というわけで第5回アニメレビュー勉強会の上位3位までの原稿を掲載します。第6回は来年春前ぐらいにできたらと思ってます。
第1位
原稿【20】/ズーシミ/想定媒体:映画雑誌読者投稿欄(雑誌『映画評論』(1925~1975年、有限会社映画出版社)が2012年現在も続刊されているとするなら同誌に)
(タイトル)
『映画 けいおん!』の見せたジャンル映画論的娯楽
(本文)
ビートルズの四人が、ロンドンの街を駆け抜け、駅から列車に飛び込み、時に軽妙洒脱な演奏で、時には他愛もないおしゃべりで、イギリス中のファンの心を鷲掴みにした『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)。ジェイクとエルウッドのコンビが、アメリカを走り抜け、各地でトラブルに巻き込まれたりトラブルを巻き起こしたり、それでも圧巻のパフォーマンスで終わりにはオーディエンスの誰をも虜にしてしまう『ブルース・ブラザーズ』(1980年)。どちらも、底抜けの珍道中に幸福を感じる、音楽ロード・ムーヴィーの傑作であり、人気者を魅せきった、アイドル映画の金字塔でもある。
ならば、軽音楽部所属のキュートな女子高校生五人組が、卒業旅行に訪れたロンドンの旅先、ひょんなことから回転寿司屋の開店祝いで演奏を披露させられたり、地元のフェスティヴァルで飛び入りの演奏に駆り出されたり、――『ビートルズ』や『ブルース・ブラザーズ』同様、そんな道中のトラブルやアクシデント、ご都合主義の数々すらファンにとっては心地のよい『映画 けいおん!』を、どうして、ロード・ムーヴィーやアイドル・ムーヴィーと呼んではいけないのか。『けいおん!』がアニメだからと言って、そう呼んではならない由が、我々映画マニアにあるのだろうか。
本映画誌の硬派な読者諸氏に『映画 けいおん!』をすすめよう。
2011年に全国の劇場で公開された当作。2009年と2010年に各シリーズの放送されたTVアニメ第一作『けいおん!』及び第二作『けいおん!!』の人気を受けて制作されたアニメ作品である。シリーズは、かきふらいによる四コマ漫画を原作とし、軽音部所属の女子高生らの、音楽準備室に集まるいつもの放課後、おしゃべりと紅茶とケーキを長閑に楽しむ、学生時代の日々を豊かに描いた。
そんな彼女たちが、『映画』では、準備室を飛び出して卒業観光にロンドンへ。しかし、帰国後の軽音部には、部員四人の卒業により後輩只一人が残されるという別れの季節が待っていた。卒業式当日、上級生四人が、愛する後輩に贈った歌とは――。
『映画 けいおん!』は、実のところ、アイドル・ムーヴィーやロード・ムーヴィーの他、トラヴェリング・ムーヴィー(観光モノ)、グラデュエーション・ムーヴィー(卒業モノ)など、多岐に渡るジャンル映画のエッセンスで彩られている。
例えば、オールスター娯楽映画としての『映画 けいおん!』。TVシリーズに登場した大勢のキャラクターが、当作では尽(ことごと)く総登場した。監督の山田尚子は、複数のインタヴューにおいて『CHECKERS in TANTAN たぬき』(1985年)などのアイドル映画を観賞したと答えている。アイドル映画の見せ場の公平なつくり、グループのメンバーの一人を撮ったなら他のメンバーの一人も必ず撮るという方法が、絵コンテの作成で参考になったと言う。制作者の、キャラクター全員に見せ場を設けようとするアイドル映画らしいサーヴィス精神、またキャラクターやファンに向けられた眼差しの優しさ。それらが、当作のオールスター・ムーヴィーのような賑やかさの原動力になったのだろう、そう感じさせられたエピソードである。
或いは、音楽娯楽映画としての『映画 けいおん!』。軽音部メンバーが市内観光でロンドンを満喫する様子は、彼女らの楽曲をBGMにしたミュージック・ヴィデオのような華やかさである。ミュージック・ヴィデオとは、言わずもがな、歌を歌い映像に映るアイドル、そのプロモーションを目的とするクリップである。軽音部五人組が、初来日のビートルズの如く歓待されるにハッピを着せられたのも、アイドル・グループに見立てられた一つの証左ではなかろうか。
しかし、ジャンル映画からの多様なアイデアを詰め込みながらも、お祭り騒ぎのようなロンドン観光のシークェンスは、当作で最優先された物語でなかった。メインは、上級生たちが下級生に歌を贈って卒業していくという物語である。上映時間の上では卒業旅行の話に尺を割くなど、劇場作品らしい賑やかさや華やかさを保持しつつ、物語の軸足をグラデュエーション・ストーリーから外さなかった、当作脚本の構成は、実に心憎い。
