このテキストは2014年5月にモダンポリリズト講義第16回の補填テキストの再掲載です。


動画コンテンツ「モダンポリリズム」補填テキスト
 

 

<割力(かつりょく)と積力(せきりょく)> 

 

 ポリリズム感獲得に勤しんでおられる皆さん菊地であります。ぜんぜん関係ありませんが、セヴンイレブンのグラタンコロッケバーガーを喰いながら書いています。マクドでとっくに無くなったのに、それが良い製品であると信ずれば作り続けるセヴン&アイの精神に感服せざるを得ない訳ですが、御存知の通りポップアナリーゼも「モダンポリリズム」に入ってから字幕が付かなく成りまして、これは以前の様に「あ、これは動画内で言い忘れた」といった補填やまとめの必要性が下がり、動画だけで充分(というか、情報が多すぎるぐらい)という判断に基づくものです。

 

 が、現状最新である第16回に至りまして、ステップも1段階上がり、「ポリがけ」に入りましたので、まとめや補填というより、一種のサブテキスト、要するに文章の方が説明し易い。という側面も出て参りましたので、試しにやってみました。


 

 そもそも活字なんか苦手なんだよ、だから動画コンテンツで盛り上がってんじゃん。という方でも、今までのコンテンツを凝視しつつ練習されている方であれば後理解は易いと思いますし、ワタシの方もなるべく解り易く書く事を心掛けますので、是非ご一読ください。以下、箇条書き形式で進めます

 

 

 <同時に働く2つの力>

 

 

 先ず最初に申し上げたいのは、「ひとつの現象が、同時に働く二つの力によって律されている。という事は、大雑把に言って、世の中非常に多い」という事です。

 

 

 

 これは二元論や二律背反の話、例えば、「幸福を感じるのは、不幸があるからだ」とか、或は反復/往復運動、例えば呼吸や潮の満ち引きなどに、近いと言えば近いのですが、基本的に違います。繰り返しになりますが<ひとつの現象/行動を、二つの原理が同時に司っている>という事です。

 

 

 

 いきなりアカデミズムを振り回す訳ではありませんが、言語学に強い方ならばソシュールの「パラディグム(範例)とサンタグム(連辞)」の概念を連想して頂けるでしょうし、物理学が得意な方は運動法則の第三(作用と反作用)を、精神分析学ならばエロスとタナトスを、各々連想して頂けると思います。


 

 

<一瞬逸脱します。「二つの原理」を筋力にセットした件>

 

 

 とはいえ、身体運動的な例がもっとも一般性が高いかも知れません。例えば楽器の演奏を教える学校があるとして、生徒達は楽器を上手に演奏するために、指や手を「速く」動かしたい。

 

 

 

 この場合、多くの生徒は、最初はゆっくり、そしてだんだんとスピードを上げながら、同じフレーズを加速しようと試みますが、ゆっくりから丁寧に初めても、結局は最速に近い所まで行くと、力を入れ過ぎてしまい、多くの先生はそれに対して「力を抜け」と言います。

 

 

 

 これはもう楽器の演奏鍛錬やあらゆるスポーツや習い事という枠を越え、<即筋と遅筋>とか<入脱力のコントロール>とか、いろいろな側面でどなたも耳にし、経験した事があるのではないでしょうか。

 

 

 

 文明が進むと、人類は主観速度が上がり、不可避的に「力が入り過ぎる」身体になるので、「はい、力を抜いて」という言葉は、言ってみれば地球上で年々口にされる機会が増えているスタンダードな言葉であるとも言えます。

 

 

 

 しかし、この子弟問答も、実は不毛なのです。

 

 

 

 ワタシはelfのベースの清水くんに「よくそんなに速く、ずっと指が動くねえ。疲れない?」と聞いた時に、スポーツ生理学に詳しい彼に「(楽器のキーや弦を弾いたり、太鼓を叩いたり、声を振り絞ったり、マイクを握りしめたりする為の)<押す力>だけでやってるとあっという間に乳酸(筋疲労物質)が出て、動かなく成っちゃうんですよ」と教わりました。

 

 

 そして、これを解消する方法は「<押す>のに使う筋力と、<引く>のに使う筋力は別なので、どちらも同じ様に筋力トレーニングする」事で、どんどん無駄な過入力が減る=乳酸が出にくく成る=疲れない。という事なのだそうです。

  

 

 一見、「キーを押す(入力)」に対して、「キーを押さない(脱力)」が拮抗している様に思いますよね?でもこれは正しい二律ではないのです。

 

 

 

 この二律をイメージしている人は、必ず最後は押しっぱなしになる。「力を抜けと言われたって、ぜんぜん抜けないんですよおおおお!」という経験をした事があなたにはありませんか?

