アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門メールマガジン

アニメの門チャンネルとは(改めて)

2013/12/11 11:30 投稿

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アニメの門チャンネル

配信:毎月第一金曜日21:30~22:30
(その後続けて会員向けオフトークを実施)


1、『アニメの門チャンネル』は「アニメに詳しくなれる配信」です。
 作品論、技術、ビジネス……アニメに関するさまざまな側面からアニメを解説・読解します。月1回見るだけでアニメについての深い視点を得られます。

2、「もうちょっとアニメに詳しくなりたい」人に見てほしい。
 漠然と作品を見ているだけでは、もの足りない。もっとアニメを楽しみたいための、知識情報とヒントがつまった配信番組です。

3、ゲストが多彩
 『アニメの門チャンネル』は、多彩なゲストを招いてトークを展開します。ゲストならではの鋭い視点が、アニメの楽しみを膨らめます。

主なゲスト一覧(五十音順、敬称略)
ライター 上田繭子
映像ジャーナリスト 大口孝之
新聞記者 小原篤
脚本家 じんのひろあき
研究者 須川亜紀子
アニメ研究 土居伸彰
ライター 前田久
ジャーナリスト まつもとあつし
ライター 宮昌太朗
……and more

第10回配信「魔法少女これまで、これから」

ゲスト 研究者・須川亜紀子(関西外国語大学講師、『少女と魔法 ガールヒーローはいかに受容されたのか』http://www.amazon.co.jp/dp/4757143095/著者)

4、会員にはメルマガとオフトークも!
 月210円(税込)のチャンネル会員になると、月2回(第二・第三金曜日)発行のメルマガと、配信後のオフトークを無料で楽しむことができます。メルマガでは、ほかではなかなか読めない原稿が掲載されます。オフトークでは、無料の本編では語りきれなかった、さらに突っ込んだトークが繰り広げられます。

メルマガ掲載原稿(部分)
http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar8552
魔法少女たちに永遠の花束を 藤津亮太
1、魔法少女はどこから来たのか
 「ジャンル映画とは何か。強調すべき第一点は、ジャンル映画とはハリウッドの大量生産システムから生み出される大衆消費財だったということである。それはフォードやトヨタの工場の自動生産ラインに乗って組みたてられる大衆車のように生産され、消費された。好むと好まざるとにかかわらず、ハリウッドは一定のパターン(それは「好み」に応じて斬進的に変化しないわけではないが)に基づいて自社の製品をつくりつづけ、観客はそれをそのパターン条件下で享受しつづけた。パターンのこの反復可能性が継続的な大量生産/消費を可能にする。そしてパターンゆえに、生産者側も消費者側も自分たちが何を売り、そして何を買っているのかはっきりとわかっていた。ジャンルの生成と発達は安定拡大を目指す産業の必然なのである。」
――『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(加藤幹郎、平凡社)

