バズ・ラーマンの、エルヴィス・プレスリー伝記映画「エルヴィス」は、いわゆるコロナ映画だ。20年に撮影が始まり、22年に公開された時、世界中のシネコンは葬式が明けたかのようだった。この時代の映画には特権性がある。
エルヴィス役を、かなりうまくやった(UKアカデミーとゴールデングローブで2冠受賞、オスカーと放送映画批評家協会賞とMTVからノミニー)オースティン・バトラーは、のちに24年、これもギリギリでコロナ映画と言って良いと思うけれども「デューン砂の惑星」のリメイクに、悪役で出演、ティモシー・シャラメと対決するが、その後のキャリアはパッとしない。僕が来週、今年最初の試写会にゆく「名もなき者」は、ボブ・ディランの伝記映画で、ティモシー・シャラメがディラン絵を演じている。
そして、この「エルヴィス」で、プレスリー役のファーストコールはティモシー・シャラメだったのである。ハリウッドあるあるだが、皮肉なものだ。
最初は「え!バズ・ラーマンがあのバズラーマン歌舞伎でエルヴィスの一生やんの!!」と少々たじろいだが、なんのなんの、ラーマン歌舞伎の良さとして、現実感とガジェット感が綺麗に棲み分けられて、棲み分けも確実でかなりよかった。
特に、いかにもラーマンが苦手そうな「黒人音楽」のシーン(エルビスは人種分離法が一番イケてた時代のメンフィスで育つ。そこでブルースやR&Bに天啓を受け、そのままカントリーミュージックを融合させ、つまり最初のブラック&ホワイトである。ビートルズやストーンズは、それをイギリス人が更に真似たものだ)が、僕が見ても仰け反るほど上手くできていたので、すっかり感心してしまった。
コメント
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『エルヴィス(2022年)』のリトル・リチャード役周りに充満している「絶対にノンケ漂白なんかさせてやるものか」的な情熱は本当に物凄く、私も初めて観たとき反射的に圧倒された憶えがあります。
それと重ねて思い出されるのは、2014年にチャドリック・ボーズマン主演のジェームズ・ブラウン映画があり、そこでもリトル・リチャード役(演:ブランドン・マイケル・スミス)が出てはいたものの、「JBと同時代を生きた証言者」的な役割しか持たされていなかったことです。「同時代の黒人スターとして生まれた激ノンケと激クィアが出会うことで一体何が触発されるのか?」・「マッチョイズムのあまりDVにまで手を出してしまったJBに対してリトル・リチャードからフェミニズム的批判が向けられる可能性は?」等の、21世紀における伝記劇映画をいくらでも興味深く仕立てうる要素がごっそり抜け落ち、「やっぱりすごかったんだJBさん」的な純ファン目線で終わっていたあの映画のことを、私は今でも「2010年代半ばにして未だ呑気だったUSA」のレペゼンとしてたまに思い出します。それだけに、バズ・ラーマンの『エルヴィス』はちゃんと時代が前進していると記念してくれる映画でした。
(ちなみに、チャドリック・ボーズマンは『ブラック・パンサー』以前に『Gods of Egypt』というエジプト版トールキンみたいな映画に出ていて、そこで「知恵の神」みたいなのを演じていたのですが、そのセリフを英語で聴きながら「もしかしたらこの役のセリフ字幕は所謂 “オネエ言葉” で訳されるべきだったんじゃないか?」と思ったことがありました。単にそういうふうにしか見えなかったからですが、「多神教時代のエジプトにゲイもしくはクィア性があるわけがない」もしくは「このような容姿の黒人男性がゲイもしくはクィアだなんてありえない」という抑圧があったせいなのか、公開から数年を経てさえ誰もそのことにはふれていませんでした。その後チャドリックは『ブラック・パンサー』で映画史に記名くらいの評価を受けたのち亡くなってUSA黒人の聖人みたいな評価に収まりましたが、彼が「激ノンケ=JB」と「軽クィア=エジプトの知恵神」の両方を演じたことがあり・なおかつどちらの政治性もなんとなくスルーされていた、という事実は、ますます誰からも指摘されなくなるのでしょう。)
その同時代作品として、バズ・ラーマンが2016-17年に製作・原案とごく一部の脚本を務めたヒップホップ劇『ゲットダウン』があり、こちらはガッチガチに硬直したヘテロ&ホモソーシャリティの世界である20世紀USAヒップホップに ディスコ排斥運動からのエイズ禍 という別の線を引くことで、同時代の(白人も含めた)USA市民の性観念を豊かに再解釈する試みが為されていたと思います(正確には、エイズ禍は具体的に描かれないのですが、想いあっている少年どうしがパーティしている部屋の中にシルヴェスターのポスターがある。という絵のみで「彼らがあの後どのような目に遭ったか」を偲ばせる造りになっていて、とてもパセティックかつ精妙な場面だったと思います)。彼が『エルヴィス』をあの出来まで持っていけたのは、この頃から準備を整えていたからなのかもしれません。
というようなことばかり考えながら映画やドラマを観てきたので、 “フェミニズムから20世紀後半のポップミュージックを研究している研究家に「ハズレ」はいない” という菊地さんの言にも全面的に賛同します。
私個人としては、そもそも外見的に明らかなゲイコミュニティからの影響が汲まれているヘヴィメタル(ケネス・アンガー→当時の英米におけるレザー系SMショップ→ロブ・ハルフォード の流れ)のファンたちがいつになったらその音楽に最初から内蔵されているゲイ性への解離をやめるのか(解離ではなく抑圧しているのだとしたら、その「受け容れられないゲイ性」の加工品としてどのような副産物が出来ているのか)について興味があります。私が10年ほど前にレミー・キルミスターの伝記映画を観たとき、彼自身がリトル・リチャードと出会って「影響を受けた」件について語っていたのですが、それが具体的に何を意味するのかは当時の日本の観客には全く伝わっていないようでした。いま lemmy kilmister bisexual で検索してさえ、彼はそうだったのか/そうではなかったのかについて侃侃諤諤の議論が表示されます(笑) このあたりの無用な抑圧が解けてから生産される言論の数々が、ようやく20世紀音楽の21世紀的評価の先触れを告げるのだろうと思います。