 

 

 

 <引く筋力(ここでは「押した指を上げる力」)>をつけて、初めてプラマイゼロになる訳です。「入力×脱力」ではない、「全方入力×後方入力」なのです、この二律によって結果としての「脱力」が獲得出来る。という事で、ワタシは実際目の前で清水君に「引く筋力」のトレーニングを見せてもらいました。

 


 

 

 <筋力はそもそも、まず身体感覚の中で自覚されないと動かない件>

 

 

 しかし、「引く筋力」と言われても、なかなか理解出来ませんよね。「押してもダメなら引いてみな」とか、昔から言いますけど、押すのが総てだと思って、押してばっかりいた人には、自分の身体の中のどこに「引く筋肉/引く力」があるのは、それすら解りません。

 

 

 

 なので、筋力を鍛えるも何も、先ずはそもそも「引く筋力」を自分で意識する所からはじめないといけません。どこがどうやって動くとそうなっているのか、という生理的な自覚ですね。

 

 

 

 我々の身体行動は、多くが無自覚に行われます。「さあ、瞼を明けるぞ。えい」「よし明いた。今度は閉じるんだ。えい」と言って瞬きをする人はいません。

 

 

 

 (脱線している所に、更に煩雑に成りますが、これは心臓の拍動のように、意識が関与しない自動的な運動の話しをしているのではなく「自覚的に成ろうと思えばなれるが、特に必要性が無いので、無自覚にやっている事」を差します)

 

 

 

 ヨガとか古武道とかは、これを徹底します。何気なく立ち上がるだけでも、あらゆる筋力の動きに自覚的に立つ。そうすると、凄くスムースに、疲れずに、身体にストレスなく立てるのです。

 

 

 ヨガなどはコントロールフリークという危険と紙一重の極限的な理念を持った修行で、心肺の運動も、あらゆる反射的な運動まで総て含めた、全部の動きを意識的にコントロール可能とします(最終的には精液を逆流させたり、自分の石で心停止させたり出来るとします)。

 

 

 

 ヨガのヤバさに話が逸れましたが、ここでワタシが言いたい事は、<二つの力>が働いているという原理は、能動的に自覚していかないと、無自覚/自動的に処理されてしまう。という事です。これは多くの方がスポーツ経験やダイエット経験やダンス経験等によって既に御存知の感覚でしょう。 

 

 

<トランスの盲目性について>

  

 

 しかし、どんな目的にも障壁があります。身体感覚の自覚という冷静さを必要とする目的に対する最大の障壁はトランスです。特に、音楽に於けるリズム演奏というものは容易くトランスを導くので、そしてトランスはかなりの啓発性があるので、とにかくガムシャラに、ハイになって事に当たれば、高い確率で「出来てしまう」訳です。

 

 

 

 ですので、このやり方に依存すると、ハイになろうとして事に当たり、ハイになれないと諦めてしまう→またハイにならんとする。というトライ&エラーを延々と繰り返す事になります。

 

 

 

 身体が頑丈で、没入力や集中力/持続力が高い人ならばこの方法で一生を終えてしまう事には問題が生じませんが、このやり方には消耗、疲労、摩滅というリスクがありますし、最悪例としては「ただ単に、アドレナリンが出て、実体のない獲得感(実は出来ていない)と、麻痺して感じない筋疲労を引き換えにしているだけ」という事もあり得ります。

 

 前述の「トライ&エラーの、夥しい反復」や、こうした「トランシーなハイ状態」から生まれた音楽も山ほどあるので、絶対悪視は出来ませんが、少なくとも現行の「モダンポリリズム講義」は、そこは目的としていません。

 

  

<逸脱2:「もう出来てしまっている」という事への態度>

 

  

 また、トランスと逆方向ベクトルにある(=つまりコインの表裏である)天賦の才(=天才)に関する処し方も明確にしないといけません。

 

 

 

 コメント欄にもいくつかありましたが、「感覚的にやっちゃってるんですけど、それでも大丈夫ですか?」という質問と、それに対する解答は、音楽に限らず、身体運動性に帰属する行為、その修練の過程に生じる不可避の難問です。既に悠々と、自然にイケちゃっている事に「それでは大丈夫ではない」と言う事は出来ません。

 

 

 