 『魔法少女まどか☆マギカ』は、“魔法少女もの”ではない。それは脚本を担当した虚淵玄も言明している通りだ。
 けれども今回、『まどか☆マギカ』について語るにあたっては、「魔法少女」という単語から全てを始めようとと思う。それはこの言葉が、この作品を語る上でさまざまな因果をつなぎ止める特異点になっているからだ。
 だから、まず最初にこうやって問いかけることから始めよう。
 「魔法少女はどこから来たのか」。
 教科書的に答えるならば、その起源はまず1966年に求められる。
 同年『奥様は魔女』にヒントを得た横山光輝の『魔法使いサリー』が初の「少女向けアニメ」として東映動画(現・東映アニメーション)映像化されたのだ。
 そして『サリー』のヒットを受けて制作された『ひみつのアッコちゃん』(1969)では、「変身用小道具(魔法のコンパクト)」「あこがれの職業への変身」「お付きの小動物(猫のシッポナ)」といったジャンルを特徴づける要素が早くも登場している。
 以降、東映動画は1980年までの14年間に9作の魔法少女ものを送り出す。だが、この中で「魔法少女」を肩書きに持つのは『魔法少女ララベル』だけだ。
 肩タイトルで「魔法少女」をうたわないのは、東映動画作品だけではない。
 1980年代に魔法少女ものに革新をもたらした『魔法のプリンセスミンキーモモ』から『魔法のアイドルパステルユーミ』に至る5作も「魔法」の言葉は使えど、「魔法少女」の単語は避けている。
 『ララベル』が「魔法少女」を名乗らざるを得なかったのは、この作品が前作『花の子ルンルン』へのカウンターとして、日本を舞台にした庶民的な作品――つまり世界観に特異性が薄い方向性――を目指したため、肩タイトルにその世界観を象徴させることが難しかったからだろう。
 この『ララベル』を例外として、次に「魔法少女」の単語が登場するのは、1996年の『魔法少女プリティサミー』。そして、その後、2004年に『魔法少女隊アルス』、『魔法少女リリカルなのは』、2005年に『奥様は魔法少女』、2006年に『砂沙美☆魔法少女クラブ』と続く。いうまでもなく『リリカルなのは』の監督は新房昭之である。
 これらの作品の特徴はいずれも「魔法少女もの」という系譜からすると、かなり変化球な作品であるということだ。パロディにするか、肩タイトルだけ借りるか、その意匠を解体するか、そのアプローチはそれぞれだが、いずれにせよ「もはや魔法少女ものとは呼びづらい作品が、あえて魔法少女をうたう」という共通点がある。
 1990年代以降の「魔法少女もの」は、その見取り図が非常に描きづらい。
 「魔法少女もの」の正統な系譜が『おジャ魔女どれみ』(1999)、『Cosmic Baton Girl コメットさん☆』(2001)と登場する一方で、 『美少女戦士セーラームーン』(1992)から『ふたりはプリキュア』(2004)へとつながる「戦闘美少女もの」が一大潮流を形成する。そのほかにもさまざまな「魔法少女もの」(バリエーションの「アイドルもの」も含め)が登場するが、それらの存在はスタンドアローンで1980年代までのように、シンプルな系譜を描くことは難しい。
 この混迷はおそらく、1988年に『ひみつのアッコちゃん』のリメイクが成功した時から始まる。その時から「魔法少女もの」の単線的な歴史は終わり、「魔法少女もの」という漠然とした巨大な概念と、ターゲットや方向性によって切り口が変化する個別の作品が存在するだけになったのだ。
 だからこそ「魔法少女もの」として変格な作品が、視聴者との関係を取り結ぶために、その不透明な立ち位置を明瞭にする目的で「魔法少女」を率先して名乗る。それはずいぶんとアクロバティックな転倒だ。
 だが現代にあって「魔法少女」を名乗るということは、このアクロバティックな転倒を自覚することにほかならない。だから「魔法少女と名乗っているにもかかわらず、魔法少女ものではない」といわれてしまう『まどか☆マギカ』は、「魔法少女もの」の歴史に鑑みて実に正しい。
 『まどか☆マギカ』の立っている場所はそのような場所なのだ。
(後略)


メルマガ掲載原稿(部分)
http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar375827
特別寄稿 誘う女たちと描く男たち――『風立ちぬ』と『コゼットの肖像』 文:宮昌太朗
 スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫へのインタビュー『風に吹かれて』によれば、宮崎駿監督は当初、『風立ちぬ』のエンディングを今とは違う形で考えていたという。
「宮さん(※宮崎駿の愛称/引用者注)の考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ」(※1)
 この変更は、鈴木が話す通り、作品の中核に決定的な影響を及ぼしている。まずひとつはこの変更が、映画の構造そのものを崩してしまっている点だ。
 そもそも『風立ちぬ』は、零戦の設計者である主人公・堀越二郎の一生を追いかけるという構成を採っている。言うまでもなく、ひとりの人間の人生を2時間で描くためには、エピソードの取捨選択と圧縮が必要になる。本作に頻出する大胆な時間の省略、あるいは夢と現実の混淆は、まさにそのために要請されたテクニックである。
 しかし菜穂子が最後に発する「生きて」というセリフは、ここに亀裂を走らせる。もし当初の構想通り『風立ちぬ』が、煉獄での二郎と菜穂子の再会で終わっていたとすれば、それは「彼の一生」――つまり生まれてから死ぬまでを描いた作品として、観客に受け止められたことだろう。しかしセリフの変更によって、二郎はこのラストシーンのあともなお、生き続けなければならない。『風立ちぬ』は「堀越二郎の一生を描く」という構想を、最後に放り投げてしまうのである。
(後略)


