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【第162回 直木賞 候補作】川越宗一「熱源」

2020/01/10 14:46 投稿

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序章 終わりの翌日


 トラックが荒い運転に揺れ続けている。
 幌が張られた荷台は薄暗い。ひしめく十二名の兵士の汗、饐えた体臭、遠慮ない八月の熱。それらが混交した、粘つくような蒸気が充満している。
 寒い。
 私は掌で首の汗を拭いながら、間違いなくそう感じる。正確には、凍えるような寒さに骨を摑まれているような、妙な感覚がずっと体から離れない。いつからそうなったかは覚えていない。けど戦場に出るまではなかった。
 両手を、肩にもたせ掛けた銃へ抱くように回した。この数年間、敵兵や女だからありえる面倒から私を守ってくれたのは、この銃だけだった。
 誰も何も話さない。エンジンの唸りと不整地に転がるタイヤの音だけが、ただ続く。
 無理もない。私は他人事のように思う。五月にドイツを下したばかりの私たちソヴィエト連邦の兵士は、これから新しい戦場へ駆り出される。
 新しい戦争の相手は、日本(ヤポーニヤ)という。いまやたった一国で世界と戦う極東の帝国。すでに満州とサハリン島で、戦闘が始まっている。
 外から喧騒が荷台に差し込んでくる。目的地が近付いてきたらしい。解放感に駆られたのか、兵士たちはぽつぽつと会話を始める。
「クルニコワ伍長」
 私の右隣に座る兵士が囁いてきた。大柄な上体に載せた角ばった赤ら顔は、煉瓦のように見える。
「もし自分が死にそうになったら――」
 赤ら顔はいかにも哀れっぽい声を使った。
「キスしてもらえませんかね」
 周りから、品と悪気のない笑いが薄くさざめく。
「伍長くらいの美人とキスできるんだったら、命の一つや二つ惜しくない。伍長の赤褐色の髪はきっと美しい。せっかくなんだから男みたいに刈り込まず、伸ばした方がいいです。その珍しい紺色の瞳はどんな男も一目見ただけで――」
「黙ってろ、ルィバコフ上等兵」
 感じた煩わしさを、私はそのまま言葉にした。
 赤軍には女性の兵士も少なくない。とはいえ数は男のほうが圧倒的に多い。自分の女性的な特徴をあげつらわれるのは慣れていたし、言った奴に常に圧し掛かっている死の不安を思えば、別に腹も立たない。ただ、面倒であることは否めない。
引き裂くようなブレーキ音と共にトラックが急停止した。男たちは姿勢を崩す。
「到着だ。降りろ、もたもたするな」
 助手席を降りてきた軍曹が怒鳴る。無言で硬質な表情に戻った兵士たちは背囊を背負い直して銃を担ぎ、舟型の略帽を被り直してぞろぞろと降車していった。
 地面に降りると、まとわりつく熱気を潮風が一気に拭ってくれた。夏の眩しさに思わず目を眇める。霞む視界に澄んだ藍色の海が広がり、戦場の泥や埃から解き放たれたように感じたが、もちろん錯覚だった。
 コンクリートで舗装されただだっ広い一帯は騒然としている。クレーンが戦車や各種の車両、大小の砲を次々と吊り上げ、隙間なく接舷された輸送船に下ろしている。続々と到着する兵士たちが船のタラップを上り、あるいは艀で運ばれる。
 タタール海峡(間宮海峡)を望むソヴィエツカヤ・ガヴァニ港の埠頭は重機の唸り、軍靴の足音、作業を阻む強い潮風への悪態、苛立った号令で溢れている。
「整列、気を付け」
 軍曹が吠える。指示通りに小隊は並び、踵を鳴らす。
 背筋を伸ばした私たちの前に、中隊長のソローキン大尉が長靴を鳴らして現れた。物憂げな眉目をしていて、削げた頰と青髭がどこか冷たい印象を与える。
「諸君、いよいよ戦闘が始まる」
 中隊長は細い顎を震わせて、勇ましく演説を始めた。その脇で中隊附の若い将校が、持って来た木材をイーゼルのように三脚に組み上げ、大きな地図を掲げた。口に針を引っ掛けて釣り上げた魚のような形の南北に細長い陸地の図に、私はまだ知らされていない戦場の大体の見当をつけた。
 サハリン島。ここソヴィエツカヤ・ガヴァニ港からタタール海峡を挟んで百キロほど東にある。
かつては全島がロシア帝国の領土だったが、四十年前の戦争で島の真ん中あたり、北緯五十度から南を日本が領有している。
「八月九日の開戦以来、満州へ侵攻した我が軍は順調に進撃を続けている。サハリン島でも国境地帯で優勢にある」
 つまりサハリンの我が軍は、国境で釘付けになっているらしい。
「我々はこれより船でサハリン島へ向かう。今日の夜に出航して明日の朝、国境から六十キロほど南、日本軍前線の後背にあたる塔路なる港町に奇襲的に上陸し、一帯を制圧する。重要な役目である、勇戦すべし」
 そこで中隊長はいったん言葉を切り、兵士たちを見回した。
「ひとつ伝えておく。昨日十四日、日本は降伏した。本日正午には皇帝自ら、ラジオ放送で国民にも知らせている」
 ざわめき始める兵たちの機先を制するように、中隊長は声を張り上げた。
「だが、奴らは不法にも我が軍との戦闘を停止していない。我々も容赦はしない。地球に残った最後のファシストどもが死を望むならば、我々はそれを与えるだけだ」
 戦争とは、どうやったら終わるものなのだろう。私は不思議に思った。
「これは正当な戦いだ。四十年前に奪われたサハリンの半分を、我らの手で取り返すのだ」
