アニメ評論家・藤津亮太のアニメの門メールマガジン

第3回アニメレビュー勉強会結果発表!

2012/08/21 16:06 投稿

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 すっかり遅くなってすみませんでした。第3回アニメレビュー勉強会の結果になります。
 今回のお題は『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(芝山努監督)。ゲストは学研のアニメディア元編集長の中路靖さんでした。
 投稿あった原稿は全部で43本。参加者32人は持ち点86点(43本×2点)を自由に割り振りました。
 なお原稿に添えられた想定媒体は、あくまで読者層の想定をするための仕掛けでして、「文字数」「用字用語」「企画の方向性」などにまで準じたものではありませんのでご容赦を。
 今回は語りどころが多い作品だったのか(まあ、だから選んだわけですが)レビューの域を越えて、評論ぽいアプローチをした原稿が多かったです。またゲストの中路さんからは、読者を考えるだけでなく、読む季節・時期、雑誌の中の位置(巻頭なのか巻末なのか)でも原稿は変わってくるというお話がありました。
 第1位の方にはアニメレビュー・マイスターの称号が送られます。パチパチパチ!

第1位
原稿【36】/磯部八作/想定媒体:映画雑誌

(タイトル)
「なかったこと」に、できないこと

 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』は苦いあと味の映画である。
      *
 例によってスネ夫の従兄弟が作ったラジコンのロボットを自慢されたのび太は、例によってその場の勢いで「ぼくなんか、乗れるようなでっかいの作るぞ」とスネ夫とジャイアンに啖呵をきってしまい、例によってドラえもんに泣きつく。売りことばに買いことばのあげく怒って出て行ってしまったドラえもんを追って、どこでもドアをくぐった先は北極。のび太はそこでなぞの球体と、それが呼び寄せた巨大ロボットのパーツを手に入れる――。
 映画が公開されたのは1986年。当時すっかり市民権を得て久しかった巨大ロボットものというジャンルの人気を材にとった本作は、ロボットアニメのパロディという側面を色濃くそなえている。ザンダクロスと名づけられたそのロボットに初めて乗り込んだのび太が「まるでアニメの世界だ!」と感動の言葉をもらすとき、その「アニメの世界」は、この映画の観客の子供たちがふだん見ているロボットアニメの世界とかさなりあうものだ。
 映画の語り口は終始スピーディで、ストーリーテリングに重点を置いたテンポのよい演出がされている。エフェクトやアクションを作画的にじっくり見せる、といった方向性はむしろ希薄であり、あるいはその簡潔さは作り手の、原作ストーリーに対する信頼、自信のあらわれなのかもしれない。
      *
 本作を語る上で欠くことができないのが、裏ヒロインともいえるキャラクター、リルルの存在だ。ロボットの国メカトピアから、人間をどれいとして駆り集めるという作戦の斥候として派遣されたリルル。だがのび太たちとの交流をとおして、リルルは人間狩りをする自分たちの正義に疑問を抱くようになる。
 彼女の印象を強烈なものにしている最大の理由は、その悲劇的な最期にあるだろう。鉄人兵団との最終決戦をむかえた朝、スネ夫のロボット・ミクロスがこぼした一言から、しずかは迫りくる危機を一挙に打開するアイデアを思いつく。それはタイムマシンを駆使して3万年前、リルルたちの祖先のロボットを作った博士に会い、鉄人兵団の危機を訴えようというものだった。しずかたちの話を聞いた博士は、他人を思いやる暖かい心をロボットに植えつけ、進化の方向を修正しようと決意する。だがそれは、鉄人兵団とともに、リルルの存在そのものが消えてしまうことを意味していた……。
 時間を遡って、一度起こったことを「なかったこと」にして、もう一度やり直す。SFのジャンルではおなじみのこの設定は、アニメのなかでもさかんに用いられているものだ。そういった作品とならべて、この映画のなかで起こったこと、そしてその結末を見ていると、ひとつの疑問がうかんでくる。メカトピアの歴史がそもそものはじめから改変されたのにもかかわらず、この物語の最初から描かれてきた出来事についてののび太たちの記憶が、消えてしまわないのはなぜなのか。消えてしまったのは矢折れ刀尽きたのび太たちの前に高笑いとともに迫っていた鉄人兵団の大部隊と、「おともだち……」というせりふを最期に残したリルルばかりなのだ。
 だから、わけのわからぬまま勝利に浮かれていたのび太たちは、しずかからことの次第を聞いて絶句する。時間を遡って、最初からまるきり「なかったこと」にできたのであればあり得ないことだ。ではこれは、設定の甘さが招いた欠陥なのだろうか。そうかもしれない。だが、まさにこの「なかったこと」にできなかったがゆえの、のび太たちの傷つきにおいてこそ、この映画は見るものの記憶に残るのではないだろうか。
 すべてが終わったあと、のび太は教室でぼうっとして先生にしかられてしまう。自分たちが経験したことをおぼえていて、そのことに割り切れない思いが残ってしまうからだ。あれでよかったのか、と思うからだ。リルルは生まれ変わることができたのだろうか、と思うからだ。「なかったこと」にできなかったリルルの記憶。しかし極論すれば、この映画はまさに、その「なかったこと」にできなかった彼女の思い出を、映画館から持ち帰るための映画なのである。
      *
 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』は苦いあと味の映画である。物語のラスト、のび太が教室の窓から見かけたリルルの姿が本物なのか、それとものび太の見た幻にすぎないのか、明らかにすることなく映画は終わっていく。しかしアニメ版は原作よりも、このラストのリルルの姿が幻ではないような描写に、よりかたむいているように見てとれる。それは本作の作り手が用意できる、ぎりぎりの救いであるように思われるのだ。


