弱いなら弱いままで。

「器」の物語。荒木飛呂彦の場合、庵野秀明の場合、富野由悠季の場合、永野護の場合。(2090文字)

2012/11/22 10:14 投稿

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JOJOmenon (集英社ムック)


 「映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』感想」(http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20121121#p1)。『ヱヴァ』は長く続きすぎているからいいかげん終わらせるべきだ、スタッフは『ヱヴァ』から「卒業」するべきだ、というような結論の記事です。おもしろかったからリンクを張っておきます。

 おもしろかったんだけれど、ぼくは必ずしも賛同しない。というのも、極論するなら、タイトルが『ヱヴァンゲリヲン』であるかどうかということは、大した問題じゃないと思っているからなんですよね。

 ぼくには『ヱヴァンゲリヲン』というタイトルを冠することでお金が集まるなら『ヱヴァンゲリヲン』にしておけばいいんじゃないの、くらいの思いしかない。

 「『ヱヴァ』しか撮れない」「『ヱヴァ』でしかおもしろくならない」といわれがちな庵野監督にしても、「表面的に『ヱヴァ』じゃないもの」を作ることは簡単だと思うんですよ。表面的な部分を変えて、あたかも新しいタイトルであるかのように偽装することはたやすい。

 でも、それをやったところで、本質は『ヱヴァ』と変わりないものになると思うんですよね。逆に『ヱヴァ』というタイトルでまったく新しいことをやることも可能で、じっさいいまそうしている。だから『ヱヴァ』であるか否かはたいした問題ではない。ぼくはそう考えます。

 もちろん、物語には完結を希望するんだけれど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は『新世紀エヴァンゲリオン』の直接的な続編ではないわけで、一から語りなおされている物語に対し、三作目で「いいかげん終われ」という感想は出てこないかな、と。

 つまり庵野監督に対して「同じ作品しか作れない」という非難なり揶揄はあまり意味がないということが言いたい。同じタイトルで延々と新作を作り続けるタイプと、次々と新しいタイトルを作り続けるタイプの違いは、発想力の差じゃない。ただ、タイトルを変えることに意味を見いだせるかどうかに過ぎないと思う。

 どんな作家も一作ごとに人格が変わるわけじゃないわけで、ある意味では同じひとつの作品をタイトルを変えて描き続けているといえないこともない。たとえば永野護などは『ファイブスター物語』一作を延々と描き続けているわけだけれど、やはり「それしか描けない」と見ることは間違えているように思う。

 

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