スマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた』は衝撃的な本である。お笑い芸人として働いていた著者が、突然、ネットで「強姦殺人犯」と決めつけられ、延々と誹謗中傷の被害にあいつづける様が、この本には克明に綴られている。
テレビを初めとするメディアで顔や名前を出している人間ならだれでもかれと同じ被害にあう可能性がある。そういう意味で、戦慄を禁じえない内容であるといえる。この本については、すでに各所でさまざまなひとが意見を述べている。だから、ぼくは同じような内容をくり返すことはやめよう。
ぼくがこの本を読んでつくづく思ったのは、ネットの「匿名性」がいかに人間性を腐らせるかということだ。この本には異常に汚らしい罵言を吐く人々がたくさん出てくるのだが、じっさいに捕まってみると、そのほとんどが「気が弱そうな普通の人」であった。
なかには20代の妊婦(!)も含まれていた。いったい何がかれらをここまで堕落させたのだろう? いうまでもない、何をいったところでだれにも咎められる心配のないネットの心地良い「匿名性」である。
匿名性。ほんとうはネットにそんなものはないということは広く知られるようになっている。ネットに書き込みをすればIPアドレスが記録として残り、あとから調べればだれが書き込んだのか確実にわかってしまうのである。
しかし、それでもなお「匿名神話」は根強い。ネットにならどんな中傷を書き込んでも大丈夫だと信じ込んでいるひとたちは少なくないのだ。じっさい、それは半分は正しい。なぜなら、ネットではその「匿名性」以上にたしかに身を守ってくれるものが存在するからである。
数だ。膨大な人数に紛れることこそが、ネットで誹謗中傷するひとを守ってくれる盾である。じっさい、スマイリーキクチ氏の事件にしても、逮捕された十数名の「犯人」たちは氷山の一角だった。ほかのほとんどの加害者たちは何ら罰を受けることなくのうのうと生活しているのだ。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、集団でひとを中傷する時、ひとはまさか自分の責任が追求されることはないだろう、と考える。一対一の場面ならブレーキを踏むひとでも、一対多の構造になったとき、一瞬で責任意識が崩壊するのだ。
コメント欄の「炎上」などでも同じメカニズムが働く。一般的なTwitterのツイートに比べて、Togetterのコメント欄に著しく口汚い言葉が並ぶのも、そういう理屈だろうと思う。ひとは多数のひとがひとりの人間を攻撃しているのを見ると、自分が攻撃しても平気だろうと考えるものらしい。
そのとき、かれらのキーボードを打つ指を動かすものはなんだろうか? 「悪意」? そうではないと思う。ネットでひとの「罪」を裁いてまわる「私刑執行人」(byイケダハヤト)たちのなかに、純然たる悪意でやっている者など何%いることか。
ほとんどのひとが「自分は正しいことをやっている」と思って他者を中傷しているはずだ。どんな醜悪な誹謗中傷も主観的には正義なのである。どれほど口汚くののしっている場合でも、本人の感覚では的確な批判をしているつもりなのであり、相手が反論して来たとしたらそれは都合のいい言い訳でしかないと感じる。そういうものなのだ。
良し悪しではなく、それが人間なのだ、と理解するしかない。もちろん、大半のまともな人間はそのような誹謗中傷を行ったりしないだろう。しかし、だからといってネットで中傷してまわる人間が特別だということにはならない。だれでも、条件が整えば「私刑執行人」へと堕ちる可能性がある。そう理解しておくべきだろう。
たしかに、自分が定めた「罪人」に対して好き勝手にののしっていれば、さぞ気分がいいだろう、すっきりするだろうとぼくも思う。そこに「罪悪感」は一切ない。なぜなら、自分は正義を執行しているだけなのだから。傍から見て醜いとしかいいようがない言葉でも、本人のつもりでは膺懲の剣なのだ。
暴走する正義。『突然、僕は殺人犯にされた』では、スマイリーキクチ氏がいうところの「ネットの中傷依存」が、どのように人間性をむしばんでしまうかが克明に記されている。
摘発を受けた人物らに対し、O警部補が「スマイリーキクチこと菊池聡は殺人事件とは無関係で、インターネットの書き込みは事実無根である」と伝えると、ほとんどの人が「ネットに洗脳された」「ネットに騙された」「本に騙された」と供述して、「悪いのは嘘の情報を垂れ流した人だ」と他人に責任をなすりつける。
最終的に「仕事のストレス」「人間関係の悩み」「離婚をして辛かった」「私生活がうまくいかず、ムシャクシャしてやった」と被害者意識にすり替わってしまう。
聴取した時の状況をO警部補から聞いているうちに、わけがわからなくなってきたが、摘発を受けた十八名の共通点だけはわかった。
他人の言葉に責任を押しつける。
自分の言葉には責任を持たない。
ブログへのコメントや掲示板への書き込みを読む限り、純粋さは微塵も感じ取れなかった。
(中略)
匿名が自制心を失わせ、集団が自尊心を凶暴化させる。
人の人生を狂わせようと躍起になるあまり、自分の人格が先に狂ったのかもしれない。
他人の人生を狂わせようとすれば、自分の人生までも狂うことに本人が気づいていなかった。
あるいは「ネット中傷依存」はギャンブル依存症などと同じ深刻な依存症のひとつなのかもしれない。ネットではどんな有名人も見下し、叩くことができる。その万能感はさぞかし大きなカタルシスだろう。
しかし、あたりまえだが現実社会では万能感は続かない。その時、ひとはスイッチを切り替えるように人格をチェンジすることができるだろうか。できはしない、とぼくは思う。「ネット中傷依存」は、本人が気づかないうちに、確実にひとのパーソナリティを毀損していくはずだ。
自業自得といえばそれまでだが、ネットで「ひとが皆ばかに見える」万能感を味わえば味わうほど、現実の自分とのギャップは大きくなっていくことだろう。恐ろしい話である。
もちろん、ぼくにとっても他人ごとではない。だれもがネット中傷依存に陥る可能性がある。そしてまた、だれもがネット中傷依存患者たちの標的に選ばれる危険と裏腹に生きている。それが現代という時代なのだ。
(ID:14892065)
ネットが出来る前からあった。
電話やファクシミリで市民団体がやってた。
真犯人以外を祭り上げて私腹を肥やす元祖がマスコミ。
なかには20代の妊婦(!)も含まれていたは妊婦に対する差別。