>>3 <“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな?> ほとんどアレの穴師をしているようなものですね笑。この件に関しては田畑さんとは齟齬とまでは申しませんが、よくある論客同士の年齢差や個人差が出たなと思っています。 僕が唾棄しているのは芥正彦のような「転向んで、毒にも薬にもならないようなアート(多く演劇)」をやっている人々で、有名無名を問わず結構いますが、放置してもいなくなるので、唾棄せずとも良い。と最近は考えていますけれども、逆に、「消えてしまう」ので(どう考えても業績が演劇史、詩作史、音楽史、とうとうに残らないので)、逆にだきせず保管すべきだとも思うぐらいです。 それに比して、ご指摘の、内田樹(今、ガンと闘病中ですね確か)のファザコン誘発性の高さと、それにヤラれる人々、に関しては唾棄するような問題系で捉えていません。第一に内田樹は精神分析と身体論を両立するので、僕と立ち位置が似ているとも言えますし、最初期の「<大脱走>分析」など、優れた仕事をしていると評価しています。 と、全体が甚だ大雑把ではありますが笑、結論として、「世代マウント」は、不可避だと思います。格闘技ではアンダーポジションからのマウントを「下から」と言いますが、文化的に「下からマウント」は、今のところ、日本人でできるのは僕以外いません8なので、マウンティングに敏感な者から順に僕を敵対視します)ほとんどの下は、ヒッピーと同じで「下から」は、暴力的な革命しかできず、地上の、というか「上」の世代は潰してしまうしかないからです。 ですので、僕も芥正彦らを殲滅したい訳ではなく、醜態がもっともっと知られるべきだと思うのですが(笑うぐらいみっともないので笑)、何かそれも力が抜けるような話ですので、三島のあの映画には「助かった」という思いがあります。 「世代マウント」の不可避は、ファザコンの召喚と不可分です。僕はこちらの方はほとんど問題視していません。ファザコンはどちらかというと、社会構造よりも、個人の内部に原因があり、ノンケはどこまでもノンケだからです。ファザコンこいこいもマザコンこいこいもいっぱいいます。僕を失われた「叔父さんこいこい」だと高橋源一郎さんが定義したことがありましたが、それもどうかなーと思っています。 いずれにせよ、田畑さんにお返しするアンサーとして、もっとも一般論的になると思うのですが笑、僕が重視しているのは個人の業績への評価で、芥正彦がクソみたいなもんで、内田樹はきちんと評価されるべき真っ当なものだ。という「評価」は、「世代マウント=ファザコンと直結」という問題を外して仕舞えば、どうでも良いような問題で、「学生運動」の転向者が、政治ではなく、詩や演劇等に流れた。という例外的な導線だけを僕は問題視しています。「学生運動の季節」を、不動のゴールデンエイジとする、という既得権益を不当と思うからです。 極端にいうと、彼らのおかげで僕は演劇や現代詩を心の中で嘲笑っているようなポジションに立たされているとさえ感じる時があり、個人的に困っています。谷川俊太郎が偉大な詩人だたのは理解しないでもないですが、あまりにも周囲に、谷川俊太郎を神格に置き、谷川俊太郎の詩にインスパイアされた現代音楽とか、シンプルに谷川俊太郎の詩にメロディーをつけた、とか、谷川俊太郎の朗読音声をサンプリ(以下略)といったことをする者が溢れかえっており「それって、谷川俊太郎が好きならやめた方が良くない?」と思うばかりで、乖離しないといけないので疲れますね笑。 これは煎じ詰めれば「左翼」と「反体制」の癒着という問題も含んでいます。あのFOOLSでさえ、末期には血迷って、アイヌ解放運動と一瞬、野合します(これをのちに大々的に展開するのがソウルフラワーユニオン)。FOOLSが天使的だなあと思うのは、一瞬よくわからずに野合して、すぐ離散し、ロックンロールに戻ることですが笑。 なのですが、田畑さんが僕が、ということではなく、一般論として、「ウザ」いのは、「学生運動」が「転向んだ結果」という、いわば文化的な特区が巻き起こすことよりも=あまりに狭い話なので、シンプルに「カルチャー世代マウント」と「ファザコン」(ここに「マザコン」も含まれてくれれば、僕はどれだけ良いかと思っています。ここはフェミニズムの問題です。マザコンはカルチャー=「知性」に癒着しないので)の癒着問題だと思いますね。「あまりに広い話」ですので笑。 「七瀬」が女性蔑視的な器に守られても女性が興奮してしまう。というのは、これも特殊例で一般化できません。筒井先生の筆力、手腕が、ちょっとでもバランスを欠いたら、マスとしての「多くの女性読者」は獲得しなかったでしょう。しかし、池澤春奈さんは、全く形を変えて、名誉職に付き(彼女は日本SF協会の会長です)、瞳孔を開いていたと思います。
