>>1 <本文末で述べておられた「悲しさ」は、菊地さんのお仕事(音楽)の内容については順当な無理解によって友愛を発生させていた故・福田氏が、同時に菊地さん御自身と同じ「可愛げ」の共通項を持っていたことにより、接近も遠望もできない他者のまま突然「死」により突破されたことで発生した何かなのかな、と> そうですね。福田さんのマイメンだった坪内さんも、僕にそこそこな岡惚れで、大変良くして頂いたんですが、亡くなってしまいまして、それから福田さんは孤独があったのだなあと思っています。 <「無圧縮音源データを購入して・iPod用に圧縮して・iTunesと同期して外に持ち出す」というジョブス健在期あたりまでのデジタルオーディオ用ルーチンはもう完全に過去のものとなりましたね。CDは夢グループによるルネサンス(←これに関して私は菊地さんによる分析を読むまで全く知りませんでした)もあり今後も生き延びるでしょうが、それよりも早くiPod(有線接続)的な音楽の聴き方が過去のものになってしまった。というのは、自分にとって大きな衝撃です。iPod(有線接続)よりもCDのほうがしぶとく生きるとは。「過去に想像されたものとは全く別の未来=現在」のありさまは、実際に生きてみなければ全く解りませんね> 僕は一貫してCD派で、DJも未だにCD-Jですが、最近、知人に、短冊と言われる「シングルCD」のパッケージが(カセットテープぐらいなのかどうか、規模はわかりませんが)、可愛くておしゃれなものニアイコール平成レトロみたいな感じで、やや流行っている旨、聞いています(以前、日記に書いた、小西康陽さんの「スキスキスー」をカヴァーしている若い女性がいる。という話の流れなんですが)。データ主義が、肉体を欠き、無常感だのアミニズムだのが全く宿らない、というのは誰でもわかるとして、いわゆるサイバー感覚すら刺激しない。という事実は、アメリカ / ヒッピーという文化圏が20世紀に生まれ、世紀末には狂い咲きしたのだな。と思うばかりです。 <(そういえば、『ベイビー・ドライバー』でiPodやカセットは出てきてもCDは全く出てきませんでしたね。あれはもしかするといかにも英国人らしい、「既に明らかな過去の歴史に属した物しか出さない」という博物館マナーで20世紀の文化を扱った映画だったのかもしれません> そうですね。あれはカーマニアックな作品でもあり(というか、それがメインですが笑)、車載のCDプレーヤーがなかった時代の車にアイコニックなものを求めているとも思いますね。 <これを同時期のジェンキンス『ムーンライト』──場面演出での重要な小道具としてCDジュークボックスが用いられていた──と比較すると、あの時点での英国白人と米国黒人の音楽メディアを介したノスタルジアのありかたから意味ある差異を読み取ることができるのかもしれません。みたいなことをいきなり思いつきました> シンプルにアフリカ系はキラキラ光って回転する物を手放さないでしょうし、英国文化は、「キラキラ光る」物がヘタ、というか、美術にも建築にも余り見られません。あとは図書館文化でしょうね。 この軸に、香港人も加えて良いかと思います。ウォン・カーウァイは「恋する惑星」と「天使乃涙」に、CDジュークボックスを登場させており、その強度は、1950年代のアメリカ映画におけるヴァイナル・ドーナッツ版のジュークボックスの強度に比肩しうる物です。 <実は、N/Kでない菊地成孔さんの新譜を聴くことになるのは『天使乃恥部』が初めてです。ジャズが葬儀にまつわる音楽であることを忘れず、それを聴く自分が誰なのか、また現在なのがいつなのか・いつかなのかさえ忘れることができればと思います。繰り返しになりますが、御新譜がひとまずデジタルで世にお目見えしたことを慶びとともに祝賀申し上げます。香水付フルパッケージ版の到着も心より楽しみにしております> ありがとうございます。僕は、音楽が香水と結びついた事への興奮が、未だに全く醒めないままでいます。
