“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな? と反射的に思ってしまうのは、学生運動なるものに関する私の知見が貧しすぎるからに違いありませんが、ぜひこの機会に、菊地さんが『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた「学生運動なるものと表現との連関」についてお感じになったことを、簡略でも構いませんのでお聞かせ願いたいと思います。このドキュメンタリー映画に関し、菊地さんはラジオデイズで軽く数回言及しておられましたけども、詳しく語ってはおられなかったはずなので。 『三島由紀夫vs東大全共闘』は実に不思議な映画で、あの本編で展開されていた「論客」たちの言い分よりも、そこから一歩引いた「思想や言論のために命をかけることができた、あの時代」に対する憧憬的なノスタルジアそのものに愛着するような心性で発されたとしか思えない感想が(少なくともネット上では)可視化されていました。それは学生運動なるものに参加した当事者やその弟子たちのような折れかけポテンツのしがみつきのみならず、通俗的な意味でのファザコン傾向がある(とくに現在30-40歳代ごろの)女性たちに対しても浅く広まっているようでした。おそらく、あの映画内でのコメンテーターとして内田樹が出ていたことも大きかったのだと思います。詳しくは書きませんが、内田樹のファザコン(性別不問)誘引・誘発力は本当に凄まじいものがあり(←ごく単純にその素因を分析すると、内田当人もレヴィナスという「父」に対する率直な愛着を未清算のまま保持し続けていて、その残り香に現役ファザコンたちが惹かれているからだと思いますが)、その無自覚な誘惑者が「三島ってやっぱりタダモノじゃなかった」という大意のコメントを寄せることで醸成される「ああ、やっぱりパパたちが生きたあの頃って良かったんだなあ」感の訴求力の強さは、生半でないものがあったのでしょう。これは前回の日記で明かされた「七瀬問題」(勝手に用語化してしまいましたが笑)に象徴されるような、「年齢を隔てた異性どうしの間にある政治性の所在が、きわめて当事者的な心性によって曖昧化されてしまう現象」の一例として興味深いものと思います。 (あとは芥正彦さんという、学生運動が退潮したあとでも演劇をやり続けている者の存在が一種のジョーカーとしてあの映画のチャームになっていたと思いますが、それよりも私は、前段落で詳述した「あの世代への憧れ」誘発力のほうが強く作品を律していたと思います。) 1991年生まれの私は、その30年ほど上の(菊地さんとほぼ同じ、ということになるでしょう)世代の学者(とその弟子)たちから「我々は学生運動で逮捕された人々を師に持った世代なので、率直な意見を公表することはなくなったんだ。そのかわり、公に気づかれないようなかたちで “本当に言いたいこと”を著作に忍び込ませるようになったのだよ」と意味ありげな楽屋話を聞かされることが何度かあったのですが、そのたび「で、その学生運動でパクられた奴らの下の世代がセコく立ち回った結果が現状の日本国なのか?」と率直に反問したくなったものでした。このような意味では、私も菊地さんの“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” への拒絶感を共有しているかもと思います。だいぶ前のことですが、私は福岡県在住ということもあり、足立正夫の生き様を写したドキュメンタリー映画(たしか、足立に惹かれたフランス人が監督したもの)を上映後のトークセッション付で観る機会があったのですが、観終えた後の私の中に言いようもない怒りが滾っていたので(←それは日本における左派への弾圧に発する心情でも・足立が関わっていたというパレスティナにまつわるものでもなく、「このような人間が表現者ヅラして、あまつさえ大家扱いされているようでさえある」という状態に対しての若々しい怒りであったように思います)、トークセッションが始まる前に深呼吸とともに映画館を後にした記憶があります。ここで私が感じた怒りも、菊地さんがかねてより指摘しておられる“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” の「貧乏くささ」への陰性評価と同根に発したものかと思います。 『THE FOOLS 愚か者たちの歌』公式サイトのコメント寄稿者欄にも、上述のような当事者性にふれてきた人々が多く見られ(←「多く見られ」と書いてしまいましたが、これは単に、私が浅野忠信の名から青山真治を自動的に召喚し・それによって『AA 音楽批評家:間章』まわりの人脈をも幻視しているからなのかもしれませんが。ところで括弧内で簡略に書きますが、青山真治の映画は女性まわりの描写が最晩年の作品においてさえダメすぎて、なぜ蓮實重彦さんが黒沢清と同様に青山真治を評価したがるのかまったく理解できないまま今日まで来てしまいました。少なくとも黒沢清は、「女性についてはちょっとわからない」という不器用な誠実さがずっと徹底されており、何より「音楽への岡惚れ」が殆ど感じられないところが素晴らしいと思います。これは青山真治や中島哲也のような「音楽に岡惚れしやすい福岡出身の映画監督」というカテゴリの問題系に属し、もしかしたら足立正夫とも関係あるのかもと思われます)、パッと見てはうわっと思わされるけども、菊地さんの日記内容を読んでいて「そっちとは違う流れも汲んでいるんだよ」とアシストしていただけたように感じ、ぜひ観てみたいと思いました。 やたら羊腸になってしまったのでまとめますが、『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた学生運動なるものと表現との連関について菊地さんは率直にどうお感じになったかについてと、性差と政治性にまつわる問題が当事者的な心性によって見えなくされてしまう「七瀬問題」が学生運動なるものと関連するところが有るか・無いかについてのご意見をお聞かせいただきたく思います。とくに後者のほうは、チャン・ゴンジェ監督との間で交わされた韓国フェミニストの当事者性をめぐる話と重なるところがあるかもと愚考します。
