「幹音階」概念を前提すると、旧称メジャースケール&イオニアン(←と便宜的に書きましたが、「旧称」とアンシャンレジーム認定されてギロチンにかけられるのではなく、20世紀的コーダリティ&モーダリティの主要音列として再学習&保存されるのだろうと一応の検討はつきます)が、かつてはそのルートから始まるインターバルによって判定されていた音列のコード&モード両方の役割からひとまず自由になると考えてよいのでしょうか? たとえば、「CメジャーキーのなかでEから上昇音を弾いたらそれはフリジアンだ」とか「Cメジャーキー並行のAマイナーキーでドミナントモーションでトニックに解決したければ純正ダイアトック構成音とは別にG#が必要になる、これはAのハーモニックマイナースケールと呼ばれ(以下略)」とか、20世紀的学理では機能和声内でのモード活用場面・同じく機能和声内でのダイアトニック拡張場面などと説明されるのが普通だったものが、「(分析の際には、コードおよびモードに拠った活用法を前提せず)幹音階のトーナルセンター基準で判別される音程=度数を割り出し、それが同主異調からの拝借とかブルーノートへのアウトとかではなく、単に"そういうもの"として扱う」ことになるのかな、と想像しました。 20世紀的な学理の説明をいちおう飲み込み、それでもハーモニックマイナーによる長7度増設などには釈然としなかった(だけに、菊地さんの『何なんw』分析動画における「なぜ短調内でドミナントモーションするとき♭9thが有効に働くか」の説明は、自分にとってとても面白いものでした)身としては、なるほど多様性尊重っぽいなと薄く歓迎したくなります。たとえばフリジアンとロクリアンがセクションごとのリフで混在している曲があったとして、「ふたつしかない短2度系のモードだから響きが似ていて、こう、あわせて使いたくなっちゃったんだろうね」と説明するのは20世紀的で、「幹音階」前提世界ではモーダルやコーダルの観点(を持つことによって引き出される機能)にはいったん触れず、その分析対象内で何が進行しているかを別のしかたで言い表すことになるのでしょうか。 私が前段落で書いたフリジアン&ロクリアン混在型は、セクシュアリティに喩えるとゲイ寄りのバイセクシュアルのようなもので、ただこの「ゲイ寄りのバイセクシュアル」はシスジェンダーの異性愛を前提とした呼称でしかないから、そのヘテロセントリズムからいったん離れるのを志向した音楽理論が「幹音階」なのかな、とボンヤリ思っています。菊地さんの「幹人格」概念も、「20世紀的な臨床を前提としなくなれば神経症は原理的に存在せず、しかるのち人格が非固定的であることを前提とした分析に入る」といったパースペクティヴの変化にまつわるものと愚考しますが、確かにこちらのほうが万人神経症&DSMグダグダの末世に適応している気がしますね。 音楽理論のほうに戻りますと、「幹音階」前提世界が学習と制作の場に満遍なく浸透したとき、20世紀的な機能和声やモーダリティの概念は解体されるのではなく、「それとなく温存されて、必要なときに使いたい人が使う」ようになるのでしょうか。これならなるほど多様性だなと思いますが、「幹音階」前提世界ではそこから気が触れたようなルネサンスや頓珍漢な復古主義などが沸いてくる余地とその力もあるように感じてしまいます。これは単に、私が「一度下火になったものが数十年後にリバイバル」というゼロ年代的価値観に侵されたままだからなのかもしれませんが(笑)
「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。
音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。
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「幹音階」概念を前提すると、旧称メジャースケール&イオニアン(←と便宜的に書きましたが、「旧称」とアンシャンレジーム認定されてギロチンにかけられるのではなく、20世紀的コーダリティ&モーダリティの主要音列として再学習&保存されるのだろうと一応の検討はつきます)が、かつてはそのルートから始まるインターバルによって判定されていた音列のコード&モード両方の役割からひとまず自由になると考えてよいのでしょうか?
たとえば、「CメジャーキーのなかでEから上昇音を弾いたらそれはフリジアンだ」とか「Cメジャーキー並行のAマイナーキーでドミナントモーションでトニックに解決したければ純正ダイアトック構成音とは別にG#が必要になる、これはAのハーモニックマイナースケールと呼ばれ(以下略)」とか、20世紀的学理では機能和声内でのモード活用場面・同じく機能和声内でのダイアトニック拡張場面などと説明されるのが普通だったものが、「(分析の際には、コードおよびモードに拠った活用法を前提せず)幹音階のトーナルセンター基準で判別される音程=度数を割り出し、それが同主異調からの拝借とかブルーノートへのアウトとかではなく、単に"そういうもの"として扱う」ことになるのかな、と想像しました。
20世紀的な学理の説明をいちおう飲み込み、それでもハーモニックマイナーによる長7度増設などには釈然としなかった(だけに、菊地さんの『何なんw』分析動画における「なぜ短調内でドミナントモーションするとき♭9thが有効に働くか」の説明は、自分にとってとても面白いものでした)身としては、なるほど多様性尊重っぽいなと薄く歓迎したくなります。たとえばフリジアンとロクリアンがセクションごとのリフで混在している曲があったとして、「ふたつしかない短2度系のモードだから響きが似ていて、こう、あわせて使いたくなっちゃったんだろうね」と説明するのは20世紀的で、「幹音階」前提世界ではモーダルやコーダルの観点(を持つことによって引き出される機能)にはいったん触れず、その分析対象内で何が進行しているかを別のしかたで言い表すことになるのでしょうか。
私が前段落で書いたフリジアン&ロクリアン混在型は、セクシュアリティに喩えるとゲイ寄りのバイセクシュアルのようなもので、ただこの「ゲイ寄りのバイセクシュアル」はシスジェンダーの異性愛を前提とした呼称でしかないから、そのヘテロセントリズムからいったん離れるのを志向した音楽理論が「幹音階」なのかな、とボンヤリ思っています。菊地さんの「幹人格」概念も、「20世紀的な臨床を前提としなくなれば神経症は原理的に存在せず、しかるのち人格が非固定的であることを前提とした分析に入る」といったパースペクティヴの変化にまつわるものと愚考しますが、確かにこちらのほうが万人神経症&DSMグダグダの末世に適応している気がしますね。
音楽理論のほうに戻りますと、「幹音階」前提世界が学習と制作の場に満遍なく浸透したとき、20世紀的な機能和声やモーダリティの概念は解体されるのではなく、「それとなく温存されて、必要なときに使いたい人が使う」ようになるのでしょうか。これならなるほど多様性だなと思いますが、「幹音階」前提世界ではそこから気が触れたようなルネサンスや頓珍漢な復古主義などが沸いてくる余地とその力もあるように感じてしまいます。これは単に、私が「一度下火になったものが数十年後にリバイバル」というゼロ年代的価値観に侵されたままだからなのかもしれませんが(笑)