『けいおん!』シリーズは、キャラクターを魅せる、キャラクター・アニメなどとも呼ばれるアニメだ。スターやアイドルを魅せる、これがアイドル映画の鉄則であるならば、そのキャラクター・アニメというジャンルとの、魅せるということによる親和性も、想像に難くない。それどころか、同シリーズは、マニア以外のファンからも観客を広く獲得したといわれるヒット作である。観客の裾野を広げ、娯楽の力を以って彼らを魅了する――アイドル映画どころか、そもそもジャンル映画そのものの気質と、当作は馴染んでいたのかも知れない。
アニメの制作者集団として高評を得る、当作制作元請け、株式会社京都アニメーション。筆者は、同社を中心とする制作陣が、当作で、アニメ制作者でありながらジャンル映画論的な教養をも大いに見せつけたと思う。美少女高校生らが茶をシバくだけ、などと身も蓋もない揶揄にさらされかねぬストーリーの作品にありながら、日常生活的な描写の丁寧な積み重ねで、学生時代の機微すら描ききったTVシリーズ。ならば、『映画』では、TVシリーズの下地に、ジャンル映画の楽しさが盛り付けられ、その劇場用作品としてのヴァリューを守っていたのでなかろうか、
いつもの軽音部の日常が『映画』で少しだけ派手やかに見えたなら、そこには、ジャンル映画の賑やかさや華やかさがあったかも知れない。
アニメが、どうジャンル映画を料理したか。映画好きの読者諸氏にこそ観てもらいたい。
第2位
原稿【48】/大山くまお/想定媒体:「CUT」「オトナアニメ」「cakes」
(本文)
『映画けいおん!』で僕がもっとも印象に残ったのは、「Singing!」が流れるエンディングの映像だ。この作品はテレビシリーズと対応しており、両方あわせてひとつになるという寄木細工のような構造を持つ。その意味では、物語と直接かかわっていない映画版のエンディングは、緻密な構成からはみ出したような存在であり、おしゃれでカッコいいイメージを羅列しているだけのようにも見える。しかし、けっしてそうではない。この場面にはいくつかの映画が引用されており、それぞれに『映画けいおん!』が持つ意味がしっかりと込められているのだ。
順番をひっくり返すことになるが、まずは白いバラの繁みの向こうにいる放課後ティータイムのメンバー5人のシーンから見ていこう。カメラは、微妙に手ぶれしながら寄り添う少女たちの姿を捉える。退色したフィルムで映し出された、柔らかで美しい映像だ。このシーンはソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』(99年)を元にしている。13歳から17歳までの姉妹が、誰からも穢されることなく美しいまま自らの命を絶つ。繊細な思春期の少女たちの暴走を描いた、いわゆる“ガーリーカルチャー”の頂点に君臨する作品だ。山田尚子監督はソフィア・コッポラへの興味を明言しており、実写映画を撮るとしたら彼女のように「生っぽい感覚で女の子を撮ってみたい」と語っている(※)。ちなみに『けいおん!』も『ヴァージン~』も、主人公の少女の数は同じ5人である。
彼女たちが揃いの制服のような服を着ているのは、『ピクニックatハンギング・ロック』(86年)からのイメージだろう。この映画は、名門女子学園の生徒たち数名がピクニックの途中で忽然と姿を消した事件を幻想的に描いている。謎の多い作品だが、少女たちは永遠の時を求めてこの世から去っていったのではないか、という解釈はいまだに多くの人を惹きつけている。
「HELTER SKELTER」と書かれた回転式滑り台は、イングランド南東部にある都市ブライトンの観光名所ブライトン・ピアの小さな遊園地にあるものだ。また、澪が布を持って歩き、メンバーが憂鬱そうな表情で演奏する真っ白な崖が印象的な場所は、ブライトンからバスで1時間ほど離れた白亜の断崖絶壁、セブン・シスターズである。この2か所は同時に訪れる観光客がとても多い。なぜなら、どちらも映画『さらば青春の光』(79年)の舞台だからである。60年代のイギリスを舞台に、大人たちの世界に反抗するモッズの若者たちをファッショナブルに描いた青春映画の傑作だ。