 しかし、天才性(というのが大袈裟なら、「既得能力」とでも言うべきでしょうが)というのは、第一にはあらゆる意味で孤立が前提化しますし、第二にはその程度の幅が余りに広過ぎ、つまり、ちょっとした事が既に出来る場合から、何から何まで既に出来る場合まであるので、つまり「壁」の出現タイミングがバラバラに成ります。一生壁に当たらない強度の高い天才もいます。

 

 

 

 同時に複数の生徒を対象にするエデュケーション・システム/カリキュラム側の立場からすると、「天才は羨ましい」「天才は素晴らしい」「天才は危なっかしい」「天才は悲しい」といったコメント以上の処し方はありません。

 

  

 <因にワタシの場合>

  

 

 逸脱が続きますが、ワタシ個人の経験に関して言えば、ワタシは(非常にささやかな)天賦の才を与えられていました。

  

 

 楽譜も、好きな音楽も、ドレミという言葉さえも無かった幼少期から、ワタシはテレビやラジオから聞こえて来る音楽の4拍子を3拍子に、3拍子を4拍子に変換して遊んでいました。

  

 

 それは、長い時は一日中に及び、自慰行為に限りなく似ていたと思います。

  

 

 しかしそれは、そのままでは自慰行為以上には育めなかったでしょう。後にワタシはその能力を自覚し、客観視し、構造化するようになりました。

 

 

 

 18歳ぐらいだったと記憶しています。ワタシは中学1年から読譜を修得したので、楽譜の読み書きが出来る様になってからの客観視なので、最初から楽譜のシステム内で構造化したのでした。

 

 

 

 しかし、それは第一回で説明したように、現行の楽譜の限界性とコンフリクトしたのです。この事がとても面白かった。ノーテーションのソフトが無い状態でノーテーションする内容が存在する場合、当然それは手書き、つまりオリジナルもしくはカスタムメイドの状態になりますので、若くて疲れを知らぬ脳と心身には格好のおやつになりました。

 

 

 

 個人史を語っていると長く成りますので、こうした音楽経験に関してはまたの機械に譲るとしまして、その結果、ワタシの天賦の才の、輝く盲目のエネルギーによる猛進はストップしましたが、能力がコントロール出来る様になったのです。

 

 

 

 そして、<(リズムを重層的に聴き取れる。という)天賦の才を客観視する>という経験それ自体が、ワタシに作曲/演奏というベクトルと教育/啓発というベクトルという、両極の営為をもたらしました。

 

 

 

 そして、極論的に言えば、ワタシが、ワタシの持ちうる能力の中でセルフコントロール出来る、つまり天賦の才を与えられながら後に構造化したものは、唯一これだけで、未だにそうだと思っています。

 

 

 

 ワタシは文章も書きますが、文章修練もなんてした事が無いし、文体や修辞についての客観視、構造化など一生出来ないままでしょう。音楽を演奏する様に話し、書いているだけなんですね。トランシーになってしまっている事も多々あります(善し悪しとは別です。ワタシの文章がお好きで、音楽がお嫌いな方、或はその逆、という方々は、おそらく、ですが、この「トランスか天賦の才か制御された能力か」という三元論が最も重要な人々なのではないか?という推測が成り立ちます)。

 

 

 

 という訳で、長い逸脱になりましたが、当コンテンツでは、程度の差を超えて、あらゆる天賦の才は度外視して事を進めていますので(逸脱が重層化しますが、教育という場を「天才を探し求める場」とする立場もあります。しかし少なくともワタシは、少なくともエデュケイショナルな場での天才との出会いは、非常に価値の高い、しかし副産物で、それ以上でもそれ以下でもないと考えています→何名かの天才に巡り会いましたが)、それを前提とした上でお読みください。

 

  

  <やっと本題に入ります。まずはクロスリズム理解に際して>

  

 

 動画コンテンツ「ポップアナリーゼ」のカリキュラムの中で、必要とされる二つの力。とは何か?それがタイトルにある「割力(かつりょく)」と「積力(せきりょく)で、各々ワタシの造語です。

 

 

 

 他にも「編力(へんりょく)」「換力(かんりょく)」とも言うべき派生的な原理があるのですが、あくまで根本は「割力」と「積力」です。

 

 

 

 以下、16回までの講義に、それがどう対応しているか説明します。

 

 

 

 ガイダンスに当たる1回目と2回目に、既にこの概念と用語は出て来ますが、それは予告以上の物ではありませんでした。しかし原理として最初から言及している。という事です。

