■特集「3.11を振り返る」




【ボクタク】どこへ向かおうとしたか、どこへたどり着いたのか【開沼博×烏賀陽弘道】


事務所にずっしりと重い小包が送られてきた。包みを破ると『「フクシマ」論原子力ムラはなぜ生まれたのか』。
この時代にいまさら原発問題、しかも東大生の論文?しばらく机上に積まれたままだった。
数週間経ち2012年3月11日、大地の震動と大水が私たちの常識を根こそぎ剥ぎ取っていった。「パラダイムシフト」の瞬間である。

東大大学院生の開沼博は以降、突如として脚光を浴びることになる。
一度目の冬を越え、二度目の冬を越え、パラダイムシフトが起こってから二年が経とうとしている。
相変わらず3.11以前の生活を取り戻した(かのように)過ごす人・人生の大きな転換点としてまったく違う生活を送る人、人生の道が閉じられた人。
現状を語る人々や番組は多いだろう。

この二年、自分は何をしてきたか?何が出来なくなったか?

しかしもっと立ち戻ってみて欲しい。

自分達は今まで何をしてきたか?何をしてこなかったか?

『「フクシマ」論原子力ムラはなぜ生まれたのか』著者開沼博が見つめ続けた戦後日本の姿と、3.11後をめぐるこの世界の様相を明らかにする。



【ボクタク】素晴らしき世界-存在の価値を作り出すモノ【烏賀陽弘道×開沼博】

一瞬で失われた世界-我々が安穏と暮らし、消費してきた日々のなんと脆弱で儚く美しかったことか-3.11の東日本大震災を経験し、私たちはいかに幸福な生活を送ってきたか気付かされたことも多い。「私は幸福にも失うものが少なかった」「私たちは守られていた」と感じた者も多かっただろう。

しかしそれは真実なのだろうか?

大災害の様子をリアルタイムで伝えるTVやインターネット、日々新しく写真や記事を報じる大手新聞社たち。
我々の信じていた報道の有り様が、異常な状態にあったのだということを感じ始めるのに時間はかからなかった。量だけは多く感じる情報の中に、我々が「逃げるべきか残るべきか」を判断するのに必要な情報はあっただろうか。海外メディアの報じる日本の悲惨なニュース、「直ちに影響はない」という政府、希望を一斉に語り始める記事・・・「今回の大震災を“東日本大震災”と呼びましょう」「3.11と呼びましょう」「天災、ということにしましょう」「安全です、ということになっています」

メディアから与えられるラベリングに潜む根拠なき“安堵”に、日本中が翻弄されたまま2年目の春を迎えようとしている。我々の生きる世界はどのような様相をみせているのかを判断できる材料を得るために、一体報道はどのような役割を果たしてきたのか。
報道の怠惰と脆弱さが暴かれた今、我々はどこに向かい、何をしていくのだろうか・・・

『報道の脳死』で新聞・テレビの危機的状況を明らかにしたジャーナリスト烏賀陽弘道が、あの時報道にできたこと・出来なかったこと・今後の「報道の価値」を冷静に解体していく。


■お知らせ

※第二回生放送分のEPUBは近々配信します。少々お待ちください。


【EPUBタイトル】

◎【ボクタク】開沼博著「闇の中の社会学」より第四回記事をめぐる対談【烏賀陽弘道×開沼博】

◎【ボクタク】烏賀陽弘道著『スリーマイルからフクシマへの伝言』をめぐる対談【烏賀陽弘道×開沼博】