>>32 「とんでもない短編があるから見てみろ」と言われて(そいつが信頼できるやつだったから。というのもあったんですが)油断してついつい見てしまったら ↓ 「男の子が/父親をセクハラ(事実上の、毎夜のレイプ)をしている家族/母親は見て見ぬ振りをしているが、息子が嫌がる父親にフェラチオしたりしているのを日々目の当たりに/父親は狂って外に飛び出し、死亡/母子家庭に/色々あるが最終的に母親が息子を殺す という、とにかく「悲惨なら何でも良い」ような短編で、それがアリ・アスターの作品でした笑。まあ単純に、短時間だったし、そのうち忘れるから良いとしても、はっきりと後悔はしましたね笑。 僕は、極限的な表現を認めないわけでは全くありません。そして大体において、「極限的」と言えば、これもフロイドですが、人が溜め込んで、「極限的に噴出させなければならない物」は、幸福とか平和ではなく(「ハードコア・ピース」というのは、平和の極限値が戦争と円環的に繋がっている。という意味です)、暴力だとか、悲惨さだとか、概ねソッチ方面に偏りがちですが、それでもなお、優れた表現はあると評価しています。 ガロ時代の根元敬のイマジネーションとか(一見、冒頭の短編など、物がちゃんと見えないト民に「根本敬の漫画みたいな」とか言われそうです)、ペンデレツキのトーンクラスターとか、我が国の、メルツバウ等々、優れたハードコアノイズだとか、ボッスの巨大絵画とか。小説でも、僕のオールタイムベストの一冊には、ジャージ・コジンスキーの「異端の鳥」という凄まじいのがあり、これは始まりから終わりまで、残虐で悲惨な描写がずーっと続く小説です(コジンスキーはホロコーストトラウマで失語症を数年間患った病歴があり、57歳で自殺しています)。発表当時は賛否両論となったデイミアン・ハーストのエグい作品(「1000年」という題名の、腐った牛の首を、たかっている蝿や蛆ごと展示がブレイクスルーですね。ハーストは今でも元気ですが)も、まあ、すごく力はあるよな。病理のあり方がベタすぎてアレだけど。と思います。鬱状態にある患者が「明るく元気な物語は気が滅入る。むしろ悲惨な話の方が救われる」と感じることにも、全面的に支持は出来かねますが(僕はこれを、いわゆる逆療法とは考えず、ソフト自傷と考えるので)、全く理解できない。という話ではありません。 ただ、こうしたものが評価できるのは、その作者や作品、という第一リージョンも重要ですが、その1歩前に、「総合芸術ではない/大衆娯楽に奉仕するものではない」という濾過を経ており、大衆娯楽であり(もう、「ミニシアター系」というコンセプトは、実態を失い、ピュア・コンセプトになっちゃってますし、実際アスターの作品は地下の映写室ではなく、世界中のシネコンで上映されます)、不完全ながら総合芸術である「映画」というシーンでは、かなりハードルが上がると思っています。 僕は映画でいうとシュレンドルフの「ブリキの太鼓」をセーフティラインにしており「高いねー。ラインが」と言われることも多々あるんですが笑、映画はコードがあるので描写そのものの内容は上限が保証されていることも手伝い、その表現に感動させるものがあるかどうか、のラインで、「神々の黄昏」はギリでセーフですし、「ソドムの市」は楽々セーフです。ダーレン・アレノフスキーの初期作品「レクイエム4ドリーム」とかは完全にアウトですね(アレの試写会場で最初のパニック発作があった。そして、必死に前の席の人のスーツを掴んだら、振り返ったのが蛭子能収さんだったという悪い思い出笑、も加味され)。 それこそ料簡を変えて(つまり「改心」し)「レスラー」とか「ブラックスワン」とか作ったアレノフスキーや、グロではないけど「セックスと嘘とビデオテープ」(僕はこれ、アドラー心理学と日本のAVを勘で結びつけた珍品として好きですけど)から「改心して」、オーシャンズや「恋するリベラーチェ」までやってるソダーバーグなどは評価しますが、「後で改心する監督の、若気の至り」と、「生涯それやってた」との差を、ブレイクスルー作の時から見極めないと、批評家とは言えないと思っています。僕が「ハーストではなく、チャゼルの方のデミアン君には改心の余地を与える」と、上から目線で言ったのはそういう意味です。「ファーストマン」では、少し改心して偉かったねデミアン坊や笑。という感じで、アリ・アスターは今、若気が至ってる最中、に僕が有り金ぜんぶ置きますね。5年後ぐらいにHBOで学園モノとか撮ってると良いよ。太古の昔からあったエグフェチにSNSが引き起こす病み方を掛け合わせて適合してるだけだろ。別にいいけど、そんなマーケットどうでも良くない?もうカルトとかB級とかないんだからさ。
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ビュロー菊地チャンネル
