からの転載です。
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https://ameblo.jp/amanomotoyasu/entry-12373827383.html
欧米の「操作される民主主義」を作り上げてきた中心勢力フリーメーソン。
そのメーソンの密教の倫理学の基礎にあるといわれる18世紀のドイツの哲学者カント倫理学の解説本である
「悪について 中島義道著 岩波新書」
の書評の続き。
前回はカント倫理学の全体像をモデル化しながら、
「実際の行動を起こす善意志の自律」
を形式化する営みをお伝えした。
→<リンク>その4 操作される民主主義の源流 フリーメーソン倫理学の基礎としてのカント倫理学
今回は、カントの述べた「形式的な人格の原理」だけでは、万人の人格の保障ができないこと。
そのため万人の人格の保障を行うには、「民主主義の原理」と融合する必要があることを解説する。
今回の解説は、下図の青い四角の枠線
↓
カントは善意志の自律を導き出す、形式的な道徳法則、つまり人格の原理を語った。
それは以下のようなものだと私は解釈した。
・下図の① 人類にとって普遍的であろう道徳(定言命法)をたてること(善の感情)
→下図の② その善の感情に基づいて現状を認識する事(善の知性)
→下図の③ 善の感情と知性から、善の行動を導き出す事(善の意志)
→これらの立法を自らが自律的に行う事(善意志の自律)
→この道徳法則をたてる能力を「実践理性」と呼び、理性に基づいて行動する主体を「人格」としたこと
このようにカントの理論を参考にして、自己愛に基づいた「自己利益のための行為」ではなく、
普遍的な道徳に基づいた「道徳的に善い行為を導き出す形式」を確立し、モデル化した。
しかしこの形式だけでは、現実の民主主義の論理の説明としては未だ不十分である。
前回もお伝えしたが、ここまでのカント倫理学は「道徳的に善い行為を導き出す形式」であって、
「善い行為の内容」については提示していないためだ。
(悪について 中島義道著 より転載)
P10
カントは、善の内容、すなわちいかなるものが善であるかを提示しようとしない。これは、カント倫理学にとって本質的なことである。
P142
カントがわれわれ理性的存在者に要求していることは、道徳的に善い行為を通じてそのつど何が善い行為(適法的行為)かを決定せよということである
(転載終了)
道徳的に善い行為の内容を提示していない以上、その内容は道徳法則をたてる
自律的な個人に任せられることになる。
善の内容を定義しない自律の理論は、人々の自由意思を認めると同時に、
人々の自由意思を奪うという矛盾した結果を導き出す危険性もある。
(悪について 中島義道著 より転載)
P151
意志の自律はたいそう危険な側面をもっている。その足元には「善悪の彼岸」の深淵がぽっかり口を開けている。
A・アイヒマンは、カント倫理学に従ってユダヤ人を次々にガス室に追いやったと語った(そうだ)。その行為の動機は、「ヒトラーの意志だから」ではなかった。自己愛に基づいていてでもなかった。
じつに、カントの定言命法を適用して、熟考に熟考を重ねた結果、「ユダヤ人を絶滅すべきだ」と判断したのだ。
カント倫理学を完全に誤解したのか。そうではないように思う。なぜなら、意志の自律の核心部分として、いかなるものであれ、われわれがある信念を抱き、それを「善い」と確信し、それを普遍化しようという行為に出ることを妨げるものはないように思われるからである。
P153
アイヒマンが「ユダヤ人を絶滅すべきだ」という格律をもっており、その格律が普遍的法則となることを彼が「同時に欲しうる」ことは確かである。そのかぎり-----カントが生きていた社会の通念やカント固有の人間観をもってくることなしには-----カント倫理学の中にこれを妨げる「理論」はないのだ。
P154
じつは、定言命法からはとくに人類の存続は出てこないのであり、そのかぎり自分を含めた全人類を一挙に抹殺すべきだ、という内容さえただちには排除できないのである。
(転載終了)
上記の転載のように、普遍妥当な道徳法則をたて実践するという形式的なカント
倫理学だけでは、ナチスの様々な蛮行も、狂気のカルト団体が持っているような
人類皆殺しの思想も排除できない。
カント倫理学とナチズムが融合すれば、ナチズム的人格が形成されてしまう。
それをモデル化すると以下の図のようになる。
よりよい社会、よりよい生き方を追求するはずの倫理や宗教が、最悪な蛮行を
行ってしまったという事例は歴史をみれば多数見いだされる。
ナチスだけではなく、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、共産主義、民主主義など
イデオロギーに基づいた蛮行には枚挙にいとまがない。
普遍妥当な道徳を何にするのか?という善の行為の内容が極めて重要なのだ。
それでは、どのような道徳法則をたてればよいのだろうか?
