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【第153回 芥川賞 受賞作】『スクラップ・アンド・ビルド』羽田 圭介

2015/07/02 13:56 投稿

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  • 第153回芥川賞
 カーテンと窓枠の間から漏れ入る明かりは白い。
 掛け布団を頭までずり上げた健斗は、暗闇の中で大きなくしゃみをした。今年から、花粉症を発症した。六畳間のドアや通風口も閉めていたのに杉花粉は侵入し、身体に過剰な免疫反応を起こさせている。ヘッドボードのティッシュへ手を伸ばした健斗の視界に、再び白く薄暗い空間が映った。早朝だろうか。だが少し前に杖をつく音で目覚めた際も同じ光景だった。それともあれは昨日の朝の記憶か。健斗は断片的な記憶の時系列を正す。あれは間違いなく今日だ。時計を見ると、午前一一時半だった。
 北向き六畳間の外に出ると、廊下をはさんだ向かいの部屋のドアは閉められていた。火曜だからデイサービスの日ではない。蛍光灯の明かりも一切なく、人気(ひとけ)は感じられなかった。玄関や風呂場の横を通り過ぎ、リビングへ入ったがそこにも人気はなかった。同じ空間にいるはずなのに、電気もつけず歩く時以外音もたてず、そこにいないように振る舞う祖父の辛気くさい感じに健斗が慣れたのも最近だ。ダイニングテーブルの上に、出勤した母が作り置いていった祖父の昼食用おにぎりが一つ置かれている。リビングと隣の和室はともに南向きの掃き出し窓からの採光であるが、いつもより暗い。窓に面した坂道から聞こえてくるロードノイズのうるささからも、雨が降っているか、さっきまで降っていたのだと知れる。つけた照明の明るさに目を刺激された健斗はくしゃみし、鼻をかみ合皮ソファーに座った。今朝の新聞やチラシの束が手つかずでローテーブル上に置かれている。することがないなら、せめて新聞の見出しを眺めるくらいのことはしたらどうだ。まるで居候の身をわきまえていると主張しているかのように、ここにずっと住んでいる母や健斗から許可されるまで何にも手をつけない祖父のハリボテの奥ゆかしさに鼻白む。健斗はテレビをつけた。ほぼ無音だった空間に、女のしゃべり声と電子的な音楽がたちあがった。バーゲンセールのCMで、CM明けにはわけのわからない肩書きのコメンテーターたちがしゃべりだす。電源をオンにし一分もたたぬうちに視覚や聴覚を滅茶苦茶にひっかきまわされる感じが、退社して以降生活リズムの区切りがなくなってしまった身には、朝を実感するための気付け薬となっていた。
 慢性的な腰痛に加え、昨日のコンサートスタッフ単発アルバイトの肉体労働のせいもあってか腰の痛みが強く、座っているのが辛い。退社後七ヶ月間で癖になった二度寝がよくないのか、わずかに頭痛まである。健斗は新聞やチラシの束を手に取りソファーへ寝そべった。新聞のテレビ欄と社会面にだけ目を通すとカラフルなチラシをめくり、最後に白黒一色刷りの紙に目をやる。自治会発行の、高齢者自動車運転注意の呼びかけだった。一ヶ月弱前、八〇代の女性が軽自動車で暴走し、横断歩道を渡っていた歩行者三人をはね民家の塀に激突するという事故が、入居開始後四〇年経つニュータウン内のここ多摩グラントハイツ近くで起こっていた。小学生女児が死亡、他二人は怪我、運転手本人も意識不明の重体で病院へ搬送されたとその日の全国ニュースでも報道された。
 冷蔵庫内の作り置き料理等で朝食を済ませた健斗は、空気清浄機の出力を最大に設定し直し再びソファーへ寝そべった。腰もそうだが、杉花粉に目と鼻をやられ、おまけに頭痛まであっては、高度な集中を要する行政書士の勉強などできない。ネットサーフィンやテレビや映画など主に目を使う行為がダメで、腰もやられ運動もダメとなると、できることなど本当に限られた。人に会いでもすれば体調の悪さもいくらか忘れられるだろうが、四歳年下の交際相手亜美も今日はアウトレットモール内のDCブランドショップ店員として出勤している。数時間おきに用を足す祖父がアルミ製杖をつく音のせいで眠りは浅く長くなるが、九時間半寝たからさすがに眠気はない。
