6月ですね。先月の終わり頃は読書に夢中になったあげく更新をサボってしまいましたが、今月はそんなことがないように注意したいと思います。
しかし、読書という行為は恐ろしい。読まなければ読まないでいられるものを、いったん読み始めると際限なく読みつづけることになってしまう。
これ、読書する人間はみんな知っていることですが、面白い本は文章中に「ハイパーリンク」が張られていて、ほかの本を参照させたくなる仕組みになっているのですね。
これに嵌まってしまうと、もうひたすらに色々な本を読み進めていく羽目になる。
たとえば禅を調べているとその起源である老荘思想について知りたくなり、老荘について調べていると今度は儒教について興味が沸き、儒教について調べていると諸子百家のほかの学派のことも気になってくるというありさまで、まあ限りなく楽しいのですが、まったく切りがありません。
活字中毒とはよくいったもの。まさに読書にはホリックになる危険が秘められているといえるでしょう。
で、そんななかでも面白かったのが安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』。
タイトルが面白そうだったからというくだらない理由で読んだ本ですが、これがめちゃくちゃ刺激的な内容だった。
著者は能楽師なのですが、まさにその視点から破天荒な想像を巡らしていきます。
最初の「はじめに」からしてすごい。
現代は「心の時代」といわれます。
しかし「心」は昔からあったわけではありません。
昔の人間には「心」がなかったのです。
どういうことか?
中国で、いまの漢字の祖先に当たる文字(甲骨文字あるいは金文)が生まれたのは、「殷」の武丁という王の時代、紀元前一三〇〇年ごろのことです。
数え方にもよりますが、そのころすでに、五○○○種類くらいの文字がありました。しかし、そだけたくさんある文字のなかに、「心」に相当する字はありませんでした。「心」という文字を確認できるようになるのは、それから三百年ほどあと、「殷」から「周」に変わった紀元前一○○○年ごろのことです。
このことは、いったい何を意味するのでしょうか?
ひょっとしたら「心」という文字を持たなかった時代、人間は「心」というものも持っていなかったのかもしれない。そのようにいう学者もいます。
この先、長々と本文は続くのですが、いつまでも引用するわけにもいかないのでその部分はカットして代わって説明すると、つまりこういうことらしいのです。
いまから数千年前、人間にはまだ「心」がなかった。ただ「身体的な感覚」のみで生きていた。
その時代、人々には「過去」もなく、「未来」もなく、故に「喪失の哀しみ」も知らず、「将来の不安」も知らなかった。
しかし、ある時、何らかの理由(モノリスと出逢ったのかもしれない)によって、人は「心」を獲得した。
そして、それから「心」はしだいに肥大化していき問題を起こすようになった。
その「心」の問題を解決しようとしたのが三人の聖者――釈迦であり、孔子であり、イエスである。
しかし、現代は「心の時代」と呼ばれるほどになり、かれらの思想ですら問題を解決し切れなくなっている。
そろそろ「心の時代」の「次」が来るのではないだろうか。
うーむ、ほんとうなのかどうか知らないけれど、
コメント
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本は読みましたが、映画は見ていません。
(ID:4881032)
BLUEHEARTSも「歴史が始まる前 人はケダモノだった」と歌っていたのを思い出しました。確かに歴史のどこかの時点で現代人が言う自意識なるものが生成されたのは事実ですものね。。。
社会の変動と人間関係の複雑さが、「悩める意識」を生んだのだとすると、仮に完全に変化のない社会が到来すれば人間の悩みは無くなるのかも。「ハーモニー」のような技術に頼らなくても。とか考えるとSF的想像がはかどります。
(著者)
人工知能に期待したいところです。