唯たち5人がユニオンジャックに包まれている画は、イギリスを代表するロックバンド、THE WHOのドキュメンタリー映画とそのサントラ『キッズ・アー・オールライト』のビジュアルである。THE WHOは律がドラマーのキース・ムーンの大ファンだったり、唯がギタリストのピート・タウンゼントの風車奏法をやっていたりと、『けいおん!』ファンにもおなじみのバンドだろう。『キッズ~』の1曲目に収録されている「マイ・ジェネレイション」は、数多くの楽曲が流れる『さらば~』の中でも象徴的な1曲だと言っていい。古臭くて頭の固い大人たちに対し、若者たちが“俺たちの時代”を突きつけた歌詞の中にこんな一節がある。「俺たちは年寄りになる前に死ねばいいと思ってる」
バンドは解散する。青春は終わる。そこに永遠の二文字は、ない。唯の「大学行っても、みんなでお茶できるよね?」という問いかけに対し、聡明な憂は「もちろん、できると思うよ」と返答を濁している。唯たち3年生は学校を卒業し、梓は学校に残る。やはり、放課後ティータイムも永遠ではない。
山田監督は先のインタビューの中で『けいおん!』の続編について「個人的にもまだやりたいけど、今終われば美しい」と語っている。『ヴァージン~』も『ピクニック~』も、少女たちが穢れのない美しい少女のままであろうとしてこの世から消える作品だった。唯たち5人がたわむれていた庭園に楽器だけが残されている姿を見ると、一瞬ドキッとする。彼女たちも永遠を求めて消え去ってしまったのだろうか? 放課後ティータイムは「マイ・ジェネレイション」を歌うのだろうか?
『さらば~』のラストシーン、主人公の少年はモッズの象徴ともいえるバイク・ベスパをセブン・シスターズの崖から海へと落とす。実は『さらば~』の冒頭には主人公がしょんぼりと崖を歩くシーンがあるのだが、このラストシーンの続きを意味するのではないかという解釈がある。ベスパを海に落とした彼はあらゆるものに反抗していた青春の季節に苦い別れを告げ、つまらない大人になるという意味だ。
澪が白いバラを崖から落とすカットは、ベスパを海に落とすシーンに対応している。唯たちは「美しい」ままでいられる庭園を飛び出して、これから大人になっていくのだ。しかし、しょぼくれたままの『さらば~』の主人公とは違い、彼女たちは崖の上を一斉に走りはじめる。目的地はさだまっていないし、穢れてしまうこともあるだろう。でも、仲間がいれば怖くはない。将来離ればなれになるかもしれないけど、今はまだ、怖くはない。彼女たちはこう歌う。「道なき道でも進もうよ 一緒に踏み出すそこが道だよ」
つらくなったら目をつむればいい。暗闇の中で思い出される、あの頃の記憶が支えてくれるはず。そう、「ふわふわ時間」が流れはじめるはずだから。
山田監督が『けいおん!』の終わりに彼女たちに贈った餞別が、このエンディングなのだ。
※続編が望まれる映画 「けいおん!」山田監督 「ソフィア・コッポラみたいな女の子の映画を撮りたい」クランクイン!2012年3月1日
http://www.crank-in.net/game_animation/news/14108
第3位
原稿【30】/松田孝志/想定媒体:日本最大級を目指すアニメポータル「AniFav」
(タイトル)
ロンドン・コーリング
(本文)
Blu-rayソフト『映画 けいおん!』に、特典として収録されている「山田尚子inロンドン」は、全世界のパピコファン必見の映像である。ちなみに、パピコというは山田監督の愛称なので、帰るまでに憶えておきましょう。
そもそも山田尚子監督は、それまで、いわゆる「顔出し」というものをしてこなかった。まるで少女マンガ家が、編集部によって厚いベールに覆われているように。まあ、アニメの女性スタッフというのは、わりとそうだったりするのですが。奥ゆかしいと言うべきなのか、どうなのか。
山田監督が、おそらく、初めてオフィシャルな場に姿を現したのは、2011年2月10日に、さいたまスーパーアリーナで開催された「TVアニメ「けいおん!!」ライブイベント~Come with Me!!~」でのサプライズゲストとしてだったろうか。ネットの画像検索で引っかかるのも、たいていが、この時のキャプチャー画像だったりする。
「山田尚子inロンドン」は、そんな山田監督のレアな姿がふんだんに盛り込まれた貴重な30分間である。ほとんどプロモーションビデオと言って差支えがないのである。アイスクリームの自動販売機に興味津々のパピコ、ケンジントン・ガーデンズでリスを追いかけるパピコ、カムデン・タウンで写真を撮りまくるパピコ、シャーロック・ホームズ博物館でディア・ストーカー(鹿撃ち帽)を被ってご満悦のパピコ。
