>>22 お知り合いの若いミュージシャンの方々も含め、みなさん、音楽にとってSNS的なあれこれはどうでもいいと思っておられるということで、俄然、次の「踊れるバンド」が楽しみになりました。 お返事を読んでから『次の東京オリンピックが来てしまう前に』を読んでいて思ったのですが、296ページ1行目、下から2文字目の「。」は、「、」が正しいのではないでしょうか?もしそうなら、あの部分の文章は、この世界が100人なら、3人の利口を97人の馬鹿が支えているという、馬鹿にとって自分の死を直視するのと同じくらいキツい現実を、SNSを使用することで見ざるを得ないのに、SNSによる「発言の自由」という大義に忠実でなければならないという超自我の命令に自我を従わせる無意識的なすり替えによって、人はSNSを使用し続け、自我への拷問を続けている、というような意味になるかと思います。あの部分、読点のせいでちょっと意味が分からなかったのですが、なんとなく理解できました。 同じページの、「自我と環境を激しく汚染させ」の「環境」とは、自我にとっての環境、社会システム論のニクラス・ルーマンっぽく言えば、自我に対するコミュニケーションの環境のことを指すのでしょうか?それこそ、Twitterの使用がそのまま正義の表明に直結させられるようなコミュニケーション環境は、何の観察も理解も無い、ただの肥溜めだと思います。 同じエッセイで、今のニューヨークは次の日本。的な妄言を拡散するような馬鹿リベラルがもたらす社会的な害について触れられていて、それは一見、菊地さんが馬鹿を社会派的に糾弾されているようにも見えますが、私には、フロイディアンの倫理に忠実に、自我の強化の必要性を説いておられるだけのようにも思われます。SNSを使って自分が97人の馬鹿だという現実を見続けるのはやめた方がいい、というのも同種の自我への配慮で、Twitter国訪問も同様かと思いますが、そのことが、小鳥たちには上から目線で説教されているようしか見えないのかと思います(話が横道に逸れますが、ぺぺの「小鳥たちのためにⅡ」という曲名について、こうした文脈から言及されているのを見かけたことがないのですが、書名からの引用という菊地マナーの中でも特に素晴らしいなと思いました。聴いた時の印象にもぴったりのタイトルで、大好きな曲です)。 『次の東京オリンピック〜』の木澤佐登志という方の書評で、長年菊地さんのファンだったが、菊地さんはリベラルをガチで批難するような人になってしてしまって残念だ。というのが町山さんとの騒動の時にTwitterでバズっているのを見ましたが、そのような見方は前述の菊地さんのフロイディアン的な穏当さへの不理解からくるものであって、菊地さんのファンであってもフロイトを理解するのは難しい、ということを証明しているようにも思いました。私自身、2000年頃から菊地さんを追っていて、最初はその書評者と同じく、理解できていなかったのですが、ある時を境に理解できるようになった気がします。何がきっかけだったのかは自分でも分かりませんが。 コミュニケーション環境の汚染、匿名批評家の増殖、という事態をまざまざと見せられたのがSNSの10年だとして、このような事態を菊地さんは怖いとおっしゃられている一方で、自分に自信を持てば大丈夫、ともおっしゃられています。自信を持つとは、フロイト的に言い換えれば、自我をエスに近づけるという意味に近いかと思います。 Twitter定着以前に上梓された『ユングのサウンドトラック』まえがきで、アーカイブの完成後は、欠損を表明することに価値が付与されることに言及されていて、この話は20世紀的な批評家が上、素人が下、の構造の転倒につながり、そこから得られるフレッシュさ、後ろめたさの解消、といった話に繋がっていくかと思います(スーパーフラットの可能性はこうした部分に関わるのかと思います)。同じくTwitter以前の『記憶喪失学』で提示されたコンセプト、というか直観?がそれに先行されていたのかと推測します。最近のエッセイでもブルータスに対してヤケドするぞと冗談を言われながら言及されていましたが、菊地さんのあの時期の作品群は、自我の、エスの飼いならし、社会的な環境への恐怖への順応、双方の鍛錬に関する、今こそ旬と言える内容が盛りだくさんなのではないかと感じています。 あと、誰も触れてないのでこの際だから言いたいのですが、今回のTwitterの、町山さんの信者は半沢直樹の見過ぎでは?という部分がめっちゃ面白かったです。
