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【第153回 芥川賞 候補作】『夏の裁断』島本 理生

2015/07/02 13:57 投稿

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 大した会話はしなかった。帝国ホテルの立食パーティでばったり顔を合わせたけれど、柴田さんはそらした。シャツの袖から白い手首が覗いていた。
 とっさに握りしめたフォークは、刺さらなかった。彼の手首の表皮を破くことすらできず、赤く反応しただけだった。
 柴田さんが振り返る。色素の薄い前髪から覗いた目は傷ついたように見開かれていた。被害者と加害者っておんなじだ、とぼんやり思った。まわりが取り乱したように駆けて来た。誰かがフォークをおそるおそる私の右手から抜き取り、パーティ会場から連れ出された。
 翌日には、柴田さんの会社の上司たちが自宅まで訪ねてきた。
 リビングのテーブル越しに向かい合い、先になにか言われる前に
「本当に、申し訳ありませんでした」
 私が頭を下げると、年配の上司たちはやんわりと遮った。
「このたびは弊社の柴田が、大事な作家である萱野さんを混乱した状況に追い込んでしまって、こちらにもなにかしら反省すべき点はあったのかと思いますので」
 その言い方で、柴田さんが社内でどう見られているかを悟った。あるいは彼自身がそう言ったのか。
 どちらにしても大人に精一杯かばわれている子供になった気がして激しい羞恥心を覚えた。
「もちろん今後またこんなことがあっては問題ですけど、今回は柴田も話を大きくしたくないと言っていますので、もし良かったら、水に流しませんか。お互いの仕事に差し支えてしまうのも、良くないことだと思いますし。もう柴田とは会わないとだけ約束していただければ」
 反論したいのに、思考が濁って上手く考えられない。ようやく終わるのだという安堵と空虚感だけが胸に広がっていた。
「柴田さんは、ほかに、なにか言ってましたか?」
 彼らはちょっとだけ黙ると、それには触れずに言った。
「とにかく今回の件は、柴田も担当編集者という立場をかえりみずに、個人的なお付き合いをしていたということですから」
「違います」
ととっさに答えていた。
「私は、柴田さんとそういう関係じゃないです」
 彼らは戸惑ったように口の動きを一瞬止めた。
「そう、ですか。失礼しました。でも、それなら、どうして」
 頭の芯から血がどんどん引いていく。口を開けようとしたら、言葉がからっからで乱れた呼吸だけが漏れた。
 なにがあったのか。どういう関係だったのか。私だって訊きたかった。
 強く目をつむると激しい雨の音がした。豪雨の夜に路上でキスした記憶が浮かび上がっていた。
 吐き気がした。

 数カ月ぶりの柴田さんの夢から覚めると、ブラインドの隙間から西日が射していた。
 起き上がると、首の後ろから頭の芯にかけて急激に血がめぐってめまいがした。携帯電話を握りしめて仕事部屋を出る。
 冷房がきいていない廊下は猛烈に蒸していた。ぺたぺたと前に進むたびに足の張り付く感触がわずらわしい。
 トイレに入ろうとしたところで、携帯電話が鳴った。登録していない番号だった。ずっと前に消した番号ではないと分かっていても心拍数が上がる。
 慎重に耳に当てると、わたしよ、という一方的な呼びかけに不意を突かれた。
「あ、お母さん」
「そうよ。ひさしぶり。寝てたの?」
 他意はないのだろう。それでも責められているような気配を感じて、押し黙る。
「どうしたの、今、都合悪いの」
とふたたび訊かれて、ううん、と首を横に振る。
「お母さん、携帯番号替えた?」
「そうよ。しつこいお客さんがいて」
「そう。最近も忙しい?」
「忙しいのよ。嫌になるくらい」
と母は威張るように答えた。嫌になるくらい忙しい話、を相槌も打たずに聞き続けた。そうしている間も、とん、とん、と階段を下りるように夕闇は濃くなっていく。
「良かったわよ、元気そうで。仕事でトラブル起こしたなんて言ってたから心配してたのよ。あんたのお父さんなんて、あいかわらず植物状態だもの。むこうのご両親が通ってるみたいだけど、年齢もあるから大変よね」
 大変だね、と合わせて答えると
「そういえばネットの掲示板みたいなのって読んでる? あれひどいわよね。あんたのこと、絶対に業界の人しか知らないようなことがたくさん書いてあって」
と言われたので、閉口した。母らしい言い方だと冷静に受け止めても、引っ掻かれたような痛みを心臓に覚えた。