(著者)
>>32
「とんでもない短編があるから見てみろ」と言われて(そいつが信頼できるやつだったから。というのもあったんですが)油断してついつい見てしまったら
↓
「男の子が/父親をセクハラ(事実上の、毎夜のレイプ)をしている家族/母親は見て見ぬ振りをしているが、息子が嫌がる父親にフェラチオしたりしているのを日々目の当たりに/父親は狂って外に飛び出し、死亡/母子家庭に/色々あるが最終的に母親が息子を殺す
という、とにかく「悲惨なら何でも良い」ような短編で、それがアリ・アスターの作品でした笑。まあ単純に、短時間だったし、そのうち忘れるから良いとしても、はっきりと後悔はしましたね笑。
僕は、極限的な表現を認めないわけでは全くありません。そして大体において、「極限的」と言えば、これもフロイドですが、人が溜め込んで、「極限的に噴出させなければならない物」は、幸福とか平和ではなく(「ハードコア・ピース」というのは、平和の極限値が戦争と円環的に繋がっている。という意味です)、暴力だとか、悲惨さだとか、概ねソッチ方面に偏りがちですが、それでもなお、優れた表現はあると評価しています。
ガロ時代の根元敬のイマジネーションとか(一見、冒頭の短編など、物がちゃんと見えないト民に「根本敬の漫画みたいな」とか言われそうです)、ペンデレツキのトーンクラスターとか、我が国の、メルツバウ等々、優れたハードコアノイズだとか、ボッスの巨大絵画とか。小説でも、僕のオールタイムベストの一冊には、ジャージ・コジンスキーの「異端の鳥」という凄まじいのがあり、これは始まりから終わりまで、残虐で悲惨な描写がずーっと続く小説です(コジンスキーはホロコーストトラウマで失語症を数年間患った病歴があり、57歳で自殺しています)。発表当時は賛否両論となったデイミアン・ハーストのエグい作品(「1000年」という題名の、腐った牛の首を、たかっている蝿や蛆ごと展示がブレイクスルーですね。ハーストは今でも元気ですが)も、まあ、すごく力はあるよな。病理のあり方がベタすぎてアレだけど。と思います。鬱状態にある患者が「明るく元気な物語は気が滅入る。むしろ悲惨な話の方が救われる」と感じることにも、全面的に支持は出来かねますが(僕はこれを、いわゆる逆療法とは考えず、ソフト自傷と考えるので)、全く理解できない。という話ではありません。
ただ、こうしたものが評価できるのは、その作者や作品、という第一リージョンも重要ですが、その1歩前に、「総合芸術ではない/大衆娯楽に奉仕するものではない」という濾過を経ており、大衆娯楽であり(もう、「ミニシアター系」というコンセプトは、実態を失い、ピュア・コンセプトになっちゃってますし、実際アスターの作品は地下の映写室ではなく、世界中のシネコンで上映されます)、不完全ながら総合芸術である「映画」というシーンでは、かなりハードルが上がると思っています。
僕は映画でいうとシュレンドルフの「ブリキの太鼓」をセーフティラインにしており「高いねー。ラインが」と言われることも多々あるんですが笑、映画はコードがあるので描写そのものの内容は上限が保証されていることも手伝い、その表現に感動させるものがあるかどうか、のラインで、「神々の黄昏」はギリでセーフですし、「ソドムの市」は楽々セーフです。ダーレン・アレノフスキーの初期作品「レクイエム4ドリーム」とかは完全にアウトですね(アレの試写会場で最初のパニック発作があった。そして、必死に前の席の人のスーツを掴んだら、振り返ったのが蛭子能収さんだったという悪い思い出笑、も加味され)。
それこそ料簡を変えて(つまり「改心」し)「レスラー」とか「ブラックスワン」とか作ったアレノフスキーや、グロではないけど「セックスと嘘とビデオテープ」(僕はこれ、アドラー心理学と日本のAVを勘で結びつけた珍品として好きですけど)から「改心して」、オーシャンズや「恋するリベラーチェ」までやってるソダーバーグなどは評価しますが、「後で改心する監督の、若気の至り」と、「生涯それやってた」との差を、ブレイクスルー作の時から見極めないと、批評家とは言えないと思っています。僕が「ハーストではなく、チャゼルの方のデミアン君には改心の余地を与える」と、上から目線で言ったのはそういう意味です。「ファーストマン」では、少し改心して偉かったねデミアン坊や笑。という感じで、アリ・アスターは今、若気が至ってる最中、に僕が有り金ぜんぶ置きますね。5年後ぐらいにHBOで学園モノとか撮ってると良いよ。太古の昔からあったエグフェチにSNSが引き起こす病み方を掛け合わせて適合してるだけだろ。別にいいけど、そんなマーケットどうでも良くない?もうカルトとかB級とかないんだからさ。