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>>22
お知り合いの若いミュージシャンの方々も含め、みなさん、音楽にとってSNS的なあれこれはどうでもいいと思っておられるということで、俄然、次の「踊れるバンド」が楽しみになりました。
お返事を読んでから『次の東京オリンピックが来てしまう前に』を読んでいて思ったのですが、296ページ1行目、下から2文字目の「。」は、「、」が正しいのではないでしょうか?もしそうなら、あの部分の文章は、この世界が100人なら、3人の利口を97人の馬鹿が支えているという、馬鹿にとって自分の死を直視するのと同じくらいキツい現実を、SNSを使用することで見ざるを得ないのに、SNSによる「発言の自由」という大義に忠実でなければならないという超自我の命令に自我を従わせる無意識的なすり替えによって、人はSNSを使用し続け、自我への拷問を続けている、というような意味になるかと思います。あの部分、読点のせいでちょっと意味が分からなかったのですが、なんとなく理解できました。
同じページの、「自我と環境を激しく汚染させ」の「環境」とは、自我にとっての環境、社会システム論のニクラス・ルーマンっぽく言えば、自我に対するコミュニケーションの環境のことを指すのでしょうか?それこそ、Twitterの使用がそのまま正義の表明に直結させられるようなコミュニケーション環境は、何の観察も理解も無い、ただの肥溜めだと思います。
同じエッセイで、今のニューヨークは次の日本。的な妄言を拡散するような馬鹿リベラルがもたらす社会的な害について触れられていて、それは一見、菊地さんが馬鹿を社会派的に糾弾されているようにも見えますが、私には、フロイディアンの倫理に忠実に、自我の強化の必要性を説いておられるだけのようにも思われます。SNSを使って自分が97人の馬鹿だという現実を見続けるのはやめた方がいい、というのも同種の自我への配慮で、Twitter国訪問も同様かと思いますが、そのことが、小鳥たちには上から目線で説教されているようしか見えないのかと思います(話が横道に逸れますが、ぺぺの「小鳥たちのためにⅡ」という曲名について、こうした文脈から言及されているのを見かけたことがないのですが、書名からの引用という菊地マナーの中でも特に素晴らしいなと思いました。聴いた時の印象にもぴったりのタイトルで、大好きな曲です)。
『次の東京オリンピック〜』の木澤佐登志という方の書評で、長年菊地さんのファンだったが、菊地さんはリベラルをガチで批難するような人になってしてしまって残念だ。というのが町山さんとの騒動の時にTwitterでバズっているのを見ましたが、そのような見方は前述の菊地さんのフロイディアン的な穏当さへの不理解からくるものであって、菊地さんのファンであってもフロイトを理解するのは難しい、ということを証明しているようにも思いました。私自身、2000年頃から菊地さんを追っていて、最初はその書評者と同じく、理解できていなかったのですが、ある時を境に理解できるようになった気がします。何がきっかけだったのかは自分でも分かりませんが。
コミュニケーション環境の汚染、匿名批評家の増殖、という事態をまざまざと見せられたのがSNSの10年だとして、このような事態を菊地さんは怖いとおっしゃられている一方で、自分に自信を持てば大丈夫、ともおっしゃられています。自信を持つとは、フロイト的に言い換えれば、自我をエスに近づけるという意味に近いかと思います。
Twitter定着以前に上梓された『ユングのサウンドトラック』まえがきで、アーカイブの完成後は、欠損を表明することに価値が付与されることに言及されていて、この話は20世紀的な批評家が上、素人が下、の構造の転倒につながり、そこから得られるフレッシュさ、後ろめたさの解消、といった話に繋がっていくかと思います(スーパーフラットの可能性はこうした部分に関わるのかと思います)。同じくTwitter以前の『記憶喪失学』で提示されたコンセプト、というか直観?がそれに先行されていたのかと推測します。最近のエッセイでもブルータスに対してヤケドするぞと冗談を言われながら言及されていましたが、菊地さんのあの時期の作品群は、自我の、エスの飼いならし、社会的な環境への恐怖への順応、双方の鍛錬に関する、今こそ旬と言える内容が盛りだくさんなのではないかと感じています。
あと、誰も触れてないのでこの際だから言いたいのですが、今回のTwitterの、町山さんの信者は半沢直樹の見過ぎでは?という部分がめっちゃ面白かったです。