 

 

 

 3回目からカリキュラムは、3対4クロスリズムの理解、修得に向かいます。

 

 

 

 その方法は、まず何の説明も無く、3対4クロスの構造が図示され、その構造で演奏されている打楽器アンサンブル(ドゥドゥ・ンジャエローズ・パーカッションオーケストラ等々)の演奏聴いて、図示された構造を読み取る。という形でした。

 

 

 

 この段階では、常に同時に働いている二つの原理のうち「割力」の事ばかりが説明されています。それこそ、このコンテンツの縮図のようになりますが、同時に2つの事は説明出来ないので、順序として先ずは「割力」に対して自覚して頂く。という流れになっています。

 

 

 

 1拍を3つに割ると不安定(割り切れないから)、4つに割ると安定(割り切れるから)という話にフォーカスが当たりますが、これは同時に「1拍を3つに割ったら、1拍は3ピース(に「積まれる」)」「1拍を4つに割ったら、1拍は4つ(に「積まれる」)」という形で、ビハインドされた「積力」は既に発動されています。

 

 

 

 とはいえここでの「積力」は、1拍分割の「割力」よりも仕事が緩いので(というか、作用に対する反作用の様な物なので)、あまり自覚はされなくても仕方がありません。

 

 

 

 しかし、すぐ次には「3つに割った、ひとつひとつのピース(楽譜システムの用語に翻訳すれば<1拍3連符の1個>もしくは<12分音符>)を、4つづつに積む」という過程に入ります。

 

 

 

 これが最初の、明確に意識し易い「積力」の発動です。1拍3連4拍子(上段)を1拍4連3拍子(下段)に変換する際、多くの方が不全を起こしたと思われます。

 

 

 

 それは、講義にもあったように、第一には日常的に「1拍4連3拍子」の音楽に慣れ親しんでいない。という慣習的な足かせもありますが、1ピースを4つづつ「積む」という感覚に自覚的でなかったから=「積力」の発動が無かったから。だと思われます。

 

 

 

 一度12ピースに割った1小節という単位の中で、慣習的でない、4連3拍子(下段)を体得する際に「積力」が働いている事をしっかりと自覚出来れば、上段と下段に難易度のヒエラルヒーは無くなります。

 

 

 

 講義では「3で割ると不安定(割り切れないから)」「4で割ると安定(割り切れるから)」という説明に終始しますが、これは分割の話しであって、一度12個に割った1ピースを積むという行為に際して、3と4に安定、不安定という差は無いからです。

 

 

 

 (いたずらに混乱させてはいけませんが、具体的に「1円玉をテーブルに積む」事を考えれば、枚数が少なければ少ないほど安定する訳ですから、むしろ4枚より3枚のほうが安定的です→これは物理的な話しなので、講義内容とは関係ありません。そして、テーブルの上に、1円玉を「3枚、3枚、4枚、7枚、3枚、2枚、11枚」といった風に、デコボコに積んだものが、いわゆる「変拍子」です)。

 

 

 

 ここで「3枚積もうと4枚積もうと、分割時のような安定性の差は生じない」という事実に自覚的に成り、尚かつ感覚的に、実際「両者に全く差がない」状態までプラクティスする事が重要です。

 

 

 

 更に言うと、ここでは最少の1ピース(12文分音符)の積み上げという<小>単位に対する積力が自覚されますが、<中>単位である「1拍」もまた「積まれている」という自覚が必要です。

 

 

 

 4拍子(上段)を基本とし、3拍子(下段)を変形としているような説明になっているので、事の順序として、3拍子が<新たに発生したシステム>として、新鮮にインストールされる訳ですが、その際、「1/2/3。1/2/3。1/2/3、、、、、」といった風に、「1泊がレンガの様に、ひとつづつ積まれている」感覚を研ぎ澄ませて下さい。

 

 

 

 この事が身体に入り切ると、上下の段は、線状に進むという講義の構造上、原型→変形という誤謬が生じたが、そもそも相互的であって、ヒエラルヒーがない事が自覚されると思います。

 

 

 

 つまりここでは、スモール(1ピース=12連符)とミディアム(1拍=4分音符)という二つの単位が、同時に積力で駆動している状態を自覚出来るし、重要であるという事です。

 

 

 

