにある複数の人たちの責任とそれらの関連性(ネットワーク)に着目し、状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式で説明するもの」である。

 つまり、いい換えるなら「正義の倫理」とは論理的、あるいは合理的に善悪是非を決定可能な「割り切れる倫理」であり、「ケアの倫理」とはそのような論理性なり合理性そのものに疑義を差しはさむ「割り切れない倫理」であるということができるだろう。

 ネギは、ある重大な倫理的葛藤状況に直面したとき、自分を純粋な意味での「正義」の執行者と考えることをあきらめ、「悪」としての自分を背負う道を選んだ。あるいはこれは『コードギアス』のルルーシュなどに近い態度であるかもしれない。

 それに対し、炭治郎はそのような「割り切れない問題」に対して「正義の倫理」と「ケアの倫理」を両立させることで臨んでいるのだ。

 そのときによって、かれは「正義」を重視したり、「ケア」を重んじたりする。だからこそ、その片方だけでは対処し切れそうもない問題に対しても炭治郎は答えを出していくことができるのである。

 『鬼滅の刃』には炭治郎が「判断が遅い!」と叱りつけられる有名な場面があるが、炭治郎はほとんどつねに複雑な倫理的葛藤を一瞬で判断することを求められつづける。

 このような場合、「ケアの倫理」の「割り切れなさ」はマイナスに働くだろう。したがって、そのとき、炭治郎は「正義の倫理」で「割り切り」、鬼を殺しつづける。

 だが、それでも炭治郎は「ケアの倫理」的な「状況(文脈)を踏まえたナラティブ な(contextual and narrative)思考様式」を捨て去るわけではない。かれはあくまで強靭に、その両者を保ちつづけるのである。

 これが、これこそが竈門炭治郎の真の素晴らしさだ。ぼくはそう思う。「正義」と「ケア」というふたつの倫理的軸を並立させ補完しあわせることによって初めて、かれはいままで多くの者がただ立ちすくむか、さもなければ人としての優しさを捨て去るしかなかった「モラルジレンマ」を突破するのである。

 なぜ、炭治郎にそのようなことができるのか、議論の余地はまだ残っているが、この記事はここで終わることとしたい。最後まで読んでくださってありがとうございました。またね。 

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