魔都DFのすぐ横、当国の古代の詩人の名を冠した地区がある。 Nezahualcoyotlネサワルコヨトルと呼ばれる、その地区は、魔都の全てを飲み込んで排出した。音楽、激情、水洗便所、愛、いくつかのパケ、そして悲しみ。僕は何度かそこに足を運んだ、ここから生まれた女子ボクサーの世界王者のジムに行くためだった。そこでは、文字通り老若男女がメキシコの国技に熱を上げていた。そのすぐ近くには、同じく国技のルチャを行う小さなアリーナが二つあった。そこには血に飢えたルチャドールたちが歓声を上げていた。 国技に熱中する彼らは、体を鍛え、技術を習得した。しかし、路上で襲われ、警察にカモられ、血を流し、時に命を落とした。勿論、全員ではない。 そんなことが続いてから、ネサ(ネサワルコヨトルは長いので皆この愛称で呼ぶ)は、「あんなとこ歩けないよ」と言われるようになった。 そういえば、僕の友人の車が盗まれた時、ネサで発見された。僕らは、その盗まれた車を確認のため見にいったのだが、タイヤが全て外され、ボンネットが開いたまま煙をあげていた。僕らが、その車の横を通り過ぎる時、目の前の家の閉じられたカーテンから一人の老女がこちらを見ていた。その後、老女はすぐにカーテンを閉めて消えた。 だが、ネサに行く度にいつも思う。 歩けない場所なんてない。別に、歩ける。 行っては行けない場所もない。どこにだって行ける。 国境には、沢山の壁のない場所があって、普通に歩ける。僕も何度も歩いた。 歩けないとしたら、それは多分、想像力の問題だ。 今まで一番覚えているのは、エルサルバドル人が国境の壁の上に登って歩いていた光景だ。彼はアメリカの警備隊に文字通り銃で頭を照射されながら、平均台の上を歩くように壁の上を軽やかに歩いた。 初めてキューバに行った時、何度も言われた。 お前の手は細くて小さいから、太鼓を叩くのには向いてないよ。 そういった先生の手は、確かにデカくて分厚かった。 キューバルンバの虜だった僕は、コッペリアのたいして美味くもない(だが、キューバでは異常に美味い)アイスを食べながら、路上のルンバを見ながら、時に叩きながら、社会主義的ルンバを一身に感じた。最初に与えられたのはクラ−ベで、確かにクラ−ベは優しく持たなければなければ音が跳ねなくて、そして、要だった。 僕はなけなしの金を払って、コンガを二本買って、隣国に持って帰った。袋もプチプチもないので、貴重な段ボールでグルグル巻きにして持って帰った。何かが始まる予感がした。 その後、大儀見さんに日本で会う機会があって握手してもらった。 その手は、デカくも分厚くもなかったのだけは、よく覚えている。 キューバでは、よくスウィンゴサのオグゥンを聞いていた。 どこの国でも、DJを頼まれればスウィンゴサとDCPRGをプレイした。 つくづく菊地成孔と大儀見元のいるバンドが好きなんだよな、といつも思っている。 大儀見さんが大変だった時のことは、今でも覚えている。 妻に、クロコダイルに行ってみないか?と言ったことがある。 すると「いやよ、私、競技ダンスは踊りたくないから」と返された。 下町育ちの彼女は、サルサはフィエスタで覚えるものだという。 確かに下町−僕らはバリオと呼ぶが−バリオの連中は、もう本当に凄い。なにせ年がら年中踊っているからだ。特に、ネサは有名だ。ネサに生まれて踊れない奴は、ジャンキー以下の扱いだ。ラテーロの方が、まだマシかもしれない。 でも、今度帰った時には、クロコダイルに行ってみたいと思う。もしかしたら、バリオの連中がいるのかもしれない。 バリオのサロンを巡る時、いつも思う。 ああ、もしぺぺがラテンアメリカに来ることがあれば、出来れば、こんな柄の悪い、そして踊りに飢えた、水洗便所が汚いくせにチップを払うようなサロンで演奏してくれないものか、と思う。あの奇妙なパーカッションセットを響かせる大儀見元とクラ−ベを叩きながらゲラゲラ笑う菊地成孔を見てみたい。 サロン・ロスアンヘレスはまだ健在だ。カルフォルニア・ダンシングクラブもある。店の前には、売春婦がうようよしている。客には、ペレス・プラードで踊ったことのある連中がまだゴロゴロいる。Talento de televisionは一晩で最低でも10回はプレイされる。いくつになっても、ヤンチャで可愛い。 そんな連中に見て欲しい。世界には、こんな音楽をやる連中がいるんだ、と。まだまだ踊り足りない連中を驚かせて欲しい。Epa!