 勇ましい口調で、言い訳がましく中隊長は付け足す。戦争を続けたいのはソヴィエト連邦のほうかもしれない。
 以上、と中隊長は締めくくる。兵士たちがばらばらと敬礼すると、続いて下士官たちが「乗船だ、支度をしろ」と威張り始める。兵士たちは機械のように無表情に動き出した。
「クルニコワ伍長」
 いつのまにか横に立っていたソローキン中隊長の声に、私の体が勝手に動く。背筋を伸ばし、軍靴の踵を鳴らす。
「話がある、ちょっといいかね」
 中隊長は青く細い顎を撫でながら言った。中隊長が兵隊に直接話しかける機会は稀だ。けれど、何の用か訝るような人間らしい心の動きは兵隊には許されない。
「はい(ダー)」と答えて、先に歩を出した中隊長の背中についていく。「進め」という号令と、気怠げな行軍の足音が背後から聞こえた。
「きみは後から合流すればいい」
 私がわずかに感じた心配を先回りするように中隊長は言った。兵隊たちの前で空疎な言葉を並べていたさっきと違い、口振りに理知的な雰囲気があった。
 船積みの喧騒の中を、私たちは無言で歩く。潮風はなお強く、クレーンにぶら下げられた戦車が大きく揺れる。作業員たちが悪態を吐き、白地に青い横縞のシャツを着た水兵が歩兵と言い争っている。乗船を待つ兵隊たちに政治将校(ポリトルク)が戦争の意義を熱心に説いている。
「兵隊になる前はレニングラード大学の学生だったそうだな。何を学んでいたのかね」
 不意に言いながら中隊長は歩速を落として、私の右に並んだ。それから、私の表情に気付いたのか苦笑した。
「きみが魅力的であることに異論はないが、他意もない。新しい部下のことを知りたいだけだ。百七人だったか、きみが撃ち殺したファシストどもは」
一週間ほど前に上官になったばかりの男は、パンの数でも数えるように言う。私は「はい」とだけ答えた。
「百八人目に手を挙げる勇気は私にはないね。で、大学では?」
「民族学です」しかたなく答える。「卒業はしませんでしたけど」
「なぜ民族学を」
「なんとなく」
 素っ気なく答えたのは、説明がいやだったからだ。中隊長もそれ以上は聞かなかった。
 その時に相思相愛だった蒙古(タタール)系の若者について、より深く知ることができるかもしれない。今となれば何の意味もない理由だった。深く知る前に恋人は死んでしまった。
「卒業しなかったのは」
「軍に志願したからです」
 大学に入学した翌年、一九四一年の六月。ドイツ軍がソヴィエト連邦に濁流のようになだれ込んで来た。国中がとつぜん祖国愛に目覚め、無数の若者たちが軍に志願した。彼らは続々と前線に送られ、ドイツ戦車のキャタピラに残らず踏みつぶされた。その中には私の恋人もいた。あの混乱の中、戦死の報が届いたのは奇跡だったろう。
 ドイツ軍は九月にはレニングラードの近郊に到達した。男がほとんどいなくなった街で大学の女友達四人と徴兵事務所に飛び込んだのは、その時だった。
 ソヴィエト連邦の各地で、私のような女たちが前線を求めた。戦争の熱狂、突撃の号令、重砲の援護、機関銃のうなり、敵の断末魔、そして復讐の許可を望んだ。男のように髪を刈り、粗製濫造の見本のような軍服に袖を通し、雪解けのぬかるみに転がり、爆風をくぐり、銃を撃ち、手榴弾を投げ、吠え、泣き、戦った。
 ドイツ軍はまるで中世の城攻めのようにレニングラードを包囲した。増援も燃料も食糧も途絶えた街を、砲弾と冬と飢餓が襲った。かつてはロシア帝国の帝都サンクトペテルブルグだったこの街に遺された貴重な家具や図書の類は、食べ物でないものを食べるための煮炊きや一時の暖のために、あらかた燃やされた。すぐに摘発されたが、人肉を売る店も出た。私の両親の命を奪ったのは砲弾だったが、避難できるだけの体力は飢えと寒さがとっくに奪っていた。
 言った本人に直接聞いたわけではないが、ヒトラーはレニングラードを住む人ごと地上から消滅させようとしたらしい。スラブ人などソヴィエト連邦の諸民族は劣性民族で、適度に間引いて奴隷にするのがちょうどよいと思っていたそうだ。
 こうして私が生まれ育った街から、私を生み育てたものは無くなってしまった。死体と瓦礫と廃墟の中を駆け回り、私はファシストの金ぴかの階級章を撃ち抜いていった。
 寒い。そう感じながら足掛け三年の月日を持ちこたえるうち、戦況は逆転した。ドイツ軍は包囲を解いて後退し、いつのまにか私たちの砲弾がベルリンに降り注ぐようになり、戦争は終わったはずだった。
 視界が眩しく拓けた。輸送船が出港して行ったばかりの岸壁に、私と中隊長は立っていた。空は曇りがちだが、晴れ間が青白く光る。ひっきりなしに船舶が往来する細い入江の先に海が広がり、水平線が薄い靄に霞んでいる。
「アレクサンドラ・ヤーコヴレヴナ・クルニコワ伍長」
 改まった呼び方に振り向くと、ソローキン中隊長は手を後ろに組んだ将校らしい姿勢で私を見つめていた。
「はい」
 何度目かわからない返事をすると、中隊長は辺りを見回した。船を見送ったばかりの作業員や水兵たちはあらかた引き揚げていて、太いロープを始末する数人が遠くにいるだけだった。
「ベルリンで政治将校を射殺したらしいな」
「はい」
 事実だから、答えは端的になる。

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