ぼくの名前が出たので、軽くコメントをさせていただきたいかなと思います。仰られる内容、とても興味深く拝読させていただきました。 この話題のポイントとなるのは「家族とは何か」だと思われます。 死後に母親および姪の面倒まで見るようお願いできるのならば真の意味で家族であるという意見を伺うかぎり、家族とは「人生に付帯する重荷を共有する共同体」と考えられていると推察します。ここで逆にお聞きしてみたいのですが、その人生の重荷は「誰」が「何人」で背負うことを想定されているのでしょうか。 どうしてそんなことを訊くのかといいますと、「人生に付帯する重荷を共有する共同体」という考え方は、たしかに一理あるものですが、人生に付帯する重みを共有する覚悟を相手に求めるのは「重い」と感じるのです。特に少人数であるならその重みは倍増することでしょう。あるいはその重み(覚悟)を有しているから家族なのだと仰られるならそうなのかもしれません。しかし、私個人の信念としましては、そのような重さを他者が共有してくれることを期待するのは過剰であるという思いがあります。 私の昔からの信念のひとつに、あくまで私が背負えるものは「自分の人生の責任」程度であるという思いがあります。それは家族であろうと、友人であろうと共有しきれるものではないのではないでしょうか。人には思想・信仰の自由があり、それはたとえ家族間であっても共有しきれないものです。『酔うと化け物になる父がつい』『ど根性カエルの娘』など、特殊事例と思われるかもしれませんが、家族間でも共有できない領域により家族が破綻する事例も散見されます。 そこで、逆にお尋ねしてみたいのです。他者の人生(そしてその背景の重み)を何人で背負うことを想定されているのでしょうか。一人でしょうか。二人でしょうか。それとも大人数で、でしょうか。 少なくとも私は一人で他者の人生を背負うことは無理だと思っております。基本的には、自分の人生の責任者は自分であると思っている側面があります。それは親であろうと子供であろうと強制することはできないものだと思います。 そのような考え方は孤独である、と仰られるなら確かにそうでしょう。 しかし、自分の背負っているものを完全に共有できなくても良いのではないでしょうか。一部でも共有できる相手(それが家族や友人、ネットの向こうの誰か)がいるなら、それはひとつの支えになる時が来るでしょう。その共有の度合いが高いなら家族もしくは同じ共同体の住人程度の関係といっても良いのではないでしょうか。 まずは自分の人生。可能ならば好ましい他者の手助けができる。当たり前ではないから、やってもらった側は感謝の意を示す。その程度のゆるい軽い関係もあってもいいのではないでしょうか。 追記 その考え方は子どもを放り出すことにつながるのではないかというご意見が出るのではないかと思われたので、簡単にコメントを。 自我の発達に親や周囲の環境が影響する割合は相当に大きいと思います。そのような意味で、親は親で、子は子で「自分の責任」を自覚していけるのが最良ではないでしょうか。また子どもがそれに気づけない場合に、親はどこで線引きをしたらいいのかなどは、その時々の状況に寄るものだと思います。
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ぼくの名前が出たので、軽くコメントをさせていただきたいかなと思います。仰られる内容、とても興味深く拝読させていただきました。
この話題のポイントとなるのは「家族とは何か」だと思われます。
死後に母親および姪の面倒まで見るようお願いできるのならば真の意味で家族であるという意見を伺うかぎり、家族とは「人生に付帯する重荷を共有する共同体」と考えられていると推察します。ここで逆にお聞きしてみたいのですが、その人生の重荷は「誰」が「何人」で背負うことを想定されているのでしょうか。
どうしてそんなことを訊くのかといいますと、「人生に付帯する重荷を共有する共同体」という考え方は、たしかに一理あるものですが、人生に付帯する重みを共有する覚悟を相手に求めるのは「重い」と感じるのです。特に少人数であるならその重みは倍増することでしょう。あるいはその重み(覚悟)を有しているから家族なのだと仰られるならそうなのかもしれません。しかし、私個人の信念としましては、そのような重さを他者が共有してくれることを期待するのは過剰であるという思いがあります。
私の昔からの信念のひとつに、あくまで私が背負えるものは「自分の人生の責任」程度であるという思いがあります。それは家族であろうと、友人であろうと共有しきれるものではないのではないでしょうか。人には思想・信仰の自由があり、それはたとえ家族間であっても共有しきれないものです。『酔うと化け物になる父がつい』『ど根性カエルの娘』など、特殊事例と思われるかもしれませんが、家族間でも共有できない領域により家族が破綻する事例も散見されます。
そこで、逆にお尋ねしてみたいのです。他者の人生(そしてその背景の重み)を何人で背負うことを想定されているのでしょうか。一人でしょうか。二人でしょうか。それとも大人数で、でしょうか。
少なくとも私は一人で他者の人生を背負うことは無理だと思っております。基本的には、自分の人生の責任者は自分であると思っている側面があります。それは親であろうと子供であろうと強制することはできないものだと思います。
そのような考え方は孤独である、と仰られるなら確かにそうでしょう。
しかし、自分の背負っているものを完全に共有できなくても良いのではないでしょうか。一部でも共有できる相手(それが家族や友人、ネットの向こうの誰か)がいるなら、それはひとつの支えになる時が来るでしょう。その共有の度合いが高いなら家族もしくは同じ共同体の住人程度の関係といっても良いのではないでしょうか。
まずは自分の人生。可能ならば好ましい他者の手助けができる。当たり前ではないから、やってもらった側は感謝の意を示す。その程度のゆるい軽い関係もあってもいいのではないでしょうか。
追記
その考え方は子どもを放り出すことにつながるのではないかというご意見が出るのではないかと思われたので、簡単にコメントを。
自我の発達に親や周囲の環境が影響する割合は相当に大きいと思います。そのような意味で、親は親で、子は子で「自分の責任」を自覚していけるのが最良ではないでしょうか。また子どもがそれに気づけない場合に、親はどこで線引きをしたらいいのかなどは、その時々の状況に寄るものだと思います。