 ただ漫然と時間をやり過ごさなければならないのは、生き地獄そのものだと健斗は思った。新卒で五年間勤めたカーディーラー時代にトラブル処理に奔走させられたり、好意を寄せている異性から手ひどい仕打ちを受けたりといった、明確な辛さや痛みのある日々のほうがまだマシだ。
 こんな絶不調の自分でもできることがなにかないか。テレビへ目を向けながら健斗は考えるも、痒くなり膜がはったようにかすむ視界の中、画面の四隅まで異様にクッキリ映すデジタル放送の過多な情報量が辛く、電源をオフにした。おとずれた静寂の中、昔はよく見ていたテレビの相撲中継もほとんど見なくなった祖父の姿が頭をよぎる。健斗は立ちあがった。することもない同士、話し相手にでもなってやれば、少なくとも相手のために自分の時間を役立てられる。
 ドアをノックし、返事も待たず中に入る。すぐ目の前に、パイプベッドに横たわる祖父の顔が見えた。起きていたらしく、その目は顔ごと孫へ向けられている。何枚も重ねられた掛け布団の中央に長さ一メートル強の膨らみがあるだけで、そこに成人男性の胴体や四肢がおさめられているようには見えない。
「おはよう」
 挨拶されもぞもぞと動きだした祖父をおき、窓へ寄った健斗は中途半端にしか開かれていないピンクの遮光カーテンをそれぞれ左右にきっちり寄せる。電気をつけないのは節電だとしても、カーテンを開けないとは、すすんで鬱にでもなろうとしているのか。健斗はレースカーテンを指先でめくってみるが、駐車場やフェンスの向こうの線路を見下ろすだけの部屋からだとロードノイズすら聞こえず、雨が降っているのかもわからない。窓側の隅にある学習机の上には、整理を途中で諦めたらしい衣類がいくつか広げられたままだ。机とパイプベッドの間で間仕切りとヘッドボードの役目を果たす書棚の上下段には三年前に嫁いだ姉の大学時代までの書物が一部残されたままで、中段には祖父がためこんでいる様々な薬や小物が置かれている。姉とほぼ入れ替わりでこの家に住み始めた祖父の持ち物は薬と洋服くらいだが、服の量だけはキャスター付き衣類ケース三つぶんと多かった。
 寝返りもうてぬほど重ね敷かれた掛け布団をどけ上半身を起こした祖父が、靴下をはいた足をゆっくりフローリングにおろす。苦虫を噛み潰したような表情が普通になっている老人は腰をさすりながらなにかぼやいている。丸まった背中にS字のカーヴはない。
「今日は家におると?」
「うん、そうだよ。昨日はアルバイトだったけど、今日は家で勉強する日」
「ああそうね」
 言いながら、祖父は腰をさすっていた右手を左肩にやり自分で揉みほぐす。
「肩の凝りもひどくてねえ」
 とにかく目立たないこと優先で選んだようなくすんだ色の重い綿素材の長袖や半袖を何枚も着ている。同素材の重ね着という非効率的なコーディネートでは、重くて肩も凝るだろう。母がウールやダウン素材の服を買い与えても全然着ようとしない祖父には、空気の層で保温する科学的思考が欠如している。元からそうだったのか、そうなってしまったのか、ここ三年ほどしか一緒に暮らしていない健斗にはわからない。ましてやまともに会話するようになったのは、激務だったカーディーラーを退社した七ヶ月前からだ。
「寒い?」
「あんたそれ一枚しか着とらんと?」
 うなずく健斗は、大手衣料チェーン店の新素材クルーネック長袖Tシャツ一枚と、裏起毛の防風ズボンしか着ていない。三月上旬にしては寒い日だが、屋内であればそれでじゅうぶんだ。健斗はくしゃみをし、ベッドの枕元に置かれていたティッシュで鼻をかみ、ドア側の壁によりかかって座り祖父と向きあう。
「寒くなかね」
「うん」
「はあ……じいちゃんは、寒さに弱かでしょう。もう、今日も寒くてしゃむくて……寒かと、足の痛む」
 肩を揉んだあと両足のふくらはぎを揉みだす所作から台詞まで、数時間おきに繰り出される行為はいつも同じだ。
「夜も、三時頃までじぇんじぇん眠れんで。ようやく眠れた頃に朝ご飯でお母さんに起こされたでしょう」