 当然、ネクストステップとしては<大>単位、つまり「1小節」がいくつづつ「積まれるか(何小節周期、もしくは非周期か?)」という、小節単位の積力が問われるのですが、講義ではまだここまで至っていませんので、自覚されなくても問題ありません(<大>単位内にもグレードはあり、<小大>単位はこの「小節数」、<中大>単位は「小節をいくつか集めた、段数(行数)」<大大>単位は「楽曲数」、という事になります。<極大>単位は世界の数でしょう)。

 

 

 

 こうして説明して行くと「割るのは最初だけで、後は積むだけが総てだ」と早合点してしまいそうですが、そうではありません。割力と積力は常に同時に働いています。キチンと割れないと積む事が出来ませんし、積むだけに集中すると割れている状態のキープを失います。きわどい(美しい)バランスで両者は並走している訳です。

 

 

 

 また、「積力」にも、「割力」とは違った意味での難易度は生じるので、どちらかにだけ難易度がある。という事はありません。が、それについては後述します。

 

 

 

 

 

 <バイリンガル志向に際して>

 

 

 

 ステップが上がり、クロスリズムは「バイリンガル」状態を目指す事になります。

 

 

 

 コメント欄などから推測するに、ここがキチンと身体に入っていない。という思いの方がまだ多いと思われます。

 

 

 

 バイリンガルは、今仮に身体構造を「体軸(もしくは踏み込み=爪先を踏んで自覚する1泊)」と「打点(手先や指先で打たれるアクセント)」という名で分割した時に、「体軸は4拍子、打点が3拍子」と「体軸が3拍子、打点が4拍子」が、身体感覚の中で全く同等になることです(講義では「3目線の4」「4目線の3」という、思いつきの言葉を使いましたが)。

 

 

 

 講義ではそれを、先ずは楽譜と○×の記号でノーテーションして説明し、更に3×4クロスリズム構造の楽曲(ペペトルメントアスカラール「ルペ・ベレスの葬儀」)に合わせて演奏しました。

 

 

 

 この回は「実際に聴き分けられた」結果「同じ曲がぜんぜん違う曲に聞こえた」という、タイム感覚の変容を体感した方も多かったと思いますが、「うおー変容した!」という喜びは、素晴らしい獲得であると同時に、「盛り上がって終わり」という罠も待っています。甘い物は常に苦さを隠し持っている訳ですね。前述のトランスの罠が、軽く囁いた様な感じです。

 

 

 

 ここではこれを「ウオー止まり」と呼ぶ事にします。ウオーウオーとアガってから虚脱がやって来る事で、これは生理学的にも致し方ない事ですから、ウオー止まりは最悪事というより、微笑ましい、小さな愚行程度のものですが、全課程修得を前提にするならば、冷静に構造化してネクストステップを踏む必要があり、ウオーは一度醒ましてから、何が起こったのかを見つめ直す必要があります。トランスの囁きに耳を貸してしまわない様にしましょう。

 

 

 

 ここでも、ポイントは「割力」と「積力」だけです。

 

 

 

 (ここまでの流れの中で、「割力」にのみ難易度――3は不安定、4は安定――設定が存在している状態なので、実際は片手落ちなのですが、取りあえずそのままで先に進みます)

 

 

 

 まず「体軸3/打点4」の状態(講義にある通り、これは楽譜システムの中では「3拍4連」もしくは「付点8分音符が4つ」)に身体を置いて下さい。

 

 

 

 ここで、初期設定の1拍3連は、付点8分音符に変わっています(この事の意味が解らない方は、何度も講義動画を見直して下さい)。

 

 

 

 つまり(これは講義の中で、軽く伏線的に触れただけですが)、初期設定では「3分割」つまり<割力不安定>だったものが、体軸を変換する事で「(4分割した物の)3堆積」つまり<積力安定>に変換しています。

 

 

 

 「積力」の自覚と同時に「安定」を自覚して下さい(これが伏線になって、後に「中南米音楽のクラーベの原型」の話に進みます)。この安定性を使って、事を逆走し、不安定性を無化します。

 

 

 

 今度は逆に「体軸4/打点3」の状態に身体を置きます。

 

 

 

 こちらは前者よりも「割力(ここでは「3分割力」)」のパーセンテージが増えます。つまり、難易度が上がるのですが、最初に「押す筋力」と「引く筋力」の相克が脱力即ちリラックスを生むという迂回路を通ったのを思い出して下さい。

 

 

 

 「割力」と「編力」は相互的で、片方を強く意識して反復鍛錬したら、その勢いでもう片方が強く意識でき、反復鍛錬が可能に成ります。二つの原理は常に同時に働いていますが、前述の通りバランスを取っています。

 

 

 

