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コメント
海燕さん
「家族2.0」について読ませて頂きました。思うところがあって色々と書いていたら結構長くなってしまいましたが、お言葉に甘えてコメント欄に投稿いたします。
僕にもその思いには覚えがあります。新幹線を使えば2時間30分で帰れるとはいえ、郷里から遠く600kmも離れた関東の地で一人暮らしをする自分には、海燕さんの主張は痛いほどよく解ります。
でも、いや、だからこそ、「家族2.0」という関係は決定的なところで“弱い”。そこには苦しみや悲しみといった、人間の弱さの共有が、根の深いところで欠けています。いや、それは「家族2.0」が“意図的に避けたもの”とさえお見受けします。
仰る通り「近代家族」は血でつながれた、断ち切り難い関係です。庶民から芸術家に王族まで、古今東西この「家族」というものに如何程の人間が苦しんできたことか。日本の文学では、島崎藤村『破戒』などが、おそらくその根深い苦しみを語っているでしょう。
『破戒』主人公の丑松は人を導く教師という職業であり、被差別部落民という“血の呪い”を父からひた隠しにするよう戒められた人間です。同じ被差別部落民でありながらも、そのことを隠さない蓮太郎に丑松は強いシンパシーを感じ、自分の出自について悩み、やがては被差別部落民であることを学校の皆の前で“懺悔”し、アメリカへ旅立ってゆきます。
丑松は間違いなく近代家族という“呪い”の犠牲者で、その“呪い”を解くべく、丑松は誰一人自身のことを知らない、それまでの常識さえ通用しないアメリカへ旅立ちました。ある意味で丑松の選択も「家族2.0」を目指したものと言えるでしょう。
ではその後の丑松は、本当に“呪い”は解けたのでしょうか。僕は「No」と明言したい。丑松が親から受け継いだ、いや、“受け継いでしまった”被差別部落民という出自は、彼が生き続けている以上、決して消えない事実です。それはもはや、丑松という存在の一部であり、根源のひとつでもあり、人生の拠り所でもある。
もしそれが忘却の彼方へと消え去れば、彼は“丑松であって丑松でない”別の何者かに変わり果ててしまうのです。あえて問いましょう、「被差別部落民でない丑松が、何故“丑松”である必要があるのだ」と(余談ですが、僕は『破戒』を失敗作と考えています。丑松がアメリカへ旅立ったのは、結局自分の出自を受け入れて乗り越えることができなかったからです。自身の弱さ故、丑松は己の運命から逃げ出した。それこそ藤村の自然主義であり、何も解決しない日本の自然主義文学の限界です)。
話題を少し変えましょう、記事でも挙がっていた『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の京介と桐乃はどうでしょうか。このふたりは間違いなく血で結ばれた「近代家族」の関係です。それと同時にこのふたりは恋愛関係をも結んでしまいました。
この多重関係はほぼ京介主導で作られたものだと僕は考えていて、物語の結末を僕は“京介の勘違い”と視ています。僕に言わせれば、桐乃に対する京介の恋愛感情と京介に関する桐乃の恋愛感情は程遠いところにある。もっと言うと、桐乃は京介に対して“ほとんど恋愛感情を抱いていない”。
それがよく解るのが京介による桐乃への告白の後の、シティホテルでの覚めた桐乃の対応です。勢いで行動を起こした京介に対して、まんざらでもないながらも桐乃は現実を視ている、そしてその現実に桐乃は満足している。だからそれ以上の関係の発展を桐乃は望みませんでした。桐乃は京介が求めているギリギリのところで、あくまで京介とは家族で居ようとしたのだと僕は読みます。
一方満足できなかったのは京介の方で、その後も桐乃に結婚式をせがみ、挙句物語の終末には不意打ちのキスを仕掛けます。「もっともっと」という京介の心理が、行動となって表れている、これらは明らかに家族愛の範疇を逸脱した、異性に対する恋心から来るものです。
桐乃が自分の妹であることを、京介はこの時ほど恨んだことは無いでしょうね。もし桐乃が実妹でなく田村家や新垣家の娘だったら、京介は告白の後“お手本のゲームどおり”行動をしていたでしょう。恋愛感情で結ばれた男女が肉体関係を持つことに、何の不思議が在るでしょうか。
結婚式だってキスだって、ふたりの結びつきの強さを再確認する機会になっていたはずです。しかし物語はあくまで実の兄妹同士のものであって、結構きわどいながらもギリギリのところで踏みとどまった。もしあの一線を超えていたら、行き着く先は『ヨスガノソラ』です。即ち、死ぬか、立ち去るか。
ここで僕は立ち止まって考えるわけです。もし京介と桐乃が兄弟同士でなければ、やっぱりこのふたりの関係はあり得ないんですよ。何故ならその時は桐乃が徹底的に京介を避けて、自分の秘密を明かさないからです。家族でないふたりは当然自分の秘密を打ち明けることも無く、そのきっかけさえ与えることもありません。だってそうでしょう、ココロを許すことのできない人間を、ましてや心底嫌っている十代の異性を、誰が好き好んで自分の部屋に入れるというのです。
