>>19 「前進的に諦める」というのは、「ルールとの対立」や「反発」もしくはその先にある「勝利」とかを諦めるのではなくて、むしろ闘争を「白ける」「手放す」という感覚に近いです。エディプスとの闘いは自分が父親になったら自然と無くなる、とか、強権的な父なるものをリアルタイムで殺す、という様な事ではなく(実際の尊属殺の様な、暴走した父殺しは、共犯的とはいえ、暴走は暴走なので)、何かのきっかけで闘争に成功することであって、ここでの「成功」のケース1として「前進的に諦める=白ける=手放す」事が出来たら闘争が止まります。 SNSによる、加速的な言語の生成は、言語の持つ「母性」に相当するとします。みんなお母さんに甘えて、赤ちゃん言葉の生成に酔い痴れる訳ですよね(あだ名をつけたり、キャラクター化された記号を生み出したりもそうです)。しかしこれだと単なるファザコンとマザコンになります。「ゼロ文」だけでは無く、僕が教壇に立つ時は母性的もしくは子供的で、これは僕の属性ですが(例えば、教壇こそが強権者の立つ場なので、気をつけている」とかでは全くありません)、もし、父なる誰かから過去に受けた教育がかなり嫌なもので、「ゼロ文」はそうでもない、のだとした場合、ですが、図式としては、母から受ける教育もしくは子供から受ける教育に適性がある。もしくは、嫌だ嫌だと言いながら実際は強権的なものへの適性がある(父に殺意を持つ事は健康的な事なので)。という二つの可能性に引裂かれますが、あくまでこの文脈では、ですが、「誰からの教育か?」という事に関わらない独立性が、「生徒」として最も健康的だというのが正しく思います。 コロナの名称も、その名の通りコロコロ変わりますが笑、この不安定さの至近例(もしくは根源)としては秋葉原での通り魔事件の正式名称が、過去の、あれに匹敵する犯罪よりも、「(報道される)正式名称」が不安定だった(ひょっとしたら、まだ無いかも知れないです)」という事実が挙げられます(「時事ネタ嫌い」に詳しいので、お暇でしたら参考にしてください)。「強ち全て間違いと言う訳でも無い様に思えます」というのはおっしゃる通りで、そもそも人間が形成する社会は、構造ができた段階で犯罪者と狂人を生成するので、旧極左派、例えば亡くなった平岡正明先生は、犯罪者か気狂いになりたい、目指すのである。と断言したりしますが、何れにせよ、僕は不適応者を敗者であるとか愚者であるとは全く思いません、不適応者(平岡的には犯罪者と気狂い)だけが次の世界を作るきっかけになるので(適応者は変革を避けるので)、不適応者の増加傾向は、単に社会が変わる可能性の増加と同じだと思っています。つまり、間違いというものはそもそも無く、あるのは変化だけで、そこには反復的に適応者と不適応者を生じさせるわけで、なおかつ、変化は革命的に一瞬では起こらないので、人は誰も、局面的な不適応者であり、局面的な適応者なわけです。僕も自分が適応者のシーンと不適応者のシーンは自覚しています。 なので問題は、「不適応者を敗北者であるとは言わないが、自分を360度完全無欠の不適応者だと思い込む」という、リベラルと鬱病的感覚のミックスであって、僕は「諦めるべき」と言ったのは、もしアンチエディプス的な闘争をやめたいと思うならば。という局面的な話ですね。再度書きますが、前進的に諦める(白ける)契機は、そこら中にいつでも転がっているので。
チャンネルに入会
フォロー
ビュロー菊地チャンネル
(著者)
>>19
「前進的に諦める」というのは、「ルールとの対立」や「反発」もしくはその先にある「勝利」とかを諦めるのではなくて、むしろ闘争を「白ける」「手放す」という感覚に近いです。エディプスとの闘いは自分が父親になったら自然と無くなる、とか、強権的な父なるものをリアルタイムで殺す、という様な事ではなく(実際の尊属殺の様な、暴走した父殺しは、共犯的とはいえ、暴走は暴走なので)、何かのきっかけで闘争に成功することであって、ここでの「成功」のケース1として「前進的に諦める=白ける=手放す」事が出来たら闘争が止まります。
SNSによる、加速的な言語の生成は、言語の持つ「母性」に相当するとします。みんなお母さんに甘えて、赤ちゃん言葉の生成に酔い痴れる訳ですよね(あだ名をつけたり、キャラクター化された記号を生み出したりもそうです)。しかしこれだと単なるファザコンとマザコンになります。「ゼロ文」だけでは無く、僕が教壇に立つ時は母性的もしくは子供的で、これは僕の属性ですが(例えば、教壇こそが強権者の立つ場なので、気をつけている」とかでは全くありません)、もし、父なる誰かから過去に受けた教育がかなり嫌なもので、「ゼロ文」はそうでもない、のだとした場合、ですが、図式としては、母から受ける教育もしくは子供から受ける教育に適性がある。もしくは、嫌だ嫌だと言いながら実際は強権的なものへの適性がある(父に殺意を持つ事は健康的な事なので)。という二つの可能性に引裂かれますが、あくまでこの文脈では、ですが、「誰からの教育か?」という事に関わらない独立性が、「生徒」として最も健康的だというのが正しく思います。
コロナの名称も、その名の通りコロコロ変わりますが笑、この不安定さの至近例(もしくは根源)としては秋葉原での通り魔事件の正式名称が、過去の、あれに匹敵する犯罪よりも、「(報道される)正式名称」が不安定だった(ひょっとしたら、まだ無いかも知れないです)」という事実が挙げられます(「時事ネタ嫌い」に詳しいので、お暇でしたら参考にしてください)。「強ち全て間違いと言う訳でも無い様に思えます」というのはおっしゃる通りで、そもそも人間が形成する社会は、構造ができた段階で犯罪者と狂人を生成するので、旧極左派、例えば亡くなった平岡正明先生は、犯罪者か気狂いになりたい、目指すのである。と断言したりしますが、何れにせよ、僕は不適応者を敗者であるとか愚者であるとは全く思いません、不適応者(平岡的には犯罪者と気狂い)だけが次の世界を作るきっかけになるので(適応者は変革を避けるので)、不適応者の増加傾向は、単に社会が変わる可能性の増加と同じだと思っています。つまり、間違いというものはそもそも無く、あるのは変化だけで、そこには反復的に適応者と不適応者を生じさせるわけで、なおかつ、変化は革命的に一瞬では起こらないので、人は誰も、局面的な不適応者であり、局面的な適応者なわけです。僕も自分が適応者のシーンと不適応者のシーンは自覚しています。
なので問題は、「不適応者を敗北者であるとは言わないが、自分を360度完全無欠の不適応者だと思い込む」という、リベラルと鬱病的感覚のミックスであって、僕は「諦めるべき」と言ったのは、もしアンチエディプス的な闘争をやめたいと思うならば。という局面的な話ですね。再度書きますが、前進的に諦める(白ける)契機は、そこら中にいつでも転がっているので。