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 ご返信をいただきありがとうございます。

 昨晩コメントを書きながら、「でもこれって、フロイト死後のネオフロイディアンが加えた良心的な修正みたいだな」と思っていたのですが、典型的な「逆だこりゃ」パターンでしたね。「音自体はどんどん解放されるけれども、その説明概念(=音楽理論)はどんどん調性の拘束力に強く支配される」傾向は、専門学校の中からネット上のアナリーゼ動画まで何度見てきたかわかりません。そこで分析対象固有の傷や力動体制の過少/過剰に着目してなおかつ類型化を避ける方法論が出てきたのは、ごく自然のことと理解できました。
 このあたりで「人間の人格とは、ただ対人関係の中にだけ存在する」としたハリー・スタック・サリヴァンと、それを論拠に巷間もてはやされる「多重人格」について懐疑的なエッセイを書いていた中井久夫さんの理路を思い合わせます。元の分析理論では間違っていなかったもののそれが用いられる過程で帯びてしまった偏向を改めて拒絶する身振りが、1920-40年代のネオフロイディアンっぽいなと思います。そしてこの修正に(すくなくとも私が)拒否感を覚えないのは、「先王の首を刎ねて玉座に着くぞ(着いたぞ)」系の新興理論とは別のことをやっていると理解できるからでしょう。

 ところで、たしか先月にXで「音楽理論は結局のところ属人・属作品的で、コルトレーンチェンジにしろ下方倍音にしろ、先発の作品や演奏をもとにして各々が好きなことを言っているだけだ。純粋に抽象的な現象の存在を客観的に立証するだけの力がない。理系や医系の理論では〜」などと述べ、音楽なるものに対し手前の理想を貼り付けてその理想との差分を勝手に見出して幻滅し、その手続きによってパパに甘え=反抗し続けるための契機を永遠に保存したがっている変形ファザコンみたいな、とてもかわいそうなアカウントを見たのですが、この「本当に科学か」という古すぎる問いも音楽と精神医学の両方に相変わらず纏わりついていて、先述の「見当違いの権威に欲情したり怯えたりしている変形ファザコン」みたいな例とは別に、きわめて実際的な現場から「幹音階」のような概念が出てくるのは、前段落末で述べた「先王殺し」系の知のありかたが結局のところ権威主義に駆り立てられ&他者をも権威主義に駆り立てる、例の20世紀的不毛を同じく20世紀的な学知の行使でシラフに戻す試みとして歓迎したくなります。
 ご解説を拝読して、自分がなぜ和声学的な解釈のしかたに反感を抱き・なおかつ現代音楽的な無調のほうに熱中することもなかったかが具体的に理解できました。感謝いたします。

No.4 3ヶ月前
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