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<本文末で述べておられた「悲しさ」は、菊地さんのお仕事(音楽)の内容については順当な無理解によって友愛を発生させていた故・福田氏が、同時に菊地さん御自身と同じ「可愛げ」の共通項を持っていたことにより、接近も遠望もできない他者のまま突然「死」により突破されたことで発生した何かなのかな、と>
そうですね。福田さんのマイメンだった坪内さんも、僕にそこそこな岡惚れで、大変良くして頂いたんですが、亡くなってしまいまして、それから福田さんは孤独があったのだなあと思っています。
<「無圧縮音源データを購入して・iPod用に圧縮して・iTunesと同期して外に持ち出す」というジョブス健在期あたりまでのデジタルオーディオ用ルーチンはもう完全に過去のものとなりましたね。CDは夢グループによるルネサンス(←これに関して私は菊地さんによる分析を読むまで全く知りませんでした)もあり今後も生き延びるでしょうが、それよりも早くiPod(有線接続)的な音楽の聴き方が過去のものになってしまった。というのは、自分にとって大きな衝撃です。iPod(有線接続)よりもCDのほうがしぶとく生きるとは。「過去に想像されたものとは全く別の未来=現在」のありさまは、実際に生きてみなければ全く解りませんね>
僕は一貫してCD派で、DJも未だにCD-Jですが、最近、知人に、短冊と言われる「シングルCD」のパッケージが(カセットテープぐらいなのかどうか、規模はわかりませんが)、可愛くておしゃれなものニアイコール平成レトロみたいな感じで、やや流行っている旨、聞いています(以前、日記に書いた、小西康陽さんの「スキスキスー」をカヴァーしている若い女性がいる。という話の流れなんですが)。データ主義が、肉体を欠き、無常感だのアミニズムだのが全く宿らない、というのは誰でもわかるとして、いわゆるサイバー感覚すら刺激しない。という事実は、アメリカ / ヒッピーという文化圏が20世紀に生まれ、世紀末には狂い咲きしたのだな。と思うばかりです。
<(そういえば、『ベイビー・ドライバー』でiPodやカセットは出てきてもCDは全く出てきませんでしたね。あれはもしかするといかにも英国人らしい、「既に明らかな過去の歴史に属した物しか出さない」という博物館マナーで20世紀の文化を扱った映画だったのかもしれません>
そうですね。あれはカーマニアックな作品でもあり(というか、それがメインですが笑)、車載のCDプレーヤーがなかった時代の車にアイコニックなものを求めているとも思いますね。
<これを同時期のジェンキンス『ムーンライト』──場面演出での重要な小道具としてCDジュークボックスが用いられていた──と比較すると、あの時点での英国白人と米国黒人の音楽メディアを介したノスタルジアのありかたから意味ある差異を読み取ることができるのかもしれません。みたいなことをいきなり思いつきました>
シンプルにアフリカ系はキラキラ光って回転する物を手放さないでしょうし、英国文化は、「キラキラ光る」物がヘタ、というか、美術にも建築にも余り見られません。あとは図書館文化でしょうね。
この軸に、香港人も加えて良いかと思います。ウォン・カーウァイは「恋する惑星」と「天使乃涙」に、CDジュークボックスを登場させており、その強度は、1950年代のアメリカ映画におけるヴァイナル・ドーナッツ版のジュークボックスの強度に比肩しうる物です。
<実は、N/Kでない菊地成孔さんの新譜を聴くことになるのは『天使乃恥部』が初めてです。ジャズが葬儀にまつわる音楽であることを忘れず、それを聴く自分が誰なのか、また現在なのがいつなのか・いつかなのかさえ忘れることができればと思います。繰り返しになりますが、御新譜がひとまずデジタルで世にお目見えしたことを慶びとともに祝賀申し上げます。香水付フルパッケージ版の到着も心より楽しみにしております>
ありがとうございます。僕は、音楽が香水と結びついた事への興奮が、未だに全く醒めないままでいます。