そんなことになり得るのは“そうせざるを得ない”関係しかあり得ないんですよ。『俺妹』においてはその関係こそが「家族」なんです。心の底から愛していようが、顔を見ることさえ嫌だろうが、家族である以上は折り合いをつけて共同生活をするしかないんです。ギャルゲーのパッケージを見つけて、それが妹のものだと解ったら、たとえ会話さえ嫌でも妹に届けてやるしか無いんですよ。それさえできないというのであれば、もはやその関係は家族ではないんです。
僕は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を、常に家族愛の物語として読んでいました。京介という主人公はどこまでも“信頼のできない語り部”で、桐乃の世話を焼いては口癖のように「嫌だけどよ」と文末を締めくくっていました。これを京介の照れ隠しだとか、レトリックのワザだとか言って分析することは大いに可能です。むしろその方向性のほうが大いに有り得る。
ですが、そこにはやはり京介の本音も混じっているのだと僕は考えます。一方的に嫌悪の眼差しを向けられていた妹と接するのは嫌なことですし、たとえその問題が解決して友好関係になった後でも、自分以外の厄介事を抱え込むのはやはり負担です。自分の厄介事さえ大変なのですから。僕にも大いに覚えはありますし、おそらく海燕さんにもその経験や記憶はあるでしょう。
でもね、海燕さん。
家族って、それをどこまでも共有するものでしょう?
だから血のつながりも何も無い赤の他人が“結婚”によって家族関係を築く時には「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、この者を“愛し”“敬い”“慈しみ”、命の限り供に生きること」を宣言し、契約するんです。
京介と桐乃をもう一度見てください。時間も空間も飛び越えて、いろんな歓びや苦しみを分かち合い、何とかして供に前に進もうともがいています。桐乃が「同じ趣味の仲間が居ない」と悩んだ時、「自分の小説が盗作された」と知った時、「努力では抗えない才能の壁」に直面した時、桐乃の様々な困難に対して最も真摯に行動したのは、会話さえ避けていたはずの京介です。あやせは気心がしれていた親友だったのに、桐乃が心の底から欲していた趣味の話は出来ませんでした。沙織はアメリカへ飛ぶだけの財力もあったでしょうが、桐乃を迎えには行きませんでした。小説に対する黒猫の擁護は、究極的には桐乃の作品と才能に向けられたものでした。京介だけが“いつでも”“どんな時でも”“無条件に”桐乃の見方であり、理解者だったのです。
そんなふたりを間近で見ていた黒猫は、このふたりの家族という関係が羨ましくて仕方なかったのでしょう。それこそ「その環の中に自分が入る」ということを切望するくらいに。
少々俺妹に傾倒した語りでしたが、海燕さん、どうでしょうか。
こういった僕の価値観から見てみると、海燕さんが提唱する「家族2.0」はどうしても究極的な部分で孤独を背負っているように感じます。
家族が「家族」である以上、1対1の関係だけではなく、その背後に在る全てのものを共有する覚悟が必要なのだと僕は感じます。真奈美は決定的なところでこれを否定し、京介との家族にはなれませんでした。他でもない、桐乃を彼女は否定したのです。
1対1に付帯する“外側の人間関係”をどのように取り扱うか、それが「家族2.0」の大きな課題となるでしょう。かんでさんやてれびんさんとどのようなやり取りをしているかは知る由もありませんが、もしも海燕さんが「俺が死んだら母ちゃんと姪っ子の事をよろしく頼む」などと言うのであれば、その時は真の意味で「家族」なのだと思います。
気が付いたら三千五百文字オーバーの長文になってしまいました、失礼しました。メルマガのネタの足しにでもなれば幸いです。
ぼくの名前が出たので、軽くコメントをさせていただきたいかなと思います。仰られる内容、とても興味深く拝読させていただきました。
この話題のポイントとなるのは「家族とは何か」だと思われます。
死後に母親および姪の面倒まで見るようお願いできるのならば真の意味で家族であるという意見を伺うかぎり、家族とは「人生に付帯する重荷を共有する共同体」と考えられていると推察します。ここで逆にお聞きしてみたいのですが、その人生の重荷は「誰」が「何人」で背負うことを想定されているのでしょうか。
どうしてそんなことを訊くのかといいますと、「人生に付帯する重荷を共有する共同体」という考え方は、たしかに一理あるものですが、人生に付帯する重みを共有する覚悟を相手に求めるのは「重い」と感じるのです。特に少人数であるならその重みは倍増することでしょう。あるいはその重み(覚悟)を有しているから家族なのだと仰られるならそうなのかもしれません。しかし、私個人の信念としましては、そのような重さを他者が共有してくれることを期待するのは過剰であるという思いがあります。