チャンネルに入会
フォロー
ビュロー菊地チャンネル
(ID:11887164)
魔都DFのすぐ横、当国の古代の詩人の名を冠した地区がある。
Nezahualcoyotlネサワルコヨトルと呼ばれる、その地区は、魔都の全てを飲み込んで排出した。音楽、激情、水洗便所、愛、いくつかのパケ、そして悲しみ。僕は何度かそこに足を運んだ、ここから生まれた女子ボクサーの世界王者のジムに行くためだった。そこでは、文字通り老若男女がメキシコの国技に熱を上げていた。そのすぐ近くには、同じく国技のルチャを行う小さなアリーナが二つあった。そこには血に飢えたルチャドールたちが歓声を上げていた。
国技に熱中する彼らは、体を鍛え、技術を習得した。しかし、路上で襲われ、警察にカモられ、血を流し、時に命を落とした。勿論、全員ではない。
そんなことが続いてから、ネサ(ネサワルコヨトルは長いので皆この愛称で呼ぶ)は、「あんなとこ歩けないよ」と言われるようになった。
そういえば、僕の友人の車が盗まれた時、ネサで発見された。僕らは、その盗まれた車を確認のため見にいったのだが、タイヤが全て外され、ボンネットが開いたまま煙をあげていた。僕らが、その車の横を通り過ぎる時、目の前の家の閉じられたカーテンから一人の老女がこちらを見ていた。その後、老女はすぐにカーテンを閉めて消えた。
だが、ネサに行く度にいつも思う。
歩けない場所なんてない。別に、歩ける。
行っては行けない場所もない。どこにだって行ける。
国境には、沢山の壁のない場所があって、普通に歩ける。僕も何度も歩いた。
歩けないとしたら、それは多分、想像力の問題だ。
今まで一番覚えているのは、エルサルバドル人が国境の壁の上に登って歩いていた光景だ。彼はアメリカの警備隊に文字通り銃で頭を照射されながら、平均台の上を歩くように壁の上を軽やかに歩いた。
初めてキューバに行った時、何度も言われた。
お前の手は細くて小さいから、太鼓を叩くのには向いてないよ。
そういった先生の手は、確かにデカくて分厚かった。
キューバルンバの虜だった僕は、コッペリアのたいして美味くもない(だが、キューバでは異常に美味い)アイスを食べながら、路上のルンバを見ながら、時に叩きながら、社会主義的ルンバを一身に感じた。最初に与えられたのはクラ−ベで、確かにクラ−ベは優しく持たなければなければ音が跳ねなくて、そして、要だった。
僕はなけなしの金を払って、コンガを二本買って、隣国に持って帰った。袋もプチプチもないので、貴重な段ボールでグルグル巻きにして持って帰った。何かが始まる予感がした。
その後、大儀見さんに日本で会う機会があって握手してもらった。
その手は、デカくも分厚くもなかったのだけは、よく覚えている。
キューバでは、よくスウィンゴサのオグゥンを聞いていた。
どこの国でも、DJを頼まれればスウィンゴサとDCPRGをプレイした。
つくづく菊地成孔と大儀見元のいるバンドが好きなんだよな、といつも思っている。
大儀見さんが大変だった時のことは、今でも覚えている。
妻に、クロコダイルに行ってみないか?と言ったことがある。
すると「いやよ、私、競技ダンスは踊りたくないから」と返された。
下町育ちの彼女は、サルサはフィエスタで覚えるものだという。
確かに下町−僕らはバリオと呼ぶが−バリオの連中は、もう本当に凄い。なにせ年がら年中踊っているからだ。特に、ネサは有名だ。ネサに生まれて踊れない奴は、ジャンキー以下の扱いだ。ラテーロの方が、まだマシかもしれない。
でも、今度帰った時には、クロコダイルに行ってみたいと思う。もしかしたら、バリオの連中がいるのかもしれない。
バリオのサロンを巡る時、いつも思う。
ああ、もしぺぺがラテンアメリカに来ることがあれば、出来れば、こんな柄の悪い、そして踊りに飢えた、水洗便所が汚いくせにチップを払うようなサロンで演奏してくれないものか、と思う。あの奇妙なパーカッションセットを響かせる大儀見元とクラ−ベを叩きながらゲラゲラ笑う菊地成孔を見てみたい。
サロン・ロスアンヘレスはまだ健在だ。カルフォルニア・ダンシングクラブもある。店の前には、売春婦がうようよしている。客には、ペレス・プラードで踊ったことのある連中がまだゴロゴロいる。Talento de televisionは一晩で最低でも10回はプレイされる。いくつになっても、ヤンチャで可愛い。
そんな連中に見て欲しい。世界には、こんな音楽をやる連中がいるんだ、と。まだまだ踊り足りない連中を驚かせて欲しい。Epa!