以上を乱雑にまとめると、学生運動を介してポテンツを回復したい人々の意図とは関係無しに音楽をやれた山下トリオはすごい、というバカ丸出しの結論が出てきてしまいましたが(笑)、しかしこれは筒井康隆さん個人に属する特殊性の件とも関係があると思います。バカな意見を重ねますが、学生運動帰還者たちの中でも「ザ・ウチアゲ」や「全冷中」に参加できた者とできなかった者との間で断裂が生じていて、前者に似た精神性の持ち主が世界を救う、と現在においても私は思っています。一般性と特殊性の両方で絡みあって生じる問題の数々を見ていると、最終的な和平を導き出せるのは個人の特殊性の力であるはずで、レペゼン意識という一般社会的属性は、個人が置かれた状況も含めた特殊性のうえに立った状態で初めて平和的な力が汲み取られ・発揮されると信じます。
学生運動帰還者を詩や演劇へと向かわせた機制は、以上述べたことを見失わせる何かと関係があったのかもしれないとは思いますが、若僧の限界としてこれ以上は書けません。無用の尾鰭を付けてしまったかもしれませんが、私の主観としては無駄な思索が切り落とされて THE FOOLS が生きた時代まわりのことが見えやすくなったようです。経絡に気が通った、とはこのような状態を指すのかもしれません。いつもながら懇切なご返信に感謝いたします。個人がおこなう表現には、これまでも・これからもできることが沢山ありますね。
(ID:28386738)
>>6
ご返信をいただきありがとうございます。
「世代マウント」の上下構造についてご説明いただき、(山下トリオの早稲田ライブにおける村上春樹との談話の件も含めて)多くのことが腑に落ちた気がしました。 “ほとんどの下は、ヒッピーと同じで「下から」は、暴力的な革命しかできず、地上の、というか「上」の世代は潰してしまうしかない” とすると、中間の「路上」と呼べるようなところでは世代や出自を問わない Hard Core Peace が実現する余地があり、菊地さんは音楽を通してその実践を絶やさずに居られると思うのですが(音楽教師として生徒に外傷記憶を与えず、なおかつ周囲の生徒たちにもイジメを誘発させる余地を残さない。という菊地さんのお仕事ぶりは、本当に素晴らしいと思います)、この上下いずれにしても対象への暴力性を誘発してしまうマウント構造は、知識による武装だの世代による特権的体験だのを解除したあとでようやく解体されるのかなと思っています。その武装解除に対して生じる「抵抗」の大きさについては、貴見のとおり “社会構造よりも、個人の内部に原因があり、ノンケはどこまでもノンケだから” さほど気にしなくてもよいのか、とも。
“「学生運動」の転向者が、政治ではなく、詩や演劇等に流れた。という例外的な導線だけを僕は問題視しています” と簡潔にご指摘いただいて、ああこれは「昇華」の問題だったか、と今更気付かされました(とくに “政治ではなく”という補助線によって)。もちろん学生運動で被った不全感の「昇華」を音楽活動に回した者たちも居たでしょうけども、そこには(先述の)非マウント地帯での和平が成立する余地があり、だからこそこれはミュージシャンのレペゼン意識にも関わることですね。 “FOOLSのファン達が転向を余儀なくされ、散った後、どこにでも良いから、潜伏して生きていて欲しいと思う” という記述の意味がようやく理解できました。あと、菊地さんがアミリ・バラカのフリージャズ同伴のポエトリーリーディングを高く評価しておられない理由についても。あれは現代詩レペゼンと音楽レペゼンの双方がなんとなく野合している状態、つまり相互的な弱度を他文化との連帯意識によって合理化してしまうパターンで、 “「それって、谷川俊太郎が好きならやめた方が良くない?」” の件もこの問題系に属しますね。
“「カルチャー世代マウント」と「ファザコン」(ここに「マザコン」も含まれてくれれば、僕はどれだけ良いかと思っています。ここはフェミニズムの問題です。マザコンはカルチャー=「知性」に癒着しないので)の癒着問題だと思いますね” の括弧書の箇所をとくに重く読みました。ここでまたぞろ宮崎駿を持ち出すのも芸が無いですが、以前、『風立ちぬ』をゲーテ『ファウスト』になぞらえて読解する論文を女性の知人が書いていたことがあり、言うまでもなく『ファウスト』は「知性的」な男性の自分探しの過程で「無垢」な女性が屠られるつくりなのでフェミニズム的に赤点文学なはずですが、彼女は女性に聖性は認めるが知性はどこかへ放ってしまう男性的態度を問い詰めるでもなく、論文執筆後も相変わらずジブリの幸福なファンとして生きているようでした。別の件では、『風立ちぬ』の男性登場人物どうしのBL的関係性にのみ注目して評論らしきものを連発していた女性の例もあり、その「当たり前に知や美を備えていて同じ地上に生きている女性」の存在から何としてでも目を背けたいという強烈な力がジブリ作品を軸にして発生している様は、ちょっと見るに凄まじいものでした。これは “ノンケはどこまでもノンケ” である以上、反射的に手掴みにできるフェティシズムを部分対象として凝視する過程で政治性が消去される、というメカニズムと関連があるのかもしれませんね。
いずれにしろ、前段落で述べた件が “谷川俊太郎を神格に置き、谷川俊太郎の詩にインスパイアされた現代音楽とか” 〜の件と関わることは確かで、数年前から海外でも高く評価されはじめたとある女性アーティストは例によって谷川の『生きる』を音楽化している(おそらく不可思議/wonderboyのあれにヤられたとしか思えない)のですが、海外ツアーにおける彼女の客層を映像で見ていると純正 kawaii の文脈で歓迎されているとしか思えず、それは対象のアニメ化=非政治化というジブリ的現象とほぼ同質であり、 riot grrrl を自認するアーティストがそれを認めてしまってよいのか、と当惑したことがありました。これは政治的主体である女性の表現と外部からの評価のズレによって生じる不全感の問題でもあり、確固たるレペゼン意識を持っていたはずの主体がいつのまにか曖昧に外部と野合してしまう、「必ずしも言語を必要としない表現のなかで言語的情報を発信した際に生じる過拡散的アピール≒誤爆」の問題をも汲んでいるでしょう。
以上を乱雑にまとめると、学生運動を介してポテンツを回復したい人々の意図とは関係無しに音楽をやれた山下トリオはすごい、というバカ丸出しの結論が出てきてしまいましたが(笑)、しかしこれは筒井康隆さん個人に属する特殊性の件とも関係があると思います。バカな意見を重ねますが、学生運動帰還者たちの中でも「ザ・ウチアゲ」や「全冷中」に参加できた者とできなかった者との間で断裂が生じていて、前者に似た精神性の持ち主が世界を救う、と現在においても私は思っています。一般性と特殊性の両方で絡みあって生じる問題の数々を見ていると、最終的な和平を導き出せるのは個人の特殊性の力であるはずで、レペゼン意識という一般社会的属性は、個人が置かれた状況も含めた特殊性のうえに立った状態で初めて平和的な力が汲み取られ・発揮されると信じます。
学生運動帰還者を詩や演劇へと向かわせた機制は、以上述べたことを見失わせる何かと関係があったのかもしれないとは思いますが、若僧の限界としてこれ以上は書けません。無用の尾鰭を付けてしまったかもしれませんが、私の主観としては無駄な思索が切り落とされて THE FOOLS が生きた時代まわりのことが見えやすくなったようです。経絡に気が通った、とはこのような状態を指すのかもしれません。いつもながら懇切なご返信に感謝いたします。個人がおこなう表現には、これまでも・これからもできることが沢山ありますね。