第2位
原稿【25】/前田久/想定媒体:『映画秘宝』特集「本当はコワいファミリー映画」

(タイトル)
『ドラえもん のび太と鉄人兵団』
真の暴力は無邪気さと純粋さに宿る

 「藤子不二雄の変態な方」といわれたら、読者諸賢はFとAのどちらを思い浮かべるのだろうか? 私見では断然、Fの方である。変態度、川端康成級。射精なんて必要ない、ただ眠り続ける美少女に添い寝したい……とかいうレベル。Aはどちらかというと変態というよりは不良で、死ぬまで女の子のお尻を追いかけていそうなイメージだ。
 閑話休題。さて、そんなFの変態っぷりが遺憾なく移植されたアニメ版『ドラえもん』といえば? 答えは『ドラえもん のび太と鉄人兵団』だ。「え、感動的な名作なんじゃないの?」などと思うアナタは騙されている。国民的名作、子供に観せたいアニメ、というパブリックイメージに。
 なにせ『鉄人兵団』の主題はメカと美少女である。
 導入、スネ夫のラジコンロボに嫉妬して、ビル並の巨大ロボを欲しがるのび太。ドラえもんに頼み込むもすげなく断られるが、巨大ロボのパーツらしき巨大物体が、次々とのび太のもとに落ちてくる。この臆面もない欲望の全肯定ぶりがたまらない。
 パーツの置き場に困ったのび太に対して、ドラえもんがスモールライトで小さくすることを提案する。しかしのび太は強くそれを拒む。「大きいのがいいんじゃないか!」。このセリフのあたりから、この作品に宿った狂気が剥き出しになり始める。
 パーツを鏡の世界に置くことを提案するドラえもん。鏡の世界は、われわれの済む世界にそっくりだが無人で、なんでもやりたい放題。巨大ロボットで街を壊してしまっても怒られない。その事実に、のび太ははしゃぐ。「おいおい」である。いくら人がいないとはいえ、見知った街並みとそっくりな世界を壊してしまうかもしれないことに抵抗を感じないってどうよ? どこのボンクラよ? こののび太、ゾンビ映画とか好きそうである。実際、後半に無人の店から食料を持ちだして仲間と豪華な食事を行うシーンはもろにゾンビ映画でスーパーマーケットに立てこもった直後のノリである。他にも、自分の意に沿わない人工知能は改造していうことをきかす、地球のピンチを訴えようと総理大臣にまで電話をしようとするなど、どうにもマッドなのび太である。
 そして美少女。ゲストヒロインのリリルは初登場時からその無表情さでメカ娘らしい抑圧されたエロスの雰囲気を醸し出しているが、おしげもなく全裸を晒す(二回も!)場面にいたっては、完全に往年のロリコンマンガの体裁だ。山本百合子のやや掠れた声質も妙にエロチックである。
 そして、メカと美少女への欲望を剥き出しで肯定するそれらの要素以上にとんでもないのが、結末だ。未見の方のために詳細は明かさないが、自らを神と認識する人間が発揮するおそるべき暴力性がここまで克明に描かれた作品を筆者は他に知らない。
 パゾリーニごときを持ち上げて俗悪な自分をアピールしているような映画ファンはヌルい。本作に宿った無邪気な悪意に触れて、大いにのけぞりやがれ!
(※ちなみに2011年に公開されたリメイク版は、エロスは頑張ってはいるが、狂気は大分薄まってしまっている)


