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菊地成孔 菊地成孔
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<「幹音階」概念を前提すると、旧称メジャースケール&イオニアンが、かつてはそのルートから始まるインターバルによって判定されていた音列のコード&モード両方の役割からひとまず自由になると考えてよいのでしょうか?>

 そうです。そべてが同主関係になって、並行関係は(一旦)なくなります。後述しますが、幹音階概念を導入すると、ダイアトニック×ノンダイアトニックという対立を失い「拡張ダイアトニック」が前提となります。

 また、幹音階概念は、極限値まで解釈を広げると「転調」概念が消えます。これは日記中「LCC」が100%そうで、これはヤラカシですので笑、「転調」の「位置」が下がる=旧調性に厳格にやると「和声が転調ばっかり」の曲が増えてきて、チェック機構が煩雑になり、調性を完全に理解していないままの生徒が、混乱して学習意欲を喪失するのを防ぐ効果も期待できます。


<たとえば、「CメジャーキーのなかでEから上昇音を弾いたらそれはフリジアンだ」とか「Cメジャーキー並行のAマイナーキーでドミナントモーションでトニックに解決したければ純正ダイアトック構成音とは別にG#が必要になる、これはAのハーモニックマイナースケールと呼ばれ(以下略)」とか、20世紀的学理では機能和声内でのモード活用場面・同じく機能和声内でのダイアトニック拡張場面などと説明されるのが普通だったものが、「(分析の際には、コードおよびモードに拠った活用法を前提せず)幹音階のトーナルセンター基準で判別される音程=度数を割り出し、それが同主異調からの拝借とかブルーノートへのアウトとかではなく、単に"そういうもの"として扱う」ことになるのかな、と想像しました>

 これまでの概念が喪失されてしまうわけではなく、一旦全部を幹音階の変化=同主関係に統一し、「変化根拠」にそれまでの調性概念が呼び出される。という形ですね。

 これは単に、教え、習う側のパフォーマンスの変化で、「旧来の調性概念を教え、習い」した後に、統一してゆく。という道筋が逆になるだけのことなんですが、幹音階概念導入の最大の恩恵は、ここでは説明していない「拡張ダイアトニック」=最大で12音(クロマチック)までダイアトニックを増設し、対象の楽曲ではどこまで拡張されているか?という考え方で、「全てのボキャブラリーの中から選択されている」という考え方から「その曲は何を使っているか?」という、概念に近づき、これがかなりフロイドに近いのはご理解いただけると思います。我々は「あらゆる人格の可能性、病の可能性というパレットから、人格をチョイス&モデリングしているわけではなく、固有のトラウマが、その人物の「人格」を変容させている」というのが、フロイドだからですね。

 <たとえばフリジアンとロクリアンがセクションごとのリフで混在している曲があったとして、「ふたつしかない短2度系のモードだから響きが似ていて、こう、あわせて使いたくなっちゃったんだろうね」と説明するのは20世紀的で、「幹音階」前提世界ではモーダルやコーダルの観点(を持つことによって引き出される機能)にはいったん触れず、その分析対象内で何が進行しているかを別のしかたで言い表すことになるのでしょうか>

 はい、フリジアンとロクリアンに代表される、「類似的(だが厳密には違う)」なものの復調的、あるいは「バイモーダリティ」的な使用は、「まあ、似てるから以下略」という風には扱われず、厳密にチェックされます。それが幹音階の幹音階る所以ですね。例えばリディアンに対するリディアン♭7とリディアン・オーギュメントはどちらもメロディック・メジャ&マイナーのモードですが、まずはバックボーンではなく、音列変化がチェックされ、そこにバックボーンの解釈が付与され、その曲全体で、どれだけダイアトニックが拡張されているかを見る。ということになります。

 <私が前段落で書いたフリジアン&ロクリアン混在型は、セクシュアリティに喩えるとゲイ寄りのバイセクシュアルのようなもので、ただこの「ゲイ寄りのバイセクシュアル」はシスジェンダーの異性愛を前提とした呼称でしかないから、そのヘテロセントリズムからいったん離れるのを志向した音楽理論が「幹音階」なのかな、とボンヤリ思っています>

 そうです。ロクリアンとフリジアンは♭2持ちなので「ダークなサウンド」とされます。それがヘテロセントリズムですね。

 幹音階概念は、♭2持ちはダーク、♯4持ちはブライト、といった光学的な輝度や、三原色のような発想からの癒着を避け、そもそも「長 / 短調」という「男 / 女」といった二元論を無化するので。

<菊地さんの「幹人格」概念も、「20世紀的な臨床を前提としなくなれば神経症は原理的に存在せず、しかるのち人格が非固定的であることを前提とした分析に入る」といったパースペクティヴの変化にまつわるものと愚考しますが、確かにこちらのほうが万人神経症&DSMグダグダの末世に適応している気がしますね>

 というか前述、フロイディズムの臨床それ自体が「元々<幹人格>的な発想だったのが、<調性(類型化、特にジェンダーとセクシュアリズム)>に傾いてきたので、最初に戻す」側面があり、これはそのまま音楽にアナロジャイズできます。「調性」は多様性に対する徹底的な類型化で、和声法は「秩序的に変容できるように、律として整備されたもの」ですし、対位法は、変容に際しての運動性に律を持たせたものです。

 この支配力を下げつつ、快楽を追求する。というのが20世紀の大命題だったんですが、支配力を下げようとすればするほど、「音自体はどんどん解放されるけれども、その説明概念(=音楽理論)はどんどん調性の拘束力に強く支配される」傾向が出てしまい、「教育」の場では、そこが難問だったわけです。

 <音楽理論のほうに戻りますと、「幹音階」前提世界が学習と制作の場に満遍なく浸透したとき、20世紀的な機能和声やモーダリティの概念は解体されるのではなく、「それとなく温存されて、必要なときに使いたい人が使う」ようになるのでしょうか>

 ここまで書いた通り、20世紀と同様に引き出されます。ただ、前提化しない、律を成さない。ということですね。

 <これならなるほど多様性だなと思いますが、「幹音階」前提世界ではそこから気が触れたようなルネサンスや頓珍漢な復古主義などが沸いてくる余地とその力もあるように感じてしまいます。これは単に、私が「一度下火になったものが数十年後にリバイバル」というゼロ年代的価値観に侵されたままだからなのかもしれませんが(笑)>

 これは、20世紀的な「カルチャーの10年おきカレンダー」が破られる、という運動に対して生じる現象で、そもそもカレンダーを失った21世紀では、いかなる状況下でもそれは起こりうらないと仮説できますが、バロキーなレトロみたいなものはいつの世も愛でられるので、幹音階と別に、「発想」としては常にバック・トゥ・バッハは出てくるでしょうね。

 僕は最近、サックスの即興演奏に、積極的にアルペジオを導入しているんですが、これは有名な「無伴奏チェロ」=対位法と和声法の高度の一体化=単声音楽による調性表現の完成モデル。を解体(ネジを緩めることで=精神分析によって)する試みとして、また、チャーリーパーカーの技法のハードコアというか、フラット化されたものの融合的な発想で、まだ開発途上ですが、エヴァンパーカーから松丸くんまでのボキャブラリーを含んでいます。

No.2 3ヶ月前
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  • <菊地成孔の日記2025年12月10日記す>

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