ぼくはいままで批判と悪口はどこが違うのだろう、そもそも区別できるのだろうか、ということをずーっと考えていたのだが、ふと答えが出た気がするので、ここに記しておく。
まず、そもそも批判とは何だろうか。goo国語辞書には「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。」と記されている。つまりおおまかにいって、他者の間違いや問題を指摘することだといっていいと思う。
たとえば、「1+1=3だ」と主張している人に対し「いやいや、1+1=2だよ」などと指摘することを批判と呼ぶ、といっていいだろう。
問題は、「1+1=2に決まっているのにアホか(笑)」などという口汚い表現で批判する人がいることだ。こういう批判を、ぼくは「悪口」と呼ぶべきだと思う。
悪口は、相手に対する反感や嫌悪といった人間の悪意から出て来るものである。しかし、このようにいうと、おそらく反論が返ってくるだろう。
「自分は悪意でものをいっているのではない。正しいことをいっているだけだ。正しいことを指摘してはいけないのか。お前は他者の間違いを正す自由を否定するのか」と。
そうではない。問題は、なぜその人は他人を批判する際に、あえて皮肉や嫌味や口汚い表現を採用するのかということなのだ。もし、その人がほんとうに相手に自分の主張をわかってほしい、その人に考えを変えてほしいと望んでいるなら、その人に伝わりやすい表現を選ぶはずではないか。
「1+1=2だ、バカ」というより、「そこは1+1=2だと思います。ご一考願います」といったほうが伝わりやすいに決まっている。
あるいは、その人を変えることが目的なのではない、世間一般に対し正しい事実を伝えることが目的なのだというかもしれない。だが、そうだとしても、口汚い言葉を使う意味はない。
むしろ、広く世間一般を説得しようとしているのなら、必然的に丁寧に説明しなければならないはずだ。口汚い言葉を使えば、その人の主張が通りにくくなるのは上に書いた通りあきらかである。
つまり、ここでは「人の考えの間違いを正す」という目的と「口汚くののしる」という方法が矛盾しているのだ。なぜか。方法は現実に採用されたものだから、目的に嘘があると考えるしかない。
つまり、人を口汚く批判する人は、口先では「相手の主張を正したいだけだ」、「それが間違えていることを人々に伝えたいのだ」といっていても、ほんとうはそんなことは望んでいないのだ、ということになる。
なぜだろうか。思うに、相手が反省し考えを変えてしまえば、一方的に批判することができなくなるからではないか。
たとえば、一部のフェミニストは男性の差別的言説を攻撃する時、その男性が変わることを望んでいないような態度を取る。しかし、ほんとうに相手に差別をやめてほしいと望んでいるなら、その男性を説得しやすい言葉を選ぶはずだ。
つまり、そのフェミニストは本心では差別がなくなることなど望んでいない、ただ一方的に差別的な男性を批判しつづけられる状況をこそ望んでいる、ということになる。
そうでないとするなら、なぜ相手や読者一般に伝わりやすい表現を選ばないのか、おかしいではないか。
「人を口汚く批判してはいけない」のではない、「人を口汚く批判することはその人の目的と矛盾している」ということなのだ。結局、「自分は世のため人のために皮肉や嫌味を言っているのだ、口汚い言葉を使っているのだ」ということは嘘だということなのである。
しかし、そういう人は往々にして「いや、自分は世のため人のためにあえてこの表現を選んでいるのだ」というようなことをいう。
だが、それは嘘なのだ。世のため人のためを考えるなら丁寧な表現になる。それは、そうでなければならないと決められているからではなく、そうであったほうが有効に目的を達成できるからだ。
口では「公衆の利益のために批判を展開しているのだ」といっても、それが皮肉や嫌味や悪口を含んでいるのなら、そこには欺瞞があるということになる。
「そうじゃない」というのなら、「では、あなたは何のためにわざわざ人に伝わりにくい表現、つまり目的にそぐさない方法を選んでいるのですか」ということになるだろう。
あるいは、自分の批判が届かないのはそもそも相手の責任である、ということもできるだろう。自分は正しいことをいっているのだから、相手はどんなに皮肉や嫌味を含んでいてもそれを受け取るべきなのだ、と。
しかし、これは理想のためなら現実は無視してもいい、という考え方である。この場合の現実とは「どんな正論であっても、口汚い表現を使えば相手が受け取りにくくなること」だ。
理想としては、その批判が正しければ、たしかにどんなに皮肉をいわれても黙って受け入れるべきかもしれない。しかし、大半の人間はそこまで物わかりが良くないという現実がある。
批判者はその現実を無視していることになるのだ。つまり、その人は何らかの現実的目的のために相手を批判しているわけではないことになる。
問題のある発言をした相手に責任があるのはいいとしよう。しかし、それは相手に責任をかぶせられるなら目的が叶わなくてもかまわない、という考え方ではないか。
いや、自分はただ口汚くののしりたいだけだ、それが目的なのだ、というのなら良い。良くはないが、少なくとも理屈は通っている。
そう、自分が批判した結果、相手の主張が変わらなくても、何も間違いが正されなくても何の問題もない、おれは自分がすっきりしたいだけだ、ということなら少なくとも矛盾はないのである。
たとえば、原子力発電所について嘘をついて風評被害をもたらしている人がいるとしよう。で、その人を口汚く批判している人がいて、批判された人が彼をブロックしてしまったとする。
このとき、批判された側が批判を受け入れるべきであることはたしかだろう。それはそうだと思う。しかし、そもそも何のために批判しているのか、ということなわけだ。
「批判したいから批判しているだけだ。風評被害なんてどうなろうとも知ったことじゃない」ということならたしかに理屈は通っている。
けれど、「自分は風評被害を何とかしたいから批判しているのだ」といっているのなら、そのやり方はおかしい。少なくとも最適な方法ではない。
最適でない方法を取るということは、その理由があることになる。それは何なのか、先に述べたように、多くの場合、「ほんとうは気に入らない相手を口汚く罵ってうさを晴らしたいだけ」ということになるだろう。
あるいはそうではないかもしれないが、少なくとも「風評被害を何とかしたい」ということは嘘だとはいえると思うのだ。風評被害をなくしたいはずなのに、わざわざその目的を達成しづらい方法論を取っているのだから。
たしかに風評被害は相手の責任であるかもしれない。しかし、相手の責任であるのなら風評被害は改善しなくてもいいですね?という話になると思うわけだ。
そこで、そうです、原発で苦しんでいる人のことなんて知ったことじゃありません、というのなら何の文句もない。ぼくはね。心底いやな奴だとは思うが、それだけだ。ただ、そういえる人は少ないとは思う。
以上、「正義のために嫌味をいう奴なんていない」という話でした。おしまい。
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コメント
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(ID:4881032)
棘のある言い方をせずにいられない人は、相手の「人格」と「意見」を同一視しているのではないでしょうか。本来ひとの意見は何かの根拠に基づいて語るものなので、それを変えたいと思うなら根拠の間違いを指摘すればいいし、理屈が通じない相手なら、自分の意見に少しでも共感を持ってもらおうとするのが、地味で歯切れは悪いけれども確実な方法です。
しかし、「いや、相手の意見を変えるには価値観から人格まで全部自分が否定してやらないといけないのだ」というある種潔癖な考えが、嫌味や暴言を言う人の裏にあるように思います。その潔癖感が、「世のため人のため」という感情の基のなっているような…