まず普遍妥当だと思われる道徳法則をたてるのはあくまでも、「個人の感情的側面」
であることを理解する必要がある。
そのことについて、カント倫理学が感情に基づいていることを論じた19世紀ドイツの
哲学者ショーペンハウアーの指摘が参考になる。
(悪について 岩波新書 中島義道著 より転載)
P152
自分が「善い」と立法し、それに自分自身が従うのである。ショーペンハウアーは、このことを見抜いていた。
彼は、定言命法の一つの方式に注目する。それは次のものである。
きみの格律が普遍的法則となることを、きみが同時に欲しうるような格律に従ってのみ、行為せよ(『基礎づけ』)
これを受けて、ショーペンハウアーは『道徳の基礎について』の中で次のように言う。
よって、万人がそれに従って行為することを私が欲しうるような格律そのものが、はじめて実際の道徳原理であろう。
私が欲しうるというのが軸であり、その軸を具体的に与えられる指示がめぐっている。ところで、私は何を欲しえ、何を欲しえな いのか?ここに問われた観点から、私が何を欲しうるかを規定するためには、あきらかに一つの規則が必要になる。私はこの規 則によって、はじめていわば封印された命令に含まれている指示を開く鍵を手にしたことになるだろう。では、この規則はどこに求められるべきか?私のエゴイズム以外のどこにも求められえない・・・・・。
(転載終了)
上記の指摘のように、「自らが欲する普遍的だと思われる道徳」というのが
カントの定言命法の中身なのだ。
自らが欲する道徳なのだから、これは「感情的側面」となる。
それをショーペンハウアーは「エゴイズム」と述べるが、自らが欲するとしても、
人類に普遍的な道徳を追及しているのである。
それを自己利益のみを追求するエゴイズムとすることは適切ではない。
普遍的な道徳を求めているのだから「善の感情」と呼ぶべきものなのだ。
しかし、この普遍的な道徳の中身は各個人の感情に基づいている以上、
それぞれ違った内容にならざるを得ない。
例えば、カントの人格の理論に似た明代の儒教思想である陽明学には以下のような考えがある。
(世界の歴史 明清と李朝の時代 岸本美緒/宮嶋博史 著 中央公論社より転載)
P175
陽明学を歴史的に位置づけようとするとき、つねに注目されるのが、外面的な規範よりも人間のあるがままの内面に正しさの規準を求めようとする態度(「心即理」)、そしてそれと表裏して、無知無学の庶民の中に本当の道徳性を発見しようとする主張である。
P177
庶民の道徳的能力を信じ、「自分の心に求めて非ならば、たとえその言が孔子から出たものであろうともあえて是とはしない」(王守仁)と言いきる陽明学の精神は、人間の上下関係の秩序を厳しく守ろうとする儒教の教えに逆らう反権威主義、自立平等の近代的な主張とも見えよう。
しかし、陽明学が、親に考、君に忠といった旧来の上下道徳を否定したのかといえば、決してそのようなことはない。むしろ、陽明派は、熱狂的にそうした道徳を鼓吹した。
庶民は、そうした道徳を生まれながらにもっているからこそ、聖人にも匹敵する道徳的な存在なのであった。こうした側面に注目すれば、陽明学とは、忠義・孝行といった旧い道徳を人間の本来自然にもつものと言いなして大衆の心の中に刷り込もうとする、はなはだ反動的な思想といえるかもしれない。
実際、従来の研究史のなかでは、陽明学の近代性を強調する考え方と、反動性を強調する考え方と、二つの立場があったといえよう。
(転載終了)
カント倫理学も陽明学も、人間が本来生まれながらに自然に持っている普遍的な
道徳を善の基準にしている。
しかし、陽明学の場合、普遍的な道徳とは、「親に考、君に忠」という儒教的な感情なのだ。
これは、フリーメーソンが中心となって作り上げてきた個人の尊厳の実現を目的とす
る近代民主主義の価値観とは違ったものである。
多面的な要素をもっている。
そのため民主的な価値観も封建的な価値観も同じ人間の中に同居している。
多面性を内包している個人の価値の中で何を普遍的な道徳として尊重するかは
個人の感情によって異なってくる。
人格の原理が最終的に個人の感情に依拠している以上、その内容は多種多様な
ものにならざるをえない。
前述したとおりカント倫理学の「道徳的に善い行為を導き出す形式」だけでは、
陽明学だけでなく、ナチスの理論すら否定されない。
全体主義や封建主義を否定するために生まれた思想が民主主義である。
善の感情に依拠している人格の多様性を認めながら、全体主義と封建主義を
排除しなくてはならない。
その実現のためにカント倫理学の人格の原理と、
「全ての人間に自由と平等の権利を保障する」
という西欧の啓蒙思想家が述べてきた自由、平等、友愛の法体系が
融合することで、現代まで続く民主主義が成立した。
次回に続く
(記事終了)
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