私の昔からの信念のひとつに、あくまで私が背負えるものは「自分の人生の責任」程度であるという思いがあります。それは家族であろうと、友人であろうと共有しきれるものではないのではないでしょうか。人には思想・信仰の自由があり、それはたとえ家族間であっても共有しきれないものです。『酔うと化け物になる父がつい』『ど根性カエルの娘』など、特殊事例と思われるかもしれませんが、家族間でも共有できない領域により家族が破綻する事例も散見されます。
そこで、逆にお尋ねしてみたいのです。他者の人生(そしてその背景の重み)を何人で背負うことを想定されているのでしょうか。一人でしょうか。二人でしょうか。それとも大人数で、でしょうか。
少なくとも私は一人で他者の人生を背負うことは無理だと思っております。基本的には、自分の人生の責任者は自分であると思っている側面があります。それは親であろうと子供であろうと強制することはできないものだと思います。
そのような考え方は孤独である、と仰られるなら確かにそうでしょう。
しかし、自分の背負っているものを完全に共有できなくても良いのではないでしょうか。一部でも共有できる相手(それが家族や友人、ネットの向こうの誰か)がいるなら、それはひとつの支えになる時が来るでしょう。その共有の度合いが高いなら家族もしくは同じ共同体の住人程度の関係といっても良いのではないでしょうか。
まずは自分の人生。可能ならば好ましい他者の手助けができる。当たり前ではないから、やってもらった側は感謝の意を示す。その程度のゆるい軽い関係もあってもいいのではないでしょうか。
追記
その考え方は子どもを放り出すことにつながるのではないかというご意見が出るのではないかと思われたので、簡単にコメントを。
自我の発達に親や周囲の環境が影響する割合は相当に大きいと思います。そのような意味で、親は親で、子は子で「自分の責任」を自覚していけるのが最良ではないでしょうか。また子どもがそれに気づけない場合に、親はどこで線引きをしたらいいのかなどは、その時々の状況に寄るものだと思います。
てれびんさん
ご無沙汰です、その節はありがとうございました。
今回もご意見ありがとうございます。可能な限りお答えしたいと思います。
まず大きな認識の齟齬があると思われるので、その確認からさせてください。
「家族」が共有するものは「重荷」だけではなく、歓びも悲しみも含めた様々な体験や感情、そして大切だと思うものです。その共有は自ら進んで受け持つべきものなのです。時には嫌々ながらにもなるでしょうが、それでも“嫌々ながら自発的に”受け持つのです(例に挙げた京介のギャルゲ配達がコレです)。この“自発的”というのが家族にとって大きなポイントで、それが家族の信頼関係だと僕は考えます。決して相手に要求するものでも、ましてや押し付けるものでもないのです。
「一人で他者の人生を背負うことは無理」という意見には大いに賛成です。それはもはや自分の人生ではなく、他者の人生を生きる事ですから。あるいは「それこそ私の生きがいだ」という人が居るかもしれませんが、そんな人は他者の人生を歩み終えたあとに、例外なく大きな喪失感に直面するでしょう。
大切なのは「あらゆるものを共有する」ことであって、「全てを共有し、肩代わりする」ことでは決して無いということです。当然共有しきれないものだってありますが、それで良いんです。全ての肩代わりなど、人間ではなく神の所業。そこを間違えると破滅しかありません。
「重み(覚悟)を有している」、それも自発的に有するからこその「家族」であり、だからこそ特別な関係なのだと僕は考えるのです。強制されたらその時点で「家族」は崩壊し、ただの家族になり果てます(これがダークサイドの入り口ですね)。なので疑問点にお答えすると、「誰が」はこの自発性を有し、大切なものを共有する者です。「何人で」に決まった数字はありません。たったふたりでも何十人もの大所帯でも、その価値は変わりません。
ご覧の通り、恐ろしく重大なものをとんでもなく希薄な力でつなぎとめていますね。それが家族なんです。僕はこのとんでもなく希薄な力のことを「信頼」あるいは「家族愛」と呼びます。人間が持つ幻のように朧気な、それでいて鋼よりも固い最強の力のひとつです。
「家族2.0」に救われる人は間違いなく存在します。ですが、この希薄で強固な「家族愛」という観点が決定的に欠けていると僕は考えます。そしてその差は、人生の決定的な分岐点に立った時に、鮮明に表れてくるのではないかと思うわけです。その差が僕が言う「孤独」です。
如何でしょうか、疑問にお答えできていれば嬉しいのですが。
ここで答えた内容は、全て「家族」の“表面”の話です。別記事で海燕さんが指摘されている“裏面”のお話は、そちらのコメントを参照頂ければと思います(最も、あちらは少々論が拙いです)。