「それで、よけいに心配になったのよ。まあ、自業自得なところもあったかもしれないけど」
「お母さんは、今日はどうしてた?」
と話を変えてみると
「まあ、今、鎌倉にいるんだけどね」
と返ってきたので、ちょっと考え込んでから、訊いた。
「お祖父ちゃんの家の後片付け?」
 学者だった祖父が亡くなったのは二カ月前だった。
 優しい人で、会えばいつでもさほど器量がいいわけでもない孫の私を、可愛い、美人になった、と褒めてくれた。
 でも、泣けなかった。
 あの帝国ホテルでの出来事の直後だったために、正直、お葬式の記憶すら曖昧だった。
「そうなのよ。お父さん、アンティークの家具だの壺だのけっこういいもの集めてたから。なんといっても、問題は蔵書よ。一万冊以上あるのよ。信じられない。しかもチェーンの古本屋に頼んだら、価値のあるものも無いものもぜんぶ一緒くたにするもんだから、あわてて追い返したわよ」
 母のことだから、本当にみもふたもない言い方で見積もりに来たアルバイトを家から追い出したのだろう。内心気の毒に思っていたら
「だからね。いい方法考えたの」
と急に張り切って言ったので、私はぎくっとした。半年前に実家に帰ったときに、リビングの壁紙が黄緑色になっていたことを思い出す。
「なにを、思いついたか訊いてもいい?」
「自炊よ」
と言われて、私は、じすい、とくり返してから
「え、もしかして今までのお店をやめて、古民家を改装したカフェでも始めるの?」
と訊くと、母はあきれたように、あんた本当に作家なの、と返した。
「そっちじゃなくて本切るやつよ」
「はい?」
「あんただって、仕事柄、お父さんの蔵書は好きなときに読めたほうがいいでしょう。だから本当に良いやつだけ高値で売って、あとはぜんぶデータ化しようと思って。だけど一万冊でしょう? 一カ月以上は間違いなくかかるから。どうせ仕事を休んでて暇なら手伝いに来てよ」
 薄暗いテーブルの上を、カラオケの大画面から降る光が照らしていた。
 大きく足を組んだ柴田さんは、水滴で曇って濡れた銀色の器へと視線を向けた。
 器の中にはこんもりと白いバニラアイスが盛られていた。離れたところからでも、胡散臭いほどのバニラビーンズが嗅ぎ取れた。
 柴田さんが指さすように顎を軽く動かして
「アイス食わせて」
と言った。私は動揺しながらも銀色のスプーンと器を手に取った。斜め向かいの席に座った彼へと差し出す。薄い唇が開く。
 その舌にすくったアイスを乗せる瞬間は、かすかに手がふるえた。
 うまいね、と見るからに安くてまずそうなアイスなのに柴田さんはこだわりなく言った。曖昧な笑みを返しながらも、どうして私は笑っているのだろう、とぼんやり考えた。
 何度かすくっては口に運ぶという動作を繰り返すと、柴田さんは煙草の箱を手に取って、片方の手で私の頭を撫でまわしながら
「千紘、火取って」
といくぶんか柔らかくなった口調で言った。
「火、ですか」
と私はライターを取りながら尋ねた。
「て、いうかつけて。煙草に」
と付け加えられたので、私はおそるおそる煙草の先端へとライターを近付けた。そんなことしたことないので火傷させないかと不安だった。柴田さんがすんなり煙を吐き出したので、ほっとした。
 彼は吸いかけの煙草をこちらに差し出すと、吸う、と聞いた。
 受け取って吸い込む。風邪気味だったせいか喉の奥を小さな虫が這っているような痛痒さを覚えた。それでもなにかを許された気持ちになって安堵しかけた。
 だけど乱暴に肩を抱かれて固まる。怖くてねじれたように心臓がきしむのを切なさと脳が錯覚したようにお腹の底だけが火照る。指に挟んだ煙草の灰がサンダルを履いた素足に落ちて、チリッと痛んだ。
 閉じたまま発火していくのは熱くて苦しくて、私は柴田さんを見上げて頼んだ。
「キスしてほしいです」
 突然、彼は白けたように腕をほどくと、そっぽを向いた。間違えた、と青ざめながらも口に出したら引っ込みがつかなくなってシャツの袖をつかんだ瞬間、後頭部を掴まれていた。なにが起きたのかすぐには分からなかった。
 気が付くと私は、彼のズボン越しの股の間に顔を埋めたまま身動きが取れなくなっていた。
 後頭部を押さえつけられたまま、つむじのほうでリモコンを操作して選曲する電子音が響いた。柴田さん動けないです、と声を絞り出す。すみません、ごめんなさい。もう言いません。だけど返事はない。ああ、この世にはまだこんなに人を傷つける方法があったのか、と死んでいくような気持ちで思った。これ見たことがある、とも。
 じゃれついてとびかかってきた犬や猫のしつけだ。
 鎌倉駅についたときには日が暮れていた。
 明るいのは駅周辺だけだった。ひとけがないほうの商店街はひっそりしていた。