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<“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな?>
ほとんどアレの穴師をしているようなものですね笑。この件に関しては田畑さんとは齟齬とまでは申しませんが、よくある論客同士の年齢差や個人差が出たなと思っています。
僕が唾棄しているのは芥正彦のような「転向んで、毒にも薬にもならないようなアート(多く演劇)」をやっている人々で、有名無名を問わず結構いますが、放置してもいなくなるので、唾棄せずとも良い。と最近は考えていますけれども、逆に、「消えてしまう」ので(どう考えても業績が演劇史、詩作史、音楽史、とうとうに残らないので)、逆にだきせず保管すべきだとも思うぐらいです。
それに比して、ご指摘の、内田樹(今、ガンと闘病中ですね確か)のファザコン誘発性の高さと、それにヤラれる人々、に関しては唾棄するような問題系で捉えていません。第一に内田樹は精神分析と身体論を両立するので、僕と立ち位置が似ているとも言えますし、最初期の「<大脱走>分析」など、優れた仕事をしていると評価しています。
と、全体が甚だ大雑把ではありますが笑、結論として、「世代マウント」は、不可避だと思います。格闘技ではアンダーポジションからのマウントを「下から」と言いますが、文化的に「下からマウント」は、今のところ、日本人でできるのは僕以外いません8なので、マウンティングに敏感な者から順に僕を敵対視します)ほとんどの下は、ヒッピーと同じで「下から」は、暴力的な革命しかできず、地上の、というか「上」の世代は潰してしまうしかないからです。
ですので、僕も芥正彦らを殲滅したい訳ではなく、醜態がもっともっと知られるべきだと思うのですが(笑うぐらいみっともないので笑)、何かそれも力が抜けるような話ですので、三島のあの映画には「助かった」という思いがあります。
「世代マウント」の不可避は、ファザコンの召喚と不可分です。僕はこちらの方はほとんど問題視していません。ファザコンはどちらかというと、社会構造よりも、個人の内部に原因があり、ノンケはどこまでもノンケだからです。ファザコンこいこいもマザコンこいこいもいっぱいいます。僕を失われた「叔父さんこいこい」だと高橋源一郎さんが定義したことがありましたが、それもどうかなーと思っています。
いずれにせよ、田畑さんにお返しするアンサーとして、もっとも一般論的になると思うのですが笑、僕が重視しているのは個人の業績への評価で、芥正彦がクソみたいなもんで、内田樹はきちんと評価されるべき真っ当なものだ。という「評価」は、「世代マウント=ファザコンと直結」という問題を外して仕舞えば、どうでも良いような問題で、「学生運動」の転向者が、政治ではなく、詩や演劇等に流れた。という例外的な導線だけを僕は問題視しています。「学生運動の季節」を、不動のゴールデンエイジとする、という既得権益を不当と思うからです。
極端にいうと、彼らのおかげで僕は演劇や現代詩を心の中で嘲笑っているようなポジションに立たされているとさえ感じる時があり、個人的に困っています。谷川俊太郎が偉大な詩人だたのは理解しないでもないですが、あまりにも周囲に、谷川俊太郎を神格に置き、谷川俊太郎の詩にインスパイアされた現代音楽とか、シンプルに谷川俊太郎の詩にメロディーをつけた、とか、谷川俊太郎の朗読音声をサンプリ(以下略)といったことをする者が溢れかえっており「それって、谷川俊太郎が好きならやめた方が良くない?」と思うばかりで、乖離しないといけないので疲れますね笑。
これは煎じ詰めれば「左翼」と「反体制」の癒着という問題も含んでいます。あのFOOLSでさえ、末期には血迷って、アイヌ解放運動と一瞬、野合します(これをのちに大々的に展開するのがソウルフラワーユニオン)。FOOLSが天使的だなあと思うのは、一瞬よくわからずに野合して、すぐ離散し、ロックンロールに戻ることですが笑。
なのですが、田畑さんが僕が、ということではなく、一般論として、「ウザ」いのは、「学生運動」が「転向んだ結果」という、いわば文化的な特区が巻き起こすことよりも=あまりに狭い話なので、シンプルに「カルチャー世代マウント」と「ファザコン」(ここに「マザコン」も含まれてくれれば、僕はどれだけ良いかと思っています。ここはフェミニズムの問題です。マザコンはカルチャー=「知性」に癒着しないので)の癒着問題だと思いますね。「あまりに広い話」ですので笑。
「七瀬」が女性蔑視的な器に守られても女性が興奮してしまう。というのは、これも特殊例で一般化できません。筒井先生の筆力、手腕が、ちょっとでもバランスを欠いたら、マスとしての「多くの女性読者」は獲得しなかったでしょう。しかし、池澤春奈さんは、全く形を変えて、名誉職に付き(彼女は日本SF協会の会長です)、瞳孔を開いていたと思います。