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“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” に関する菊地さんの記述を読むたびに、ドキュメンタリー『三島由紀夫vs東大全共闘』に出演していた芥正彦さんみたいな人たちのことかな? と反射的に思ってしまうのは、学生運動なるものに関する私の知見が貧しすぎるからに違いありませんが、ぜひこの機会に、菊地さんが『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた「学生運動なるものと表現との連関」についてお感じになったことを、簡略でも構いませんのでお聞かせ願いたいと思います。このドキュメンタリー映画に関し、菊地さんはラジオデイズで軽く数回言及しておられましたけども、詳しく語ってはおられなかったはずなので。
『三島由紀夫vs東大全共闘』は実に不思議な映画で、あの本編で展開されていた「論客」たちの言い分よりも、そこから一歩引いた「思想や言論のために命をかけることができた、あの時代」に対する憧憬的なノスタルジアそのものに愛着するような心性で発されたとしか思えない感想が(少なくともネット上では)可視化されていました。それは学生運動なるものに参加した当事者やその弟子たちのような折れかけポテンツのしがみつきのみならず、通俗的な意味でのファザコン傾向がある(とくに現在30-40歳代ごろの)女性たちに対しても浅く広まっているようでした。おそらく、あの映画内でのコメンテーターとして内田樹が出ていたことも大きかったのだと思います。詳しくは書きませんが、内田樹のファザコン(性別不問)誘引・誘発力は本当に凄まじいものがあり(←ごく単純にその素因を分析すると、内田当人もレヴィナスという「父」に対する率直な愛着を未清算のまま保持し続けていて、その残り香に現役ファザコンたちが惹かれているからだと思いますが)、その無自覚な誘惑者が「三島ってやっぱりタダモノじゃなかった」という大意のコメントを寄せることで醸成される「ああ、やっぱりパパたちが生きたあの頃って良かったんだなあ」感の訴求力の強さは、生半でないものがあったのでしょう。これは前回の日記で明かされた「七瀬問題」(勝手に用語化してしまいましたが笑)に象徴されるような、「年齢を隔てた異性どうしの間にある政治性の所在が、きわめて当事者的な心性によって曖昧化されてしまう現象」の一例として興味深いものと思います。
(あとは芥正彦さんという、学生運動が退潮したあとでも演劇をやり続けている者の存在が一種のジョーカーとしてあの映画のチャームになっていたと思いますが、それよりも私は、前段落で詳述した「あの世代への憧れ」誘発力のほうが強く作品を律していたと思います。)
1991年生まれの私は、その30年ほど上の(菊地さんとほぼ同じ、ということになるでしょう)世代の学者(とその弟子)たちから「我々は学生運動で逮捕された人々を師に持った世代なので、率直な意見を公表することはなくなったんだ。そのかわり、公に気づかれないようなかたちで “本当に言いたいこと”を著作に忍び込ませるようになったのだよ」と意味ありげな楽屋話を聞かされることが何度かあったのですが、そのたび「で、その学生運動でパクられた奴らの下の世代がセコく立ち回った結果が現状の日本国なのか?」と率直に反問したくなったものでした。このような意味では、私も菊地さんの“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” への拒絶感を共有しているかもと思います。だいぶ前のことですが、私は福岡県在住ということもあり、足立正夫の生き様を写したドキュメンタリー映画(たしか、足立に惹かれたフランス人が監督したもの)を上映後のトークセッション付で観る機会があったのですが、観終えた後の私の中に言いようもない怒りが滾っていたので(←それは日本における左派への弾圧に発する心情でも・足立が関わっていたというパレスティナにまつわるものでもなく、「このような人間が表現者ヅラして、あまつさえ大家扱いされているようでさえある」という状態に対しての若々しい怒りであったように思います)、トークセッションが始まる前に深呼吸とともに映画館を後にした記憶があります。ここで私が感じた怒りも、菊地さんがかねてより指摘しておられる“学生運動から転向論でモダンアートみたいになった奴ら” の「貧乏くささ」への陰性評価と同根に発したものかと思います。
『THE FOOLS 愚か者たちの歌』公式サイトのコメント寄稿者欄にも、上述のような当事者性にふれてきた人々が多く見られ(←「多く見られ」と書いてしまいましたが、これは単に、私が浅野忠信の名から青山真治を自動的に召喚し・それによって『AA 音楽批評家:間章』まわりの人脈をも幻視しているからなのかもしれませんが。ところで括弧内で簡略に書きますが、青山真治の映画は女性まわりの描写が最晩年の作品においてさえダメすぎて、なぜ蓮實重彦さんが黒沢清と同様に青山真治を評価したがるのかまったく理解できないまま今日まで来てしまいました。少なくとも黒沢清は、「女性についてはちょっとわからない」という不器用な誠実さがずっと徹底されており、何より「音楽への岡惚れ」が殆ど感じられないところが素晴らしいと思います。これは青山真治や中島哲也のような「音楽に岡惚れしやすい福岡出身の映画監督」というカテゴリの問題系に属し、もしかしたら足立正夫とも関係あるのかもと思われます)、パッと見てはうわっと思わされるけども、菊地さんの日記内容を読んでいて「そっちとは違う流れも汲んでいるんだよ」とアシストしていただけたように感じ、ぜひ観てみたいと思いました。
やたら羊腸になってしまったのでまとめますが、『三島由紀夫vs東大全共闘』に写されていた学生運動なるものと表現との連関について菊地さんは率直にどうお感じになったかについてと、性差と政治性にまつわる問題が当事者的な心性によって見えなくされてしまう「七瀬問題」が学生運動なるものと関連するところが有るか・無いかについてのご意見をお聞かせいただきたく思います。とくに後者のほうは、チャン・ゴンジェ監督との間で交わされた韓国フェミニストの当事者性をめぐる話と重なるところがあるかもと愚考します。