 なので、一挙に飲み込まないで、一方をしっかり、返す刀でもう一方をしっかり自覚する。という過程を採りましょう。慌てて(慌てないでも)一挙に飲み込もうとすると、むせてしまいます。

 

 

 

 1拍を3分割するというだけで不安定なのに持って来て、それをクラスタリングするのではなく、規則的とはいえ抜き差しする訳なので、一瞬たじろぎます。

 

 

 

 しかし、ここまでの過程を経る事で、皆さんの中に、自然と「割力」と「積力」は身に付いている筈です。これを分離させて再発見し、強く意識化して下さい。

 

 

 

 ここでイージーウエイを走って、先に「積力」に手を出してしまい、「体軸4/打点3」に際して、<打点が4つ積みになっている安定性>で突破しようとすると、「割力」がストップしてしまいます。

 

 

 

 「体軸4/打点3」は「体軸3/打点4」と比べると数学原理的にも、慣習的にも難易度が高いです(割り切れない「3分割」をライディングしないと行けないので)。この難易度差を埋める事が重要で、決め手になるのは「積力の自覚を使って割力を上げる」から「両者が同等になる」ことです。

 

 

 

 落ち着いて落ち着いて、先ずは割り、それから積み、わからなくなったら、また割って、積んで、割って、積んで、、、という感覚的なトライ&エラーを繰り返しましょう。

 

 

 

 

 

 <再び一瞬の逸脱/人体構造から来る「割」「積」両者への難易度>

 

 

 

 

 

 ここで再び、一瞬横道に逸れますが、ここまで、「積力」には、1円玉を積む様に難易度差が無く、「割力」にはケーキを切る様に難易度差があると前提して進めて来ました。そしてそれは、あくまでここまでの段階では正しいのですが、前述の通り、「積力」にも難易度は生じます。

 

 

 

 これはある意味、「何で今までその事に触れなかったんだよ!」「いや、そんなの言うまでもないでしょう」といった問答の想起が容易い、つまり自明に近い話しですが、我々は腕も脚も2本であり、そして、指が5本ではありますが、骨格の仕組みからその5本は均等な運動性を持たず、特に薬指と小指の運動性が他の3本と分離しています(重要なのは圧倒的に前者=2足2手。ですが)。

 

 

 

 この事は、次回アップの第17回で軽く触れますので、予習的な意味で書いておきますが、こうした身体構造が、「割力」「積力」双方に難易度を与えるのは言うまでもありません。

 

 

 

 我々の手足が3本だったら、3分割も3堆積も容易く、むしろ2分割、2堆積にトレーニングを必要としたでしょう(言うまでもありませんが、念のため、この記述は先天的、後天的な四肢欠損者、先天的奇形者に対する差別ではありません)。

 

 

 

 机を両手で交互に叩くとします。これは打楽器訓練のベーシック1なので、「ポリリズム」と、事を大きく捉え過ぎると逆にやりもしない事になってしまいがちですが、シンプル・イズ・ベストでありまして、今更ながらですが、受講者全員が日常的にやるべきことです。

 

 

 

 「ポコポコポコポコ」とか「カタカタカタカタ」とか、或は「パタパタパタパタ」とか、そんな擬音が脳内で発生する筈です。

 

 

 

 (ワタシのカリキュラムではこれに加えてスクラッチング、つまり机や壁などの平面を、爪を立てて手で擦り「スコスコスコスコ」といったようにスクラッチノイズを出す事も推奨しています。これは文字通りDJのスクラッチング技術と直結していますが、特殊技能ではなくベーシックな物です。というより、両手で行う前述の動きを、片手に収斂したものです)

 

 

 

 これはどうしても、慣習的に「ポコ/ポコ/ポコ/ポコ」と分節されます。分節には「割」「積」両力が働いていますが、2本の手による2打点で2音づつの文節をするのは、あまりに簡単過ぎ、力の働きが意識されません。

 

 

 

 これを「ポコポ/コポコ/ポコポ/コポコ(3音づつ)」、あるいは「ポコポコポ/コポコポコ(5音づつ)」に分節すれば、たちどころにして「割力」「積力」の発動が自覚されると思います。

 

 

 

 この原理に従う限り、2の累乗(2、4、8、16、以後略)以外の総ての数は分割も堆積も難しい。という事になります。乱数になれば尚更です。

 

 

 

 このことも、遅まきながら強く自覚し、自分の中の「割力」「積力」を思いっきり発動して、難易度を無化して下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 <再び本道へ/自立(インディペンデンス)に向けて>