メルマガ独自取材によるインタビュー(部分)
『寫眞館』(なかむらたかし監督)
http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar386340
(前略)
――写真館を舞台にするというアイデアはどこから思い付いたんですか。
 コロリドに救われる1年ぐらい前にはもうアイデアはかなり固まっていたんです。絵コンテはもちろん、細かいところはまだ決まっていなかったですけれど、15分~20分ぐらいでこんな物語を、という骨子は決まっていた。ストーリーのアイデアは、どこから思い付いたかっていうような、具体的なものはないです。ただ、短編のスタイルって、2パターンありますよね。ひとつは扱う時間的なスケールをぐっと狭くとって、そこで起る気持ちの変化やアクションに注目していくもの。今回の石田(祐康)くんの『陽なたのアオシグレ』のようなものですよね。もうひとつは、長い時間のスパンのものを、パッパッパと短い描写の積み重ねで見せていくもので、僕としてはそういうものをやってみたかったんです。
(略)
――過去のインタビューを拝見すると、もともとはマンガ家になろうとしていたというお話もあります。いつごろから、アニメでも物語を表現したいと思うようになったんでしょうか。
 過去には、アニメーターをやりながら『ガロ』の青林堂や小学館にマンガを持ち込んだこともあったんですよ。でも、それはそれで終わっていたし、マンガを描きたいという気持ちはあったけど、アニメーションとしてそういうことをする気持ちはまるでなかったんです。『AKIRA』('88)ぐらいまで純粋にアニメーターとしてやってきた。そのときは、お話を語るとか全然考えていなかった。きっぱり分かれていました。もともと子供時代は、マンガとアニメーションをたいして区別もしないで楽しんでいたわけですが、それが、ひょんなことでアニメーションの世界に入ったわけです。そしてそこでは動かすことの、技術を高めていく方向に魅力を感じたということなんです。仕事を始めてからもマンガは読んでいたけれど、そのころは、永島慎二とかつげ義春とか、いわゆる普通の商業マンガから離れたものが好きになっていて。そういうものってもうアニメとは全然違うじゃないですか。だからまったくクロスしなかった。本当に動かすことや映像の面白さだけに気持ちが行っていたので、どうやったら岩がきっちり動くかとか、どう画面の中に空間が作れるか、とかばかりを考えていたんです。
――岩はやはりはずせないんですね(笑)。
 (笑)それで『AKIRA』が終わった後、『ピーターパンの冒険』('89)をやったんです。『ピーターパン』で初めて世界設計も含めていろいろ関わったんです(クレジットはキャラクターデザインと場面設定)。もちろん原作があるものなのでストーリーの大枠は決まっているわけですが、それでも多少は「こんなお話やったらどうだろう」なんて提案もしたりして。『ピーターパン』をやったことで世界観を作る面白さがなんとなくわかったんですよね。舞台設定のおもしろさとか。『ウラシマン』で初めてキャラクターデザインしていますが、あの時は単なるキャラクターデザインであって、お話にも関わっていないですからね。
――じゃあ『ピーターパン』が一つ転機になって、物語のほうにもコミットしていくようになるのですね。
 そうです。『ピーターパン』の後に、トライアングルスタッフというスタジオで少年探偵団ものを企画することになって。ボードをかなり書いたんだけれど、それもうまくいかなくて。それがまわりまわって長編初監督になる『パニパルウィット 突然!猫の国』('98)になるんです。
(後略)


