第一章 行旅
湿気を孕(はら)んだ暴風が、古びた蔀戸(しとみど)をきしませている。どこからともなく聞こえてくる調子はずれの笛の音が、まるで激しく揺れる客館の悲鳴のようだ。
寛朝(かんちょう)は薄い衾(ふすま)の中で、寝返りを打った。その途端、水と土の臭い、それに腐臭や馬糞(ばふん)の臭気までを含んだ隙間風が顔を叩く。あまりの気持ち悪さに苦いものがぐうと喉にこみ上げ、寛朝は慌てて枕元の角盥(つのだらい)に顔を突っ込んだ。
寛朝が十一歳の春から暮らしてきた仁和寺(にんなじ)では、涼風の吹く夕刻は炎熱の季節の貴重な憩(いこ)いの時間であった。金堂の板戸を開け放ち、夕映えを眺めながら、老若の僧侶が入り交じって朗詠や管絃を楽しむのは、夏の美しい慣習と定められていた。
だが残念ながらここはあの麗(うるわ)しい仁和寺でもなければ、そもそも都ですらない。京から千里も東に離れた武蔵国(むさしのくに)。人々が坂東(ばんどう)と呼び、恐れる辺境だ。
広大な寺域に大小の伽藍(がらん)が櫛比(しっぴ)する仁和寺においては、吹く風、降る雨にすら塗香(ずこう)の匂いが混じり、極楽もかくやと思わせる楽と梵唄(ぼんばい(声明(しょうみょう)))が、朝な夕な境内に響き渡っていた。それが今や、吹きすさぶ風はおぞましい悪臭を孕み、切れ切れに聞こえる笛は耳が腐りそうなほど下手ときている。
坂東の入口たる武蔵国の国庁(こくちょう)でこれなら、目指す常陸(ひたち)国ともなればいったいどんな有様か。京から遣わされた国司(こくし)が政(まつりごと)を執(と)り、大小の家々が国府の街区にひしめいている点は諸国国府と同じであろうが、その内実はきっと驚くほど野卑(やひ)に違いない。
盥の水で口をすすぐと、吐き気は少し治まった。やはり、とかすれた声で呻(うめ)き、寛朝は濡れた唇を手の甲で拭(ぬぐ)った。
二十二歳の今年まで、都から一度も出たことのない自分が、こんな僻地(へきち)に来ようと考えたのがそもそも間違いだったのか。しかしそう考えた途端、京に残してきた多くの人々の顔が脳裏に浮かび、寛朝は両の手で膝を掴(つか)んだ。
自分の決意を聞くや、そろって顔を青ざめさせた仁和寺の衆僧(しゅうそう)。暇請(いとまご)いに赴いた際、あからさまな侮蔑を浮かべた弟たち。そして、知ったことかとばかりに無言で顔を背けた父の敦実親王(あつみしんのう)。彼らに嘲笑(あざわら)われぬためにも、自分は何としても常陸国にたどり着かねばならぬ。そしてかの地にいるという楽人(がくにん)・豊原是緒(とよはらのこれお)から、「至誠(しせい)の声」の教えを受けるのだ。
「寛朝さま、ご気分はいかがでございますか」
この時、従僕の千歳(ちとせ)が軽い足音とともに部屋に入って来て、枕上(ちんじょう)に膝をついた。それをちらりと見やり、寛朝は再び夜着にもぐり込んだ。
「いいわけがないだろう。だいたいなんだ、あの耳障りな笛は。都なら五歳の童(わらわ)でも、もっとまともな音を出すぞ」
「まあ、そう仰(おお)せられますな。武蔵権守(ごんのかみ)さまはあれでも、寛朝さまをお慰めせんがために、笛を奏でておられるようですよ。なにせ国衙(こくが)にたどり着いた時の寛朝さまときたら、お顔が土気色でいらっしゃいましたから」
寛朝が千歳を含む十数名の供に守られて京を離れたのは、往来の木々の緑が濃くなり始めた先月はじめであった。近江(おうみ)国、美濃(みの)国を経て、尾張(おわり)からは海沿いの道を辿(たど)った一月半の長旅は、世慣れぬ寛朝をすっかり疲弊させていた。
おかげでようやく坂東に入ったものの、ここ数日は飯もろくに喉を通らず、尻の痛みに耐えながら、馬上で手綱を握り締めているのがやっとの有様。しかも今日はそれに加え、道端で二体の行き倒れの死骸を目にし、驚きのあまり、胃の中身をすべて吐き戻してしまったのであった。
幸い武蔵国庁に近かったため、こうして客館に宿を求められたが、これが名にし負う武蔵野の真ん中だったらどうなっていたか。そう考えると下手な武蔵権守の笛にこれ以上文句もつけられず、寛朝は埃(ほこり)っぽい衾に無言で顎(あご)を埋(うず)めた。
少年の頃に寺に入れられ、僧形となっているが、寛朝は仁和寺の開基である寛平法皇(かんぴょうほうおう(宇多(うだ)天皇))の孫。父の敦実親王は、先帝・敦仁(あつぎみ(醍醐(だいご)天皇))の同母弟として、若き頃より政の中枢に身を置き、現在は一品式部卿(いっぽんしきぶきょう)の職にある。
このため寛朝は仁和寺に遣られた直後から常に衆僧より敬われ、いずれは寺を担う高僧となるべく遇されてきた。内典外典(ないてんげてん)の学問はもちろん、詩歌管絃(しいかかんげん)に郢曲(えいきょく(歌))、果ては蹴鞠(けまり)・囲碁といった遊戯まで老僧たちから手ほどきされる中で、寛朝がもっとも得意としたのは、経典の読誦(どくじゅ)法の一つである、梵唄であった。父に似て背が高く、ふっくらとした体躯(たいく)の持ち主である寛朝は、その体つきに似合わしいのびやかな声を有しており、複雑な音階をつけて経典を誦(じゅ)する梵唄にはうってつけだったためである。
それだけに六年前に没した寛平法皇は、しばしば御在所の東七条宮に寛朝を呼び、