 

 

 

 

 

 カリキュラムは次に、3×4クロスではなく、4×4の(いわゆる「一般的」な)楽曲に「3×4クロス構造」を「自分で乗せる」、つまり、音源では発音されていない一種の<隙間>に音を差し込んで行くことになります。

 

 

 

 これには完全な自立、つまり、何のガイドも無い状態で、自発的に「3×4クロス」を打ち出せる状態の獲得が前提になります。

 

 

 

 講義内ではワタシがポップ・エトセトラの「リヴ・イット・アップ」、C2Cの「ジニアス」を使って、そこに「乗せて」みましたが、実のところ、ここがポリリズム感獲得のトレーニング中、快楽度の最初のピークです。ワタシはこの遊びに何年間費やしたか。今現在でも毎日やっています。

 

 

 

 「自立」にはここまでの過程の獲得が必要ですが、ここまでの過程に「割力」と「積力」という、常に同時に働いている2つの力の自覚と獲得が要となります。しつこいようですが、一気に同時にはむせますから、片方づつで行きましょう。外からでは全く見えません。事を行う、あなたの内部にしか見えていない事です。

 

 

 

 

 

 

 

 <「ポリがけ」へ>

 

 

 

 現在カリキュラムは「ポリがけ」の第一外郭層つまり、上段の3連を最上段4連に変換、下段の4連を最下段の3連に変換する過程まで来ていますが、これは、「割力」と「積力」によって律され続けて来た「クロスの理解」→「バイリンガル化」→「自立」までの過程に、育まれた、変換する力である(これもこの文脈内での造語ですが)「換力」や、編んで行く、編み直す力(これが「積む力」とどう違うか、は、今後の講義で説明されます)である「編力」が、新たに発動される力として必須になりますが、書記に説明した通り、これは二次的、副産物的、あるいは蒸留/発酵的なネクストの力で、母体となる「割力」「積力」無しには生じ得ません。

 

 

 

 と、かなり長く成りましたので、動画を見ながら復習する際には、このテキストをカットアップしたりループしたりしてご使用される事をお勧めしますけれども、何れにせよ重要なのは、2つの力の自覚から獲得へ。という事であるのはお解り頂けたと思います。行動としての結果を出すのではなく(闇雲にクリアするのではなく)、立ち止まって、内的な二つの力を見つめて下さい。

 

 

 

 

 

<まとめと今後の展望>

 

 

 

 

 

 

 

 以下、やや発展的、俯瞰的に言えば、ここではリズム感に於ける難易度設定が、共通的な初期設定として前提化されており、その難易度を軽減する過程を上達と捉えています。

 

 

 

 その意味に於いては、和声に「共和」「と「不協和」を設定したヨーロッパの古典的な和声学と相似的です。

 

 

 

 そして、ポリであれ、モノであれ、和声学であれ、何であれ、一度構造化してしまえば、そこには必ず難易度が設定され(これはあくまで暫定的な「設定」であって、遍く誰しもに必ず適応される原理ではありませんし、初期に書いた天才性も、実際には存在します)、それを、カリキュラミングされた何らかのエデュケーションメソッドによって無化しながら上達して行く、という過程はまるっきり一緒です。

 

 

 

 しかし、後に文化史の一端として講義に組み込みますが、近過去までの商業音楽史に於いては、あらゆるポリ性は抑えられ、ビハインドされた(構造化されない)好事家用の価値として、ややもすればオカルト化していた訳です。

 

 

 

 なので、要は、どうせやるなら最初からポリリズム対応でインストールしよう、しかも最短で確実にかつ最大に。というのがこの講義の目的で、、、、というのは講義の冒頭に申し上げた事です。

 

 

 

 もし疑念が生じるとすれば、ワタシの考案した物より更に良い他のメソッドがあるのではないか?(これは世界のどこかに、中程度の確率で存在すると思いますが)というより、何でも基本からやった方が良い。というのは良く聞く話しで、それに従えば「ポリリズムを目指すには、先ずはモノリズムをしっかりとやった方が良うのではないか?」といった発想が生じるのは当たり前なのですが、ワタシの考えでは、モノリズムはポリリズムの原型や土台ではありません。

 

 

 

 バークリー式のブロックコード和声学が、古典的な和声学の汎用型(ひどく悪く言えばパチもん)であるという側面が拭いきれないのは、拙著「憂鬱と官能を教えた学校」にある通りで、これにはアメリカに於ける消費社会の巨大化、というよりも、近代総体の要求をのむ、という悪魔の取引きがありました。