おそらく、この特典の作り手は、山田尚子という存在を、放課後ティータイムのメンバーの一員のように見せたかったのではあるまいか。おそろしく無邪気で、大胆に行動的で、幼い外見の持ち主……。特典では、現地の人から子供扱いされて「心外ですわ(笑)」とつぶやく山田監督の姿が映っているが、アニメ本編での、梓のワンシーンを想起せずにはいられまい。いや、順序は逆か。
もちろん、このミニドキュメントは「尚子かわいいよ尚子」に終始しているわけではなくて、あくまでもメイキングビデオである。山田監督は、どのような場面を構想していたのか。番組終盤のインタビューで、以下のように話している。
「唯にはウェストミンスター寺院に連れていきたいと思いました。唯の人生に大きな打撃を与えたいって言ったら変な言い方ですけど、なんか新しい感覚が芽生えそうというか、唯にはそういう神聖な経験をしてもらいたいなと思いました。」
「澪は、あそこに連れてですね。監獄博物館があったところ。お化け屋敷みたいなのが軒並みあったあたりですね。それはもう、皆さんの想像の通り怖がってもらいたいからです。」
「ムギはパブに連れていきたいです。たぶんダメですけど。」
「りっちゃんはトラファルガー広場に連れて行ってですね。ネルソン提督のライオンに登って乗って……」
「梓も唯と一緒ですね。礼拝とかそういう時間に連れていきたい。」
『映画 けいおん!』を観た人ならわかるように、こうした目論みは、ほとんど実現していない。他にも、シャーロック・ホームズ博物館の前で「すっごい楽しかったので、ぜひとも唯たちに行かしてあげたい」とコメントする姿も映っているが、これも叶わなかった。つまり、この映像特典は、いかに『映画 けいおん!』が作られたのかを語るというよりは、実現することのなかった、ひょっとしたら有り得たかもしれない、別の『映画 けいおん!』に想いを馳せるような内容になってしまっているのである。これはどこまで意図的だったのだろう。
山田監督のプランがアニメに活かされなかった理由は何なのか。考えられるのは、上映時間の問題だろう。もともと90分の予定が、現在の110分にまで伸びたが、それでも落とさざるを得なかったエピソードが数多くあることは、公開当時のインタビューでも触れられていた。なにしろこの映画、主人公たちが帰国した後で、さらにもうひとつクライマックスがあるという、二段構えの構成をとっているのだ。おまけに、旅行に出かけるまでの段取りにも、かなりの時間を割いているし、実は、ロンドンの場面というのは、それほど長いわけではない。
限られた時間の中で、観光的な要素を省くという判断がなされたという事は、有り得そうな話である。。シナリオハンティングに同行した脚本家の吉田玲子は、「アニメージュ」2011年11月号のインタビューで、印象に残った場所を訊かれて次のように答えている。「街並みですね。ホテルから少し歩いたところにキレイな家が並んでいる一画があったんです。かわいい壁があったりして、唯たちはこういう場所を喜ぶよねって。(彼女たちは)観光名所は「あー、あったねー」くらいですませて、むしろ普通の街並みに目が行くんじゃないかと話し合いながら歩きました」
スタッフの考える『けいおん!』らしさとは、こうした日常的な視座を、登場人物が持ち続けることなのだろう。映画にはプロットの縦糸として、先輩4人が後輩の梓に捧げる曲を作るという目的があるのだが、最初、壮大な曲を作ろうとしていた唯は、旅行の帰りにこう打ち明ける。「いつもの自分たちの曲でいいんだよね」
こうした「変われなさ」について、作り手は十分に自覚的である。彼女たちは「神聖な経験」をするどころか、ロンドンで本場の紅茶を味わうことさえできないのだし、律が「世界が狭すぎるにもほどがある」と呟くように、ロンドンを舞台にしても、物語を左右するのは、同じく日本からやってきたラブクライシスのメンバーだ。(観光というカジュアルな形でさえ)異文化と触れるよりは、ホテルで馴染みのメンバーでドタバタをくり広げる方が、より「けいおん!」らしいのだ。
こうしたありかたは、それこそTVシリーズが始まった当初から、くりかえし批判されてきたのであるが、こうしてシリーズ完結篇まで、首尾一貫してきた事には、凄みのようなものも感じられる。そして、その一方で、作り手の側にも、そこから脱却しようという意志があったことも、この特典映像からはうかがえるのである。
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