菊地成孔(著者) のコメント

菊地成孔 菊地成孔
(著者)

>>50

 コメントを頂戴するたびに痛感し、それが麻痺したことがないのですが、やはりストリートのリアルとうものは箇所箇所によって全く違うという、概念的にはとっくに知っている原理のようなものですが、彼の地からのリポートは、一種の夢のような効果を持ってますね。

 僕はウイーンで闘犬を見たことがあります。それはなんて事はない、新宿で言えば地下のサブナードみたいな空間で、マクドナルドがありました。

 そのはす向かいに「シュトラウス(ワルツ王)の生家跡」という石碑みたいなもんが立っていたんですが、あんなもんは京都に腐る程ありますし、歌舞伎町に住んでいた頃は、マンションから出ると「小泉八雲の生家跡」という石碑もありましたので「へー、さすがウイーン。ザルツブルグに行ったらこんなモンじゃ済まないだろうな」と思い、毛皮の帽子を買うために(その時僕は、「毛皮の帽子を被らないと、脳が氷結しかけて死ぬ」という実感を生まれて初めて持ったので)、帽子屋を探していました。早朝の話です。

 しかし、まあそこそこ、新宿のサブナード程度には明るくて清潔な空間の、ごくごく普通の「マクドナルド・ウイーン地下鉄駅前店」みたいな店舗の真ん前に、1メートル四方ぐらいでしょうか、黒い染みがついていて異臭を放っていました。

 誰か、マックシェイクでもこぼしたのかな?と一瞬思ったんですが、その染みは赤黒く、ポロックのように、ぶちまけられたような形状でしたが、試しに指で擦ると、コールタールのような質感で、モップで拭いて取れるような感じじゃなかったんです。全身毛皮に身を包んだウイーン市民は、僕の素行を見て、明らかに軽蔑や哀れみの冷たい眼差しをくれました。流石に舐めはしませんでしたが、それは血の匂いでした。

 その日はオフだったので、毛皮の帽子も書い、屋台売りのシュニッツェルも買い、部屋で食べて、テレビを見てたんですが、どうしてもあの血痕が気になって、夜の10時だかそのぐらいに、毛皮の帽子をかぶって毛皮のコートを着て、あのマクドナルドに行ってみたんですね。

 通用口は半分は閉まっていて、でも、通用可能な入り口から簡単に入れました。そしたら、20人ぐらいの人だかりができていて、物凄いとしか言いようがない熱気で、闘犬博打が行われていたんです。

 もう、それはそれは、ハードコアで、「獰猛」という現象には英才教育を受けていたと信じてた僕でさえ、目を覆わんばかりの獰猛さが祭りを形成してたのでした。闘犬博打に興じる人々は、ほとんどが革ジャンを着た、いわゆるロックンローラーのようなルックだったんですが、毛皮にソフト帽の、上品そうな紳士も、その奥方と思しき、美しい帽子にベールがかかってる老婆もいました。

 なにせ一番驚いたのは、狂犬病ぐらいに猛り狂った、口から泡を拭いて、目を血走らせたシェパードに、さらにドープを打っている奴がいた事です。

 ドープを打たれた狂犬は、更に最強化して、首紐をちぎらんばかりに暴れ出しました。気がつくと、詰めの状態で待機している犬たちは、全部ドープを打たれていました。

 コンラートローレンツの本で「狼は狼の喉笛を食いちぎる事はできない」と知っており、本能のメカニズムに納得してたのですが、ドープを打たれた犬は、平気で相手の首筋に噛みつき、前足はサミングの一点狙いでした。

 人の輪の中心では、大一番が繰り広げられていて、僕が視線をくれた時には、丁度、勝負がついた瞬間でした。負けた方は、もともと茶色だと思うんですが、赤茶色でした。全身が血まみれで、首筋から細く、血が吹き出して、痙攣しいていました。勝った方は、調教師が荒縄で出来たSMの拘束みたいなもんで、ささっと捕縛されるんですが、2メートル近い大男がグラグラ揺れるほど大暴れしていました。

 大量の札束が動き、誰もが絶頂を迎えていました。「おお、やべえなヨーロッパ人の残虐」と、僕は興奮しつつもちょっと引いてしまって、もう帰ろう、と思っていたら、肩を叩かれました。最初から言葉なんか通じないと思ったのでしょう、相手は身振り手振りでしたが、そいつも口から泡を吹いていて、次の試合に出る2匹を指差し、親指と人差し指で札を揉む、例のあのジェスチャーをしました。どっちに賭ける?という訳です。

 当時僕は少々のドイツ語が話せたので、「いや、良い、観光客だ。見物だ」と言うと、そいつは猛烈な勢いでしゃべり出しました。何を言ってるのか全然わかりませんでしたが、合間合間にわかる単語がありました。忖度するに、「この博打は最低だ」「ウサギのレースが一番偉い」「中国には闘鶏があるだろ」「殺す」「喰う」「金がない」等のが含まれていて、僕は咄嗟には答えられず、とりあえず「そこのマクドナルドは許可してるのか?」と聞きました。

 すると、僕のドイツ語があまりに稚拙なのを聞き取ったか、長髪で、芸術家みたいな感じの中年男性が英語で話しかけてきました

 「失礼、あなたは中国人ですか?」
 「日本人です」
 「闘犬に興味が?」
 「いえ、日本に闘犬はない。ボクシングはありますよ。もちろん」
 「日本は大変文化的な国家だ。私は歌舞伎と北斎が好きです」
 「素晴らしい。僕はマーラーとシュトラウスが好きです」
 「素晴らしい。でも、私は闘犬も好きなのです」
 「闘犬は初めてみました」
 「日本で一番低級な賭博はなんですか?」
 「ボートレースかな、川にボートで」
 「ウイーンでは無理ですね笑」
 「どうして?」
 「川が凍るので」
 「ははははは」
 「犬の血も凍ります」
 「ここは暖房が効いてますね」
 「そうです。だから血が凍らずに」
 「はい、昼間それを見まして」
 「殺人事件かと思いました?」
 「いや、なんだかわからなかった」
 
 失礼、と彼は言って、ポケットからシリング(の時代です)の札を出し、「黒!」と叫んで、仕切りのネオナチ見たな奴に金を渡しました。しまったマクドナルドの話を聞けばよかった。と今でも思っています。

 



 

 

No.51 34ヶ月前

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