 

 

 

 しかし、重ね重ね、これはあくまでワタシ個人の考えですが、ポリリズムは古典として存在するモノリズムの汎用型でも、流行の最新型でもなく、ポリリズムは西欧によって抑圧された物(抑圧の起点に関しては、諸説あるでしょうが)で、ポリトーナルと同じで、現在抑圧が解けて顕在化している過程にある物です。

 

 

 

 ワタシは一方で(概ね)バークリー式の和声、旋律に関する体系的なカリキュラムを教え、一方でポリリズムを教えますが、両者はここまで書いた通り、まるっきり違う物です(ワタシのもとでまとまった楽理を教わった生徒ならば誰でも理解している筈ですが、ワタシはその事を授業で明言した上で、バークリーメソッドの超克を常に目指しながらバークリーメソッドを教えています)。

 

 

 

 要するに、違う仕事をしているに等しい。講義名を「モダン・ポリリズム」としているのは、そうした事も含意されています。

 

 

 

 現状は「ポリがけ(外郭第一層)」にあり、ここをクリアすると次は講義で「似てる/化ける」と呼んだ「訛り/揺らぎ/変容」の過程に入ります。

 

 

 

 大きくこれで1課程修了となります。つまり↓

 

 

 

1)      クロスリズムの構造理解

 

2)      バイリンガル化

 

3)      インディペンデント化

 

4)      ポリがけ

 

5)      訛り/揺らぎ/変容

 

 

 

 という5段階でひとつのカリキュラムが修了するという事ですが、これは初期設定であるクロスリズムのヴァリエーション数だけ存在/反復されます。

 

 

 

 つまり、現在は「3×4クロス」が終わりつつあり、終わると「5×4クロス」即ち、5拍子、5連、5分割といった、「5」の世界に入り、その修得過程は「3×4」と全く同じです。

 

 

 

 この2パターン(3×4、5×4)の終了に、漠然と1年間を設定しています。7×4、11×4といったシリーズは3パターン目としては現れず、2つのパターンの変形として処理されます。

 

 

 

 

 

 

 

<過去の変拍子と未来の変拍子に関して>

 

 

 

 

 

 

 

 という訳で、このカリキュラムは4拍子、乃至、4拍子化(によって生じる、訛り、揺らぎ、変容の技術化)が前提とされており、本文中にある「変拍子」は、取りあえず後回しとなります。

 

 

 

 これは端的に、変拍子は変拍子であってポリリズムではないからで、講義中に言及した、ワタシ個人の(従来的な、しかも限定的な)「プログレ」音楽、乃至そのリスナーの心性(誰にも解らない、難しい事が凄くて偉い。という童貞的/権威主義的なセクシャリティ)への抵抗感。とは関係ありません。

 

 

 

 講義中に申し上げた通り、個人的にはヘイトであろうと、その存在意義は大いに認めます。というか、存在意義の無い大衆音楽というのは、原理的にあり得ません。

 

 

 

 また、言うまでもなく、ファンクであれヒップホップであれ、童貞的/権威主義的なセクシャリティで駆動している物があれば、抵抗感は拭えませんし、逆に、構造上完全なプログレであろうと、裏にある心性が違えば抵抗感はありません。問題は心性であり、また、発生しているのは抵抗感のみであって憎悪や否定はそもそもありません。ワタシは音楽は憎みませんし、否定もしません。

 

 

 

 そして現在、ヒップホップ~R&Bに代表される「4拍子で訛る音楽(「訛り」は音程にも充溢)」だけがポリリズム商品化の最前線にある訳でもなく、ブラジルのミナス派、ヴァルダン・アヴセピアン等のアルメニア周辺のニュークラシック等々、アフロアメリカン主体のブラックミュージックへのアンチの形で、非常に美しい、「ポリリズムと融合した形での変拍子音楽」が北米と違う大陸から生まれ続けていますので、それに関する研究と実践を行う意味でも、変拍子の地域的な発生源(インド、中東、インドネシア、東欧、北東アジア)の音楽分析から始まる考察は、今後、様々なコンテンツ内で行っていきますし、それよりも一手早く、作品に反映させて行くでしょう。

 

 

 

 ワタシは狂信者で、リズムこそが最もベーシックな知性であり、教養だという妄想が微動だにしないまま51年過ごして来ました。ワタシが操っている言葉は、はなはだ危なっかしい。感じ、演奏しているリズムこそが絶対なのです。