「昼寝てたら、夜眠れなくて当然だよ。仕事してるわけでもないんだし」
「昼間も寝ちょらんよ」
 不満げな顔からして、本人は身体を横にしているだけで寝ている自覚はあくまでもない。いつもそのことだけは頑なだ。
「もう、毎日身体中が痛くて痛くて……どうもようならんし、悪くなるばぁっか。よかことなんかひとつもなか」
 背を丸め眉根を寄せ、両手を顔の前で合わせながら祖父がつぶやく。佳境にさしかかった、と健斗は感じる。
「早う迎えにきてほしか」
 高麗屋っ。中学三年の課外学習で見た歌舞伎で、友人たちと面白がり口にしまくった屋号を思いだす。祖父の口から何百回も発された台詞を耳にしながら、健斗は相づちをうちもせずただその姿を正視する。
「毎日、そいだけば祈っとる」
 弱々しい声でこんな台詞が発されたとき、祖父がここへ来る前の四年間埼玉の自宅で面倒を見ていた叔父なら、それを打ち消しなだめるような優しい言葉をかける。五人兄妹の中で最もニヒリストの母に似たのか、健斗にはそんなことをする気も起こらない。醒めた観客相手にも、祖父は慰めてもらう前提の弱音を吐き続けることを止めなかった。
「もうじいちゃんなんて、早う寝たきり病院にでもやってしまえばよか」
 これまでに健斗は、祖父の体調不良のうったえを聞き、総合病院やら内科、形成外科等の各病院へ車で送っていったことが何十回とある。しかし緊急搬送された二回をのぞき、どこで検査しても、生死にかかわるような病は見つからなかった。今かかっている病院では、循環器系に作用する最低限度の薬さえ飲み続けていれば健康でいられると言われている。つまり、八七歳という年齢からすれば、祖父はいたって健康体なのだった。
「健斗にもお母さんにも、迷惑かけて……本当に情けなか。もうじいちゃんは死んだらいい」
 顔をしかめながら小さな手で全身のあちこちを揉む祖父からは、切実さが漂っている。数ヶ月前に倒れた時の眼球内出血で未だに右目の視界がかすみ、補聴器の調子が悪くなればなにも聞こえず、いくら調べても原因不明な神経痛があり――つまりは本人にしかわからない主観的な苦痛や不快感だけは、とんでもなく大きいのだ。現代医学でもやわらげようのない苦痛を背負いながら、診断上は健康体であるとされ、今後しばらく生き続けることを保証されている。祖父が乗り越えねばならない死へのハードルは、あまりにも高かった。
「おしっこばぁっか出るとに、便秘はひどくて」
「朝ご飯は、なに食べたの?」
 その後数分いつもと同じ会話をこなすと、健斗はリビングで市販の抗アレルギー薬を飲み、自分の部屋へ戻った。ひときわ大きなくしゃみをすると、急な気圧変動で数秒間右の鼓膜がおかしくなった。あくびで元に戻しても、不快感は耳に残っている。勉強は無理でもネットサーフィンくらいならできるとノートパソコンをつけても、光沢液晶画面への蛍光灯反射が目の痒みを誘発し、五分も経たず健斗はパソコンをオフにした。
 できることなど、なにもない。ベッドに寝ると腰が楽になるが、起きたばかりで眠れもしない。携帯電話の受信メールを見ていき返信しそびれたものがないかチェックするが、数十秒でそれも終える。くしゃみをした健斗は仰向けになる。健斗自身信じがたいことだが、目も鼻も腰もやられ会ってくれる人もおらず散歩する気にもなれない悪天候の今、二八歳の健常者にできることなど一つもなかった。薄暗い室内で、白い天井を見ているくらいしかない。より腰の楽な姿勢を探そうと左へ横向きになると、そこにも白い壁紙があった。
 ふと、健斗はあることに思い至った。
 自分は今まで、祖父の魂の叫びを、形骸化した対応で聞き流していたのではないか。
 昼も夜もベッドに横たわり、白い天井や壁を見ているだけで、自分が昼間途切れがちに眠っていることも意識できないほど白夜の中をさまようようになれば――良くなりはしない身体とともに耐え続けた先にも死が待っているだけなのなら、早めに死にたくもなるのではないか。
