船着き場
一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋の周りに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。また彼女は、草刈りに自分が加勢しなければならない理由も分からなければ、いや、きっとこちらから頼まなくても喜んで来るに違いないと母の美穂が独り決めに決めているらしい口調で、二週間前に電話口で言ってきたことも分からずにいた。その電話の際にも彼女はどうして納屋の草などを刈る必要があるのかと母に訊いたのだったが、そのとき返って来た答えに、まだ納得していないのだった。
そうであったから草刈りに向かうため、朝早くに一人暮らしているマンションの下に迎えに来た美穂の車の後部座席に乗り込みながら、昨日の晩に遅くまで起きていたため眠り足りない者の顔つきをして、低い、不機嫌な声で同じことを母に訊かないではおれなかったのである。「やけん、言うたやないね」と、細い路地から車か自転車でも飛び出してはこないかと前を見据えたまま、美穂は二週間前に電話で言ったのと同じことを言うのだった。「あんまし草茫々やったら、みっともないじゃんね」
「別に良いやん、草が生えてたって。誰も使わんっちゃけん」と、奈美はやはり少しも納得できずに言う。海辺に建てられた誰も見向きもしない古びた納屋──彼女のほとんど覚えていない祖父が生きていた頃には、漁に用いる網が堆く積み上げられていた、小さなバスが二台入るほどのだだっ広い建物だったが、網を積んでおく以外に物置として使っているわけでもなく、夏にでもなれば美穂の言う通り草が生い茂って入り口のシャッターに辿り着くのも難儀するため、いよいよ何かに利用するなど思いもよらぬことであったから、それをみっともないという理由で草刈りせねばならない必要がどこにあるというのか。「みっともないとか、意味分からん」
「良いやないね、兄ちゃんも手伝ってくれるって言いよるけん、すぐ終わるよ。奈美がぶうぶう言いよるあいだに姉ちゃんがあっという間にやってしまうよ」と、美穂は娘の不機嫌の原因を寝不足のためだと決めつけていて、そもそも何故納屋の草刈りをしなければならないのかという奈美の問いかけ自体には少しも興味がないという調子で──そして、その調子によってますます娘の機嫌を損ねていることにはまるで気がつかず──手伝いに呼んだ兄と姉の名を挙げた。
だが、奈美はそうした言い方に誤魔化されないとでも言うように、なおも刈ろうが刈るまいが使い途などない納屋を大事なものででもあるかのように手入れする理由がどこにあるのかと訊きつづけるのだった。母が何か面倒な説明をしなければならないときになると、必ず用いる「良いやないね」という一言、これによって物事の大半を片付けてしまえると思っているらしい一言は過去の様々な場面で、実際に一再ならずその効力を発揮し、娘の問いかけを埋もらせてしまっていた。「ねえ、草刈りするって、なんでするとよ? ちゃんと答えなさい、ほら、制限時間!」と奈美は声を張り上げて言うのだった。
娘があくまでも食い下がってくるのと、子供めいて強情を張る言い方に美穂は頬笑んだ。
それで彼女は仕方なく、奈美にとっては思惑通りに話しだした。運転をしながら美穂が言うには、彼女の実家がある島では、家屋や納屋や畑や庭といった、とにかく昔から暮らしている家にまつわる建物やその周辺は、できるかぎり修繕をして、荒れたままにしておかないようになっている。「島の村だけの話っていうか、どこでん、そういうもんやろ?」と、彼女は言ってまた話しだす。修繕には当然ながら畑や庭といった所有地に生える雑草をこまめに抜き取ることも含まれていて、それが何故かといえば、自分の敷地の中だけが荒れるならばまだしも、隣り合った他の者の家の土地にまで草が生い茂るのは迷惑なことであるからだった。もしも家屋やその周りに手を入れることのできない家があり(また事実そうした空き家が随分と多かった)、かといって田畑と一緒に家も納屋も放棄して、全く島から出ていってしまうというのでなければ、草刈り程度なら村の青年団が幾何かの謝礼で手入れをしてくれるが、頻繁に頼むのも、美穂に言わせれば「それも、悪かろうが?」ということになるのだった。そしてこの言い分の内にある含みについては別に奈美も敢えて尋ねようとは思わずにいて、「やけん、納屋なんかもさ、」と美穂は話を続ける。あまり草の生い茂っている場所だと誰かが電化製品や、どこかから出た鉄屑といったごみの類を棄てていってしまう。だからこそ折角まだ足腰の弱っていない者たちが家族に何人も居て、それが連休の一日を使って働けるのならば、どうであれ自分たちで草を刈ってしまえば良いではないか。
「ごみがあったって良いやない?」と、母の言うことをしまいまで聞いていた奈美は、もう不機嫌のためばかりではない素朴な疑問から言うのだった。「だって、綺麗にしたって、どうせ何もせんっちゃけん。ただ歩きやすい原っぱになるだけじゃん」「やけん、みっともないとよ。吉川の家の土地がごみだらけって、うちから出たごみじゃないのに、そがんなるやろ?」
一体どうしてこんな分かりきったことを訊くのか、という母の物言いに、やはり奈美は納得しないのだったが、しかし一つの単純な事実、母から明瞭な言葉が返って来ても来なくても、すでに自分が車中の人となっており、今更どうしようもできないこと、つい三十分前までは蒲団から離れがたく、よほど母に電話をして同行を拒もうかと思わせていた睡魔も消えてしまったことに彼女は思い至る。そうして、彼女はどうして依怙地になって母に草を刈る理由を訊いていたのかということ自体、早くも興味を失ってしまい、今も美穂が迎えに行くために走らせている車の後部座席で、やがて乗り込んでくる従姉妹の知香に、そういえば見せてやりたいものがあったはずだ、と携帯電話を取り出して素早く画面に指を這わせるのに没頭しだした。
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