菊地成孔(著者) のコメント

菊地成孔 菊地成孔
(著者)

>>4

<韓国焼肉屋に行けば(当国は歓楽街のど真ん中に韓国人街が鎮座しております)、ホンサンス作品が上映される度に、作品の手作りポスターが焼肉屋に貼られていました。誰がそのポスターを作り、誰が貼ったのかは分かりません。隣には、Sojuを飲み続ける韓国人男性達。網の上では鶏の足が焼かれてます。オモニは、流し続けた韓流ドラマを見ています。>

 ↑ まだ世界は広いなあと思います。これはすごいですね。

<作品を見ていつも感じるのは、アクション(ト書き)とダイアローグ(台詞)のコード化です。(シナリオに起こし直すと顕著です。この間のラジオデイズの音声による再現が近いと思いました)その上で、ダイアローグを構築した時に交わされる会話の「運動」がものすごいな、と思います。>

 ↑ 僕もそう思います。ホン・サンスは、酒盛りのシーンだけは実際に酒盛りして、ダイアログ即興で撮影しているらしいのですが(実際は知りませんが)、はっきりと他のシーンとの差があります(何か、酒盛りのシーンだけ「休憩」しているような)。それはアクションとダイアログが交わった時に生じる激しい運動性が、さほどでもなくなるからだ。と考えています。


<(私がスペイン語字幕で鑑賞していることに、そのコード化と運動を感じる一因があるのかもしれません)>

 ↑ 逆に僕は、実に色々な世界中のコンテンツにスペイン語(と、アラブ語)字幕がついているのを、様々な局面で見ており、スペイン語の具体的な強さ(繁殖力)と、コード化の強さを感じたりしています。60年代東宝プログラムピクチャーのDVDには、「日本語字幕」が付いており、これは単に「もう、今では言わなくなってしまった言い回し」などを再確認できる、いわば歌舞伎の音声案内と同じ意義を持つ側面もありますが、「日本語のセリフを聞き、目でも文字列を追う」という行為が、ダイアログとアクションの新しい関係を形成して「しまっている」のも事実で、興味深いです(字幕は消すこともできるので、比べると映画体験が全然変わります)。


<勿論、コード化した上で、もう一度、そのコードを映像で再現するので、その時に完全にマジックが注入されるように思います。

ボルヘスの言う、炎と数学、の結晶のように。>

 ↑ 「戒厳令下の新宿」で引用しましたが、ルイスキャロルは「鉱物には主観がないので、炎の力がいる。それは天変地異を起こさせるほど強烈なものを」と言いました。僕は、ホン・サンスの映画を見るたびに、この言葉を思い出します。あの、鉱物的とも言える静けさを結晶化させているのは、炎と数学だと思いますね。

No.9 41ヶ月前

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