感想を記す前に、また脱線します。 >>144 >>168 Chariotさん 私が以前見た、奇妙な、不気味な夢のことを記します。 夕食で会食し、「鬼滅の刃」を見ていたら、誰かが隣の部屋でチャンネルを回し、コロナウイルス関連のニュースにしました。自分は思わず「コロナ脳!」と叫んで、チャンネルを回しました。その直後、自己嫌悪に陥り、「最低!」と口走っていました。 それだけの夢なんですが、その夢の中に、自分の差別心を見たような気がして、恥づかしい、とても嫌な気分になった、という話です。カインを罰するものはカインの7倍の罪を受けると『聖書』にはありますが、それはこういうことを示しているのかな、と。 私もコロナ恐怖症になってしまった人は、周囲の環境の問題もあるのではないか、と思います。四六時中、新型コロナウイルスの脅威をニュースで流され、感染者数がどうの、死者数がこれだけと報道されれば、マスコミに疑念を抱かない人にとっては、それが周知の事実で、常識であるかのように感じてしまう。中にはその前提で調べる人もいて、自分と同じことを専門家と称する人が口にしたら(自分に対しては意見の同意者を求めるな、と言うくせに)、自分の思想を肯定・承認して貰ったような気分になり、自信を持ってしまう場合だってある。 しかし、結論がこうだ、と決めてかかる推論ほど的外れの度合が大きい場合の真相との乖離が大きいものはなく、こうだと決めてかかる結論は、その反対の場合も考慮して証明してゆかなければ、偏りの激しいものになりがちだ、という危険性を念頭に置かなければならない。数学の証明問題でも、どこに補助線を引けばいいのか、解答を見れば成る程、そんな単純なことかと納得するけれども、人間社会の事象は日々移り変わるものだから、その場合にあった補助線を引かないといけない。単純にこうすれば四角形と三角形に分けられて、三平方の定理が使える、なんてものではない。自分は数学が苦手だから、なおさらそのようなことを感じます。 コロナ脳を自分よりも劣った人として差別するのは、ワクチン陰性証明と同じで、避けるべきことでしょう。しかし、政治家は現実に即して、臨機応変の判断をしなければならぬわけですし、マスコミのレポーターやコメンテーターなども本来はそうでしょう。それを視聴率稼ぎだか、選挙の票田だか、あるいは大多数の意見を無条件に受け入れて、ウイルスは恐ろしいものだ、で思考停止してしまっては、一体何のための国民の代表なのか、国民に情報を伝え、権力を監視するものなのか、その本来の役割を忘れてしまっては、「歌を忘れたカナリア」なのではないか、と思うのです。その責任は、一般の人よりも非常に大きいものだろうと私は思います。専門家と称する人が引いた補助線を用いた証明を検証しつつ、そこから導き出せる結論を総合的に、多角的に熟考して、ただの「事実」ではない「真理」を見いださないといけない、と。 ごちゃごちゃ記してみましたが、つまり、こういう世界の人は、一般人にはない「ノブレス・オブリージュ」みたいなものがあり、自己の感情のみで動いては駄目だ、それこそ、忘恩の義務とか、歴史を見ないといけない、と思うのです(今回の高森先生の「徒然草」でも同じようなことをやっていました)。「民主主義という病」だったと思いますが、よしりん先生のおっしゃられるように、「試験」のようなものをやってみるべきなのではないか、それも学校の試験のようなものではなしに、危機想定の鑑定、シミレーションのようなものを、と私は思います。 勿論、ある一点をもって、その人の全人格を否定してはいけないと思う。自分の投稿にあげた知人の場合もそうでしょう。しかし、人には得手不得手があり、それを補い合うことによって社会が成立するのなら、その特性をあらかじめ把握しておくことは、危機管理の面においても非常に重要だし、また克己して、その短所を乗り越えようとするための指針にもなる、どんな張り手が来ても、それに対処できるようにと、マルクス・アウレリウスは述べましたが、そのためにも「己を知る」ことは、自分にとっても、他者にとっても肝腎なことだろうと思います。 何度も申しますが、どうでもいい人にきついことは申しません。これだけは分かっていただけたら、と願います。 あと、 >>102 ふぇいさん 公論サポーターの放送、視聴しました。紙で折った兜、幼心を刺戟するものがあり、私も好きです。それが世界にとっては未知との遭遇みたいなものである事実も、興味深く感じられました。