 トランクを引きながら買い物帰りの通行人と擦れ違うと、見知らぬ土地に来たという高揚感が湧いてきた。コンビニに入り、お土産にビールを買う。ビニール袋がずっしりと二の腕に食い込んで血の流れが止まっていくのを感じながら、商店街を抜けると、どこからともなく叩き割るような踏切の音が近付いてきた。
 五差路にたたずむ旧家の脇道を曲がると、踏切の音は大きくなった。
 大きな建物に挟まれて暗い夜の中、かすかに線路が浮き上がり、赤いランプだけが強烈に光を放っていた。
 視線をそらすと、家と家の間の小道に、ガードレールが一つだけ埋め込まれていた。雑草が荒々しく生えている。
 踏み込むと、蚊が飛び上がってまとわりついてきた。マキシワンピースで足を隠してはいるものの、サンダルで足の甲は剥き出しになっている。右足を大きくあげてガードレールを乗り越えて、闇深い路地へと突き進むと、荒れ果てた空き地に出た。 
 蒸した空気は滞り、あらゆる雑草や平凡な花が伸び放題になっていた。となりの家の塀は拒絶するように高い。
 完全に切り離された空き地から見上げると、夜空に白い半月が浮かんでいた。
 幼い頃から、この途方に暮れるような庭が好きだった。何度来ても、自分がどこにいるのか分からなくなっていく。
 掴んでいたビニール袋を落としそうになり、はっとして袋ごと抱え込むと、すでにビールはぬるくなっていた。すべてがつくりもののようで、そのぬるさだけが現実感だった。
 背後の木戸がいきなり開く音がして
「なんだ、千紘。いたの」
 玄関先の明かりを背負って、表情の陰った母が立っていた。西洋画みたいな天使の絵がプリントされたTシャツを着て、アコーディオンのようにプリーツが重なったロングスカートを穿いている。服装の趣味がいいとは言えないが、あいかわらず、きつくて美しい顔をしている。
「お母さん、ひさしぶり」
と私は仕方なく言った。
「本当よね。いつぶりだったっけ。お正月?」
 母はロングスカートの裾を翻して踵を返した。
「そう、だと思う。お邪魔します」
 木戸を通り、古いけれど立派な古民家の中に入る。
 玄関には黒いサンダルだけが揃えられていた。廊下を歩いていくと、がらんとした茶の間に通された。
 縁側からは、さっき通ってきた庭が見えた。豚の蚊取り線香から一筋の煙が立ちのぼり、昔懐かしい香りが鼻に流れ込んでくる。ふいに煙草を吸う柴田さんが思い起こされて、息を殺す。
「なに? あんた、ビール買ってきたの」
と訊かれて、急に居心地の悪さを感じながらも、曖昧に笑い返した。こんな大きな家に母と二人きりなんて素面では持たない。
「だいぶ物、減ったね」
と前は壁を埋め尽くすように家具が並んでいた室内を見回した。テレビやちゃぶ台はそのままだけど、今は電気の熱で焼けた壁がところどころ剥き出しになっている。
「だいぶねー。地元の古道具屋にも来てもらって。古い座卓があったでしょう。足が猫みたいにカーブしてるやつ。あれが一番高くて、三万とかで売れたわよ」
「え、本当に高いね」
「あんた、ご飯は食べたの?」
「来るときに軽く」
「そう。まあ、じゃあ、私もいいわ。さっきおにぎり二つ食べたし。そのまま座るとお尻が痛いでしょう。隅に重なってる座布団、適当に使いなさい」
 私は頷いて、紫色の座布団を二枚ほど縁側に並べた。ちゃんと房のついた昔ながらの座布団だった。
 天井を見上げると、ガラス製のシェードからこぼれる光はたよりなかった。
「この家、壊しちゃうんだっけ」
「まあ、売れたらすぐに取り壊しじゃない? だからって私たちが管理できるものでもないし。本当はお父さん、千紘が結婚したら譲りたかったみたいだけど。ほら、作家って皆、鎌倉に住むんでしょう。一度は」
 私は苦笑して、どうかな、ととぼけて見せた。
「私、終電までには帰るから」
と母が言い出したので、私は不意を突かれて顔を上げた。
「え?」
「だってケイコの散歩があるもの。腎臓の薬だって飲ませなきゃいけないし」
と十年以上飼っているポメラニアンの名前を口にした。
「じゃあ、なんで私を呼んだの?」
と困惑して尋ねると、母は急に焦ったように、なんでって、と憮然として言った。
「説明よ。あんた、機械に疎いじゃない。だから説明しておこうと思って。あさってにはまた来るから、それまでに本の自炊、多少でも進めておいてもらいたくて」


※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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