ビュロ菊だより

「それはどこにでもある、聞いた事ある、そんな、ありきたりでつまらないお話/スパンクハッピー活動再開に際して/菊地成孔と小田朋美による共同声明」(前編)

2018/06/20 12:00 投稿

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「それはどこにでもある、聞いた事ある、そんな、ありきたりでつまらないお話/スパンクハッピー活動再開に際して/菊地成孔と小田朋美による共同声明」(前編)


 <まず菊地成孔>

 (スパンクハッピーを包括的に語る事のみならず、ODを小田朋美さんだとして書く文章は、少なくとも僕は、これを最初で最後とするので、小田朋美さんのファンの方は特にお読みください、あるいは特にお読みにならないでください)

  一期のヴォーカルだった原みどりさんも、相方だった河野伸くんも共に現役で元気に活動しているし、アルバムはボーナストラックまでついた復刻版が出ています(2007年10月。もう10年以上前ですね。これもぜんぜん売れませんでした。発売時も復刻時も売れないのだから、永遠に売れないと思います・笑)。

 ですのでやはり、ファンの皆様の前から、魔法の様にミッシングしてしまっているままの、岩澤瞳さんについてから書かせて頂きます。

 とはいえ、生きていれば今頃40歳になるのね私のジョンベネ・ラムジー。ではなく、生きていれば今頃ちょうど40歳になる岩澤さんが、今どこで何をしているか、僕はまったく知りません。

 最後に連絡をとったのは、僕と一緒に岩澤さんのメイクと衣装を担当していた、親友の蒼井紅茶が亡くなった時で、これももう、何年前なのか記憶が曖昧です(彼女と、彼女が息子さんを抱いて昼寝をしたまま、夢見るように亡くなってしまったこと。については文庫版の「スペインの宇宙食」のあとがきに詳述されています)。

 岩澤さんからは、数年分(当時)の報告と、葬儀に行くか行かないか?行くなら一緒に行くか?といった内容の、ごくごく普通のメールが届き、僕は何か、とても安心したのですが、自分は葬儀は嫌いなので行かない。後で一人で仏壇に手を合わせに行く。と書いて送りました。

 そのメール以来、岩澤さんは僕の前からもミッシングしたままです。SNSをやれば、何かあるのかな?ちょっと興味あるな。とも、あまり思えません。

 ただ、はっきりしている事は、人生には、ミッシングパーソンがいるぐらいが自然であり、豊かなのだ。という事です。岩澤さんがこの地球のどこかで(東欧あたりでご結婚して、お子さんを何人か産んでいても、ご実家でご家族と一緒に暮らしていたとしても、亡くなっていたとしても、全くおかしくない人でしたので)、少しでも安楽に、幸福に過ごされている事を心から願っています。

 三期の話をするのが本稿の目的ですので、二期の音楽性について若干触れます。実のところ、僕が何を考えて二期をやっていたか?という話は、インタビューで大量に残っていますが、敢えてスタイリッシュに潰乱的に話し(どうせ理解なんかされっこないと思っていたので)、インタビュアを煙に巻いていたので、真面目に話すのは初めてです。

 岩澤瞳さんをミューズとする二期スパンクハッピーは、様々な美学的な伽藍の中に閉じ込められた宝石のようになっていたので、中毒性の高い、美しい思い出になっているファンの方々も多く、三期は先ず何よりも、二期と比較される、という、時間の無駄としか言いようがない通過儀礼から始まるのは致し方ありませんし(そしてそういったものは、経験則上、秒速で鎮静されるものですが)、それ以前に、有難いことに、多くのリスペクトを受けている実感もあります。

 ただ、換骨奪胎というか、往々にして影響関係というのはそういうものですが、二期スパンクスのリスペクトを表明される方が「食えてない芯」のようなものがあります。この事をお話しする事が、二期スパンクスの本質を具体的に語る事になると思われます。

 それは具体的に音楽の内容というより、<病み>という現象への理解 / 誤解。継承 / 切断です。

 病理を含まない音楽は原理的にありえません。なので、二期スパンクハッピーも、かなり意識的 / 計画的に病理をメッセージに含ませました(計画を超えた部分も当然存在し、それが計画という実行に乗って、計画ごと伝わる、とするのがフロイド流ですが)。

 文脈上お分かりいただけていると思いますが、これは、誹謗でも中傷でも全くなく、敬意や感謝と共に名前を出して書きますが、アーバンギャルドさんに代表される、二期スパンクハッピーの影響を公言する方々は、二期スパンクスの中の「症状」の部分を、かなり薄めたか、あるいは誤解しているか、あるいは(後述する)オリジナリティを加えているかしたまま、大量に拡散されたと思っています。

 これは一例ですが、根源的な性倒錯について、後続者は何も歌っていませんし、(神経症ではなく)精神病についても、何のメッセージもないように思えます(しつこいようですが、事の善悪では無いです)。