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感想を記す前に、また脱線します。
>>144
>>168
Chariotさん
私が以前見た、奇妙な、不気味な夢のことを記します。
夕食で会食し、「鬼滅の刃」を見ていたら、誰かが隣の部屋でチャンネルを回し、コロナウイルス関連のニュースにしました。自分は思わず「コロナ脳!」と叫んで、チャンネルを回しました。その直後、自己嫌悪に陥り、「最低!」と口走っていました。
それだけの夢なんですが、その夢の中に、自分の差別心を見たような気がして、恥づかしい、とても嫌な気分になった、という話です。カインを罰するものはカインの7倍の罪を受けると『聖書』にはありますが、それはこういうことを示しているのかな、と。
私もコロナ恐怖症になってしまった人は、周囲の環境の問題もあるのではないか、と思います。四六時中、新型コロナウイルスの脅威をニュースで流され、感染者数がどうの、死者数がこれだけと報道されれば、マスコミに疑念を抱かない人にとっては、それが周知の事実で、常識であるかのように感じてしまう。中にはその前提で調べる人もいて、自分と同じことを専門家と称する人が口にしたら(自分に対しては意見の同意者を求めるな、と言うくせに)、自分の思想を肯定・承認して貰ったような気分になり、自信を持ってしまう場合だってある。
しかし、結論がこうだ、と決めてかかる推論ほど的外れの度合が大きい場合の真相との乖離が大きいものはなく、こうだと決めてかかる結論は、その反対の場合も考慮して証明してゆかなければ、偏りの激しいものになりがちだ、という危険性を念頭に置かなければならない。数学の証明問題でも、どこに補助線を引けばいいのか、解答を見れば成る程、そんな単純なことかと納得するけれども、人間社会の事象は日々移り変わるものだから、その場合にあった補助線を引かないといけない。単純にこうすれば四角形と三角形に分けられて、三平方の定理が使える、なんてものではない。自分は数学が苦手だから、なおさらそのようなことを感じます。
コロナ脳を自分よりも劣った人として差別するのは、ワクチン陰性証明と同じで、避けるべきことでしょう。しかし、政治家は現実に即して、臨機応変の判断をしなければならぬわけですし、マスコミのレポーターやコメンテーターなども本来はそうでしょう。それを視聴率稼ぎだか、選挙の票田だか、あるいは大多数の意見を無条件に受け入れて、ウイルスは恐ろしいものだ、で思考停止してしまっては、一体何のための国民の代表なのか、国民に情報を伝え、権力を監視するものなのか、その本来の役割を忘れてしまっては、「歌を忘れたカナリア」なのではないか、と思うのです。その責任は、一般の人よりも非常に大きいものだろうと私は思います。専門家と称する人が引いた補助線を用いた証明を検証しつつ、そこから導き出せる結論を総合的に、多角的に熟考して、ただの「事実」ではない「真理」を見いださないといけない、と。
ごちゃごちゃ記してみましたが、つまり、こういう世界の人は、一般人にはない「ノブレス・オブリージュ」みたいなものがあり、自己の感情のみで動いては駄目だ、それこそ、忘恩の義務とか、歴史を見ないといけない、と思うのです(今回の高森先生の「徒然草」でも同じようなことをやっていました)。「民主主義という病」だったと思いますが、よしりん先生のおっしゃられるように、「試験」のようなものをやってみるべきなのではないか、それも学校の試験のようなものではなしに、危機想定の鑑定、シミレーションのようなものを、と私は思います。
勿論、ある一点をもって、その人の全人格を否定してはいけないと思う。自分の投稿にあげた知人の場合もそうでしょう。しかし、人には得手不得手があり、それを補い合うことによって社会が成立するのなら、その特性をあらかじめ把握しておくことは、危機管理の面においても非常に重要だし、また克己して、その短所を乗り越えようとするための指針にもなる、どんな張り手が来ても、それに対処できるようにと、マルクス・アウレリウスは述べましたが、そのためにも「己を知る」ことは、自分にとっても、他者にとっても肝腎なことだろうと思います。
何度も申しますが、どうでもいい人にきついことは申しません。これだけは分かっていただけたら、と願います。
あと、
>>102
ふぇいさん
公論サポーターの放送、視聴しました。紙で折った兜、幼心を刺戟するものがあり、私も好きです。それが世界にとっては未知との遭遇みたいなものである事実も、興味深く感じられました。