 健斗は自分の今までの祖父への接し方が、相手の意思を無視した自己中心的な振る舞いに思えてくるのだった。家に生活費を入れないかわりに家庭内や親戚間で孝行孫たるポジションを獲得し、さらには弱者へ手をさしのべてやっている満足に甘んずるばかりで、当の弱者の声など全然聞いていなかった。
 死にたい、というぼやきを、言葉どおりに理解する真摯な態度が欠けていた。
 トイレにでも行くのか、ドアの向こうから杖つき音が聞こえてくる。杖の先はゴムで覆われているが、その音は家中に響いた。転んで痛い思いをしないよう、ゆっくりすぎるペースで暗い廊下を進んでいる。そんな祖父は、苦痛を怖がる人間が楽に三途の川を渡るための唯一の手段ともいえる服薬自殺にも、一度失敗していた。かといって、一度目の緊急入院時に約二ヶ月間利用した、患者を薬漬けにして弱らせる病院へ社会的入院をさせようにも、介護関係の診療報酬が下げられた今は簡単に入院などできないし、できてもすぐ家に帰される。つまり、薬漬けの寝たきりで心身をゆっくり衰弱させた末の死を、プロに頼むこともできないのだ。
 部屋からトイレまでたった五メートルたらずの距離を行く、絶対に痛い思いはすまいとする慎重な杖つき音が、まだ聞こえている。道のりはかくも長い。
 苦痛や恐怖心さえない穏やかな死。
 そんな究極の自発的尊厳死を追い求める老人の手助けが、素人の自分にできるだろうか。
 しかし八七年も生きてきた祖父の終末期の切実な挑戦に協力できるのは自分くらいしかいないだろうと健斗は思った。 


 面接を終えた健斗はスーツ姿のまま新宿へ向かっていた。カーディーラーを自己都合退職した後は、最初宅建の、その後は行政書士資格試験に切り替えた勉強を予備校にも通わず独学で行っている。そして月に一、二度はそれらと無関係な企業の中途採用選考を受けていた。しかし新卒の就職も厳しい現状で、三流大学出身かつなんの潰しもきかない業種に五年も身をおいていた人間を雇ってくれる企業はない。
 新宿界隈でまったく金を使わずに時間をつぶし、午後二時にルミネの三階で亜美とおちあった。ウィンドウショッピングにつきあい、なにも買わなかった亜美と一緒に歌舞伎町へ向かう。互いに実家暮らしの二人には、新宿と八王子にそれぞれ二軒ずつ行きつけのラブホテルがある。電車だと遠回りなため、八王子へ行くのはどちらかの家の車が使える日に限られた。
 フリータイムで入室後二〇分で射精してしまいぐったり疲れた健斗は、小柄なわりに豊かな亜美の乳房に顔を当てながら、
「けっきょく、こうやって添い寝してる時間が一番好きなんだよね」
 とモテ男みたいなことを言い己の精力や持続力のなさを誤魔化そうとする。
「靴下になんかついてるよ」
 ベッドに腰かけジーンズを穿いている時、健斗は亜美から指摘された。足裏を見ると、右の靴下になにか柔らかいものが付着している。十円玉大の薄いそれは、ご飯の固まりだった。スプーン半分ほどの量を床にこぼす人間は、祖父以外にいない。亜美からバレンタインプレゼントでもらった、タケオキクチ製のお気に入りだというのに。
「くそが……」
 六時前に割勘で払ったホテルを出るとファミレスで夕食を済ませ、新宿三丁目にあるチェーンのカフェに入った。二階の窓側席はファミレスより景色や雰囲気もマシで、ここで亜美のありとあらゆる愚痴を聞いたりまた健斗自身もデカい話をしたりするのがいつもの定番コースだ。酒を飲まない女だから、金がかからない。会社員時代のわずかな貯金に加え、老人性黄斑変性症の新薬を試す一七泊の治験で稼いだ五六万円があり、たまの単発バイトの稼ぎも入るため、七ヶ月間無職でも地味に遊ぶ金なら確保できている。
 一杯ずつのドリンクで二時間近く粘ったあと、駅へ向かった。途中、スーツ姿の背が高いとんでもない美人が向かいからやって来て、健斗が目で追うと気づけば亜美が口をとがらせていた。
「どうせ私なんか、ブスだもん」


※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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