第3位
原稿【23】/谷田貝和男/想定媒体:S-Fマガジン

 『ドラえもん のび太と鉄人兵団』は1986年に公開された。劇場版としては7作目、藤子不二雄(当時)の「大長編ドラえもん」を原作とした長編作品である。
 「SF」原体験は『ドラえもん』などの藤子作品だったという人も多いだろう。原作者の藤子・F・不二雄氏は自作を「すこし・ふしぎ」というが、その諸作は「すこし・ふしぎ」にとどまらないサイエンス・フィクションのテイストに満ちている。本作も例外ではない。
 ドラえもん映画史を踏まえるならば、『のび太と鉄人兵団』は82年に公開された第3弾『のび太の大魔境』のアンサー的な作品かも知れない。
『大魔境』はクライマックスで、人間に知られていなかった魔境で知的に進化した犬の子孫が、人間世界を侵略せんと出撃するのだが、それに使われるのが空飛ぶ船に火を吐く戦車。どう見ても人間の近代兵器には太刀打ちできないように思えてしまう代物だった(緒戦で大被害は出るだろうが……)。
それに対し本作『鉄人兵団』では「地球(人類)を侵略する軍団」にリアリティを持たせている。
 さらに、『のび太と鉄人兵団』は『機動戦士ガンダム』以降のロボットアニメ(巨大ロボットバトルアニメ)ブームを意識した作品、とも言える。
 本作のキーである巨大ロボット、ザンタクロスのデザインは『Zガンダム』に登場するモビルスーツ、百式をモチーフにしたものだという。さらにコメディリリーフ、狂言回しとして活躍するロボット、ミクロスの名称は『超時空要塞マクロス』から取ったのだろうが、拾った兵器を組み立てると宇宙から強大な軍団が攻めてくる本作はその『マクロス』とモチーフを同一にしている。密かな本歌取り、とでも言おうか。
 しかし本作が公開された1986年は、ロボットアニメがジャンルとしてのプラトーからゆっくり降り始めた時期だ。まずは『ガンダム』ブーム以来ジャンルを牽引してきたリアルロボットアニメの頭打ちがある。『Zガンダム』の暗いラストを受け『機動戦士ガンダムZZ』は方向転換を試みたが、ファンはそれを諸手を挙げて賛同したわけではなかった。さらに前年に始まった『青き流星SPTレイズナー』は打ち切り。スーパーロボットものでは、逆輸入ものの『トランスフォーマー』がかろうじて気を吐いていたくらいだ、
 それに代わって隆盛になったのが、等身大ヒーローである。『北斗の拳』『ドラゴンボール』などの週刊少年ジャンプ連載作品が好評を博するようになってきた。そして10月にアニメ化された『聖闘士星矢』は、等身大ヒーローにそれまでロボットの専売特許だった「合体、変形」のギミックが持ち込まれた作品でもある。
 そして90年代以降、ロボットアニメはかつての「黄金時代」を模倣するようなスーパーロボットものも含め、「高年齢層向けのもの」になっていったのだ。
 とはいえ、この時期は「ロボットアニメのトレンドはハードなリアルロボット」という図式が作り手はもちろん、受け手である小学生の子供たちにも一般的な認識であったのは間違いないだろう。
 そんな雰囲気を反映させようと思ったのか、本作は「地球侵略」を正面から扱ったハードな展開になっている。
 そのようなハードなタッチであるとはいえ、『ドラえもん』はあくまで児童向け漫画、アニメであるという線を外していない。基本的にはわくわくする冒険物語で、ほっと出来るような趣向も随所に盛り込まれている。鏡の向こうの世界は無人のワンダーランド。戦争に直面した極限状態は、無人のスーパーで好き放題に商品を持ち帰ることが出来る祝祭空間でもあるのだ。
 人間(知的生命体)に作られたロボットが造物主の手を離れて独自に進化する。そしてかつて人間が歩んだような歴史を辿るという設定は、SFには多い。たとえばJ・P・ホーガン『造物主(ライフメーカー)の掟』。
クリフォード・D・シマック『都市』。ロボットではないが筒井康隆『虚航船団』。しかし架空の歴史と言いつつ、人間の歴史をなぞる形になってしまうのは、人間のありように対する諷刺、ある種の皮肉を読み取るか。あるいは人間の想像力の限界とみるべきなのか。
 原作漫画を元に、大のドラえもんファンとしても知られる瀬名秀明がノヴェライズを執筆している(小学館)。この小説ではザンタクロスがビルを破壊するシーンに、2001年9月11日にワールドトレードセンターが崩壊するイメージが重ねられている。そして瀬名は仙台市在住の作家として東日本大震災に遭遇。『3.11の未来』(作品社)に寄稿した本作と絡めた論考「SFの無責任さについて」を読むと、いっそう印象深い。

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