メルマガ独自取材によるインタビュー(部分)
『陽なたのアオシグレ』(石田祐康監督)
http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar396573
――最初にうかがいたいのは、やはり経緯ですね。どういう経緯でプロ第一作をスタジオコロリドで制作することになったのでしょう。
 この前に、うちの大学(京都精華大学)の教師に杉井ギサブロー監督がいらっしゃって、その縁で、杉井監督の『グスコーブドリの伝記』の制作に参加してたんです。
(略)
――『陽なたのアオシグレ』では、鳥が重要な役割を果たしていますね。心情表現の要素でありつつ、同時に画面をダイナミックにする役割も果たしていました。
 鳥というモチーフの最初は、ICAF(インターカレッジ・アニメーション・フェスティバル)2011のポスターのためのイラストですね。依頼を受けまして、今回のヒロイン・時雨(シグレ)の原形になった女の子を中心にした子供たちと、大空をところ狭しと飛ぶ白鳥の群れを描いたんです。その時から、こういう楽しげなアニメーションを作れたらいいなと思っていたんですが、そこもこの作品のルーツの一つですね。できあがったらかなりの鳥アニメになってしまいましたが(笑)。
(略)
――じゃあ、小中学校からアニメが好きだった。何を見てたんですか?
 そうですね……。かなり小さいときに、親がVHSに録画したアニメをひっきりなしにTVで見てました。『(天空の城)ラピュタ』だったり『(風の谷の)ナウシカ』だったり。あと『ドラえもん』だと『のび太の日本誕生』とか『のび太と雲の王国』とか。『トムとジェリー』もあったので、それもやたらに見ましたね。だから4歳、5歳のころはロボット兵の絵とか、冒頭のプロペラが下についたラピュタの絵だったり、または『ガンダム』とか『ドラゴンボール』とか『ゴジラ』とか、そんなのばかり描いていました。
――そのまま絵が好きな子として成長していって……。
 それは、そうなんですけど……人物、キャラクターの絵はほとんど描かなかったですね。
――え、そうなんですか? 意外ですね。
 (笑)僕には兄がいるんですが、やっぱり小さい頃は特に兄の影響が大きくて、兄が見ていたアニメを見るし、兄がガンプラ作っていたら自分もガンプラ作るみたいな感じで。で、小学校高学年ぐらいになってだんだん自分の独自の趣向が芽生えてきたところで、ゲームの『エースコンバット』にはまって。はまりすぎて、小学校5、6年から中学2年ぐらいまでは、ずっと戦闘機しか描いてなかったです。
――戦闘機のみですか(笑)。
(後略)

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5、会員のみなさんからの感想

有料域で風立ちぬの話をされた回が特ににそうでしたが、自分が観た作品について熱く濃い内容の話が聴けると嬉しいです。(パオロ 20代男性)

宮昌太朗さんをゲストに迎えた「リアルの系譜」回、須川亜紀子さんをゲストに迎えた「魔法少女の系譜」回など、アニメ史における変遷を軸にしたトークテーマの回が印象に残りました。特に須川さんの回は『少女と魔法』という著作が軸になっていた分、話の筋道が明確でわかりやすかったです。(ののじなひと、40歳男性)

「魔法少女、これまでこれから」(ゲスト:須川亜紀子)と「アドゥレセンス備忘録」(ゲスト:上田繭子) が特に印象深いです。自分もですが少女趣味的なアニメを男性が楽しむことが普通になっている中で、女性がそれらの作品群をどう考えているかを聴ける機会は貴重でした。どちらのゲストもご自身の「萌えこだわり」に大変正直なのも良かったです。藤津さんの考え方は比較的自分に近いと思うことがあるので、その藤津さんと女性ゲストとのギャップも大変興味深かったです。(P2、男性)

大口孝之さんの回。(#3でしょうか?)クールジャパンのイベントも興味深かったのですが藤津さんのお仕事で私がとても面白いと思うのはアニメに軸足を置きながらちょっと近い他ジャンルと意見交換をするところです。それもあって映像表現のお話が印象に残りました。(an_shida、33歳男性)

最初のニュースコーナーはこちらが見逃してしまったニュースも含まれていてよかったです。テーマに関するトーク(『ヤマト2199』)についても理路整然としすぎない、生配信ならではの楽しさがありました。(東の木 26歳男性)


もし、興味をもったら是非、アニメの門チャンネルをのぞいてみてください。c?ro=1&act=rss&output=no&id=2027980&name

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