オネスティ

 石田衣良『オネスティ』を読んだ。

 石田の得意とする恋愛小説なのだが、普通の恋愛ものとは一風変わっている。

 幼い頃、運命的に出逢い、一生をともにする間柄となったカイとミノリふたりを描く物語。

 そこまでは普通なのだが、このふたり、決して肉体関係に進まないことを誓い合うのだ。

 恋人にはならない。結婚して夫婦になることも決してない。そう決意した上で、かれらは一切の秘密のない関係を築いていく。

 親友のようでもあり愛人のようでもあり、そのいずれともいくらか異なる間柄。

 石田は繊細な描写で、ふたりだけにしか理解できないそのオネスティ(誠実さ)にもとづく絆をていねいに描きだす。

 きわめて美しい物語だ。感動的といってもいいかもしれない。

 しかし、ここでぼくが注目したいのは、その物語のなかで脚光を浴びる主人公たちではない。

 カイの妻となるミキという女性のことだ。

 彼女はカイを愛し、かれと結婚するのだが、カイの心にいつもミノリがいて、自分は代役に過ぎないことを知っている。

 そして、その想いはやがて彼女を狂おしく責め立てていくのだ。

 ミキは、この物語で主人公としてフォーカスされた人物ではない。

 カイとミノリのオネスティの物語の単なる「わき役」である。

 だが、彼女を見ていると思わずにはいられない。

 物語に選ばれていないこと、「わき役」であるとは、なんと切ないことなのだろうと。

 いままでも、いくつもの物語を読む過程で、何度も思うことがあった。

 「主人公」と「わき役」で、なぜこうまで区別されなければならないのだろうかと。

 本来、この世に「主役」も「わき役」もいない。すべては平等であるはずである。

 けれど、物語は必ずだれかひとりなり数人を「主人公」として選び出し、注目する。

 そのとき、スポットライトがあたらない人間たちはみな「わき役」ということになる。

 『オネスティ』でいうのなら、ミキがどんなに悩んでも、苦しんでも、それは「主人公の悩み、苦しみ」ではありえないのだ。

 スポットライトが照らし出すのはどこまでいってもカイとミノリ。ミキの懊悩に光はあたらない。

 もちろん、それは小説という構造があるからこその嘘ではある。

 これが現実なら、ミキは自分を中心として、つまり主人公だと思って悩み、苦しむことだろう。

 物語というシステムがあるからこそ、主役とわき役が選抜されて見えるのであって、現実にはそんな区分はないのだ――いや、しかし、ほんとうに?

 ぼくには現実世界にも「選ばれて主人公である人」と「わき役でしかありえない人」はいるようにも感じられる。

 少なくともそういうふうに感じ、考える人は必ずいることだろう。

 自分にスポットライトがあたることはついにない、一生、自分は光の差さない暗がりのなかで生きていくしかない、そういうふうに思っている人は相当数にのぼるはずだ。

 そしてそれは、必ずしも思い込みとばかりはいえないだろう。

 この世は一面で平等ではあるが、しかし真実は決してそうではない。

 「運命に選ばれて主人公のように生きる人」と「そうではない人」の格差は凄まじいものがある。

 もちろん、主役には主役の苦悩がある。それはわき役でしかない人には想像できないものではあるだろう。

 とはいえ、単なるわき役から見れば、その悩みすら、苦しみすらうらやましいものに思えるのではないか。

 わき役にはわき役の悩みがあり、苦しみがあるにもかかわらず、それらは世界に無視されて終わるのだから。

 だからこそ、ぼくたちの多くは選ばれたがる。

 「あなたは選ばれました」という言葉は、詐欺師の常とう手段だ。

 あまりにもありふれていて陳腐と化した言葉だが、それでもそのなかには何かひとの心を狂わせる蠱惑がひそんでいる。

 あなたは選ばれました――神に、世界に、運命に選ばれたのです。

 そういわれてほの暗い喜びを感じない人は少ないだろう。たとえ、そこに欺瞞の彩りがひそんでいると気づいたとしても。

 それほどまでに「何者かに選ばれる」ということはひとの心を強く魅了する。

 「愛されたい」という想いも、ひっきょう、「だれかに選ばれたい」という意味ではないだろうか。

 しかし、「わき役」はだれにも愛されないし、選ばれない。そのちっぽけな存在に注目する人はいない。

 『オネスティ』のミキはとても可哀想な女性だ。

 彼女は真摯に愛しながら、愛されない。

 カイとの間にオネスティな関係を築くことができない。

 カイの財産をもらうことはできるが、それがなんだろう。

 彼女が求めたものは、たったひとつ、かれの愛情だけしかなかったというのに。

 だが、その孤独、その絶望すら、あくまでも「わき役」のそれでしかなく、彼女の悲恋に光があたりはしない。

 それが物語というものではある。とはいえ、それはなんと残酷なことなのだろう。

 そして、自分は主人公になれないと感じながら生きていくということは、なんと辛いことなのだろう。

 わき役はどこまでもわき役。主人公にはかなわないのだ。

 いや、しかし、この世にはそんな「わき役」の美しさを描く物語もある。

 たとえば先日読み上げた中田永一(乙一)の傑作短編「少年ジャンパー」はそういう話だった。

 これはほんとうに傑作だと思う。

 中田はいままでも無数の傑作短編を書いているが、そのなかでも新境地をひらく一作といえるのではないだろうか。

 この物語の主人公は人並み外れて醜い容姿の少年である。

 だれからも愛されていないし、最後まで愛されることもない。

 かれはあるとき「ジャンプ」という超能力に目覚める。

 一度行ったことがある場所なら、世界中どこへでも一瞬で「ジャンプ」できるという素晴らしい能力だ。

 しかし、そんな超能力を持ってしても、かれが「世界にとってのわき役」であり「キモメン」であるという事実は変わらない。

 かれはいかなる意味でも世界にも運命にも物語にも選ばれていないのだ。

 よくネットには「おれはキモメンだから異性から差別されてきた!」と書く人がいるが、まさにそういう境遇の少年である。

 あるとき、かれは偶然から異性に恋心を抱くようになる。

 かれがほんとうに「主人公」なら、どんなに醜い顔をしているとしてもその恋は実り、幸福な結末を迎えることだろう。

 あるいは少なくとも悲劇的に美しいクライマックスが待っているに違いない。

 ところが、