 二期スパンクスが後続に分与しなかったコアとは何かと言えば、「青春について歌わない」という鋼鉄のマナーです。

 誰もがついつい、青春について熱心に歌って、それがリアルでシリアスで素晴らしい事であると、無審査に価値が決定している世界で、僕は青春について歌う気は全くありませんでした(勿論、他の人々が歌うのは一向に構いません。というか、それが20世紀後半のポップソングの国是ですし。国是に従う事は国民の義務です)。

 歳が大きく離れた(13歳差)男女が青春という現象を歌ったりしたら、それこそ、二期への裏返しの賞賛だった「気持ち悪い」が、ツイストなしの、そのまんまになっていたでしょう。二期スパンクスが音楽に乗せた病理は、反青春もしくは非青春というゾーンの中にあります。

 一般に、臨床的な意味でも、ネット的な意味でも<病み>というのは、<青春と恋>という状態の第1コンテンツに過ぎず、というか、トートロジカルに、青春というのは<恋=病み>が微熱的に体質化/慢性化している一定期間の事です。

 ですので、あくまで僕のカテゴライズでは、奥田民生さんの歌も、ゴールデンボンバーさんの歌も、aikoさんの歌も、アーバンギャルドさんの歌も、女王蜂さんの歌も、小沢健二さんの歌も、おおよそ日本語のポップスのほとんど総ては「青春と恋」という、非常に魅力的で苦しい季節に関する表現のバリエーションとして、文学や映画等とも一括でき、更に言えば、今や古語ですが、「メンヘラ」とか、「こじらせ」というのは、「基本は量的な還元」というフロイドの原理にかなっていますが、いずれにせよ、軽症、重症に関わらず、青春という現象に収斂されてしまう病理を中枢にした音楽は、いずれも二期スパンクハッピーとは全く別の音楽だと思っています。

 「ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ」では、社交界の少年売春まで扱った二期が表現したかったものは、幼児的がもたらす総てについて、退行の純粋さから倒錯性まで、総てを極限的に、病理的に網羅しようという事でした。

 「普通の恋」を、スパンクハッピー名義にしなかった(この事実をご存知ない方も多い時代になった。と思いますが)のは、楽曲の出来、不出来と別に、あれが紛う方無き青春の歌だからです。

 青春は「こっ恥ずかしい」ものですが、幼児期に受ける羞恥心に「こっ恥」の「こ」の字もありません。幼児期の「主観は全知全能、客観は無知無能」という、テラサイズの勘違い状態から生じる羞恥心は激しく、どのぐらい激しいかといえば、激し過ぎて誰も記憶できないほどです。

 二期スパンクハッピーは「15年早かった」等とよく言われますが、それは音楽性やパフォーミングが先鋭的に過ぎた、という事もゼロではないでしょうが、青春という状態の株価が高騰していた時代(活動時期)には咀嚼出来なかった物が、退行という状態の株価が高騰した現在から読み直すと腑に落ちる。というだけの事ではないか、とも思っています。


    *    *    *    *    *


 岩澤さんが、文字どおり、持病をこじらせ、音楽活動どころか、社会生活まで困難になってしまう事で、我々の活動が終了してから、僕は数年間あがいて(この時期を、第三期、第四期、という風に数えないのは、単に音源の発売が無かったからで、マイルスに於けるロストクインテットのようなものです)、最終的に、06年に野宮真貴さんとのステージでスパンクハッピーを完全に終結したつもりでした。

 この時期にミューズでありマネキンをしてくれた、ドミニク・ツァイさん、縣亜希さんを始めとする何名かの方々には、未だに懐かしく、感謝と友愛の念を持っていますが、岩澤さんと同じ、僕にはミッシングパーソンズのままです。皆さんの御多幸を心より願っています。

 僕より年上かつ、実年齢だけではなく、真の意味で「大人の女」である野宮さんにマネキンをして頂いた事は、そういうわけで、基底部にインセストタブーを置いた幼児性の表現という、二期スパンクスの終了、という構造に対して、過適応ぐらいに適応していました。スッキリする、というのは、排泄ぐらいでも容易に得られる感覚ですが、あの時の、無意識の底から完全にスッキリした感覚は忘れられません。「ああ、ことが完全に終わる。というのは、こういう事なのか」と思ったのが、2006年の10月です。それは京都で、スパークスの前座でした。

 翌年にはデートコースペンタゴン・ロイヤルガーデンも活動停止し、僕は、ペペトルメント・アスカラールと菊地成孔ダブセクステットの活動に集中します。「デギュスタシオン・ア・ジャズ」と「南米のエリザベステーラー」を手土産に、俗に「ジャズ回帰」と言われる、ジャズミュージック界へのお礼参りは痛快かつ攻撃的で、絵に描いたようなパラダイムシフトの快感と恐怖が、僕を異様なほどに生き生きさせていました。それはドスを呑んだままの赤ん坊が生まれたような感覚でした。
(後編につづく)

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