「おぬしの声は雲雀(ひばり)のように清々(すがすが)しいのう。かような声で梵唄を奉られれば、御仏(みほとけ)もさぞお喜びになられよう」
と、目を細めていた。時には手ずから和琴を弾き、「寺の者たちには内緒じゃぞ」と笑って、出家の身にはいささか艶冶(えんや)にすぎる催馬楽(さいばら)を口伝えに教えてもくれた。
ただその一方で、実の父親である敦実は昔から寛朝に冷淡で、自邸で催される四季折々の宴(うたげ)にもほとんど息子を誘おうとしない。見かねた祖父が叱責すると、渋々、仁和寺に使いを寄越しはするが、宴席で寛朝が弟たちに交じって琵琶(びわ)や笛を奏してもにこりともせず、むしろ、
「仁和寺の僧は音楽が巧みと聞くが、やはり寺内しか知らぬ者は井の中の蛙(かわず)となるのじゃな」
と酷評するのであった。
当節の天皇や公卿(くぎょう)のたしなみは、一に学問、二に管絃。古来、伏羲(ふっき)は瑟(しつ(二十五絃の絃楽器))を作って天下を治め、舜(しゅん)帝は琴を弾じて世を徳化したと伝えられる如く、五音の調和から生み出される音楽に秀でることは、徳を有する者の証である。このため、宮城(きゅうじょう)の人々が懸命に楽を学ぶ中にあって、敦実は風俗歌謡である催馬楽や、漢詩・和歌を吟ずる朗詠といった郢曲はもちろん、笛・琵琶・和琴・箏(そう)などの楽器にも長(た)け、当代一の楽者の名を恣(ほしいまま)にしていた。
何十人という弟子に崇(あが)められる父に比べ、己の楽才が拙(つたな)いのは承知している。しかし敦実の寛朝への風当たりの強さは、己の腕前ばかりが理由とも考え難かった。
「まあまあ、気にするな。敦実はわが息子ではあるが、自分にも他人にも厳しすぎていかん。楽才に長け、政(まつりごと)にも通じておるのじゃから、あれでもう少し気性が柔らかければ、非の打ちどころがないのじゃがなあ」
寛平法皇は事あるごとに寛朝をそう慰めたが、そもそも長男にもかかわらず幼くして仁和寺に放り込まれた一点をもってしても、父にとって自分が疎(うと)むべき子である事実は疑いようがない。父たる敦実が寛朝を嫌えば、当然、弟たちとの縁も薄くなり、その上、実の母までもが夫に遠慮してよそよそしい顔を見せるとなれば、もはや寛朝にとって家族打ち揃っての管絃の宴は針の蓆(むしろ)も同然であった。
それゆえ、父子の間をなんとか取り持とうとし続けた祖父が亡くなると、寛朝は敦実親王が得意とする楽器を、次第に手元から遠ざけるようになった。
祖父から口伝えに教えられた催馬楽、朗詠などの郢曲も止め、代わりに朝から晩までただひたすら経を読み、梵唄を誦する。それは如何(いか)に楽に通じた父であっても、たった一つ、仏事である梵唄だけは学べぬことを、よく分かっていればこそだった。
梵語や漢語で書かれた経典を節を付けて歌う梵唄は、仏法とともに日本に伝えられた格式ある読誦法。その後、弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)や慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)によって大成され、現在では寺ごとに異なる節を伝承し続ける、歌でありながら歌にあらざる音楽である。
『法華経(ほけきょう)』によれば、人が様々な供養を行ない、歓喜の心をもって仏の徳を歌い讃(たた)えるならば、その時、かの者はすでに仏道を成しているという。つまり音楽が悟りに至る手段の一つである以上、梵唄の読誦もまた御仏の教えに近付くありがたい修行なのであった。
管絃においてすべての楽が調子(音階)と律(音)によって区分されるように、梵唄は笛の音律に基づく十二の調子を持ち、宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)の五音(ごいん)を基本とする。
円仁の梵唄論を更に体系化した天台僧・安然(あんねん)は、この世のすべては五行(ごぎょう)から生じると述べ、五音もまた五行によって生まれたものであると主張。そして肺・心・脾(ひ)・肝・腎の人間の五臓(ごぞう)より兆(きざ)した五音は、眼・耳・鼻・舌・身の五根(ごこん)を通り、牙・歯・舌・喉・唇の五処(ごしょ)から発せられると説いた。
つまり安然の理論に従えば、木・火・土・金・水の五行、青龍・朱雀(すざく)・黄龍・白虎(びゃっこ)・玄武の五獣(ごじゅう)、歳星(木星)・熒惑(けいこく(火星))・鎮星(土星)・太白(たいはく(金星))・辰星(しんせい(水星))の五星(ごせい)、喜・楽・怨・怒・哀の五情(ごじょう)など、この世において五音と関わらぬものはなに一つない。いわばすべての音は万物の象徴であり、諸物の根源に御仏が存在する以上、楽や梵唄を究めることは諸経の学習や礼拝と同義なのであった。
元々、管絃の知識があったのがよかったのだろう。可能な限りの法会(ほうえ)に参加し、時には東寺(とうじ)を始めとする他寺まで足を運んで、一曲でも多くの梵唄を身に着けんと精進するうちに、寛朝は仁和寺の誇る梵唄僧として京洛(きょうらく)に名を知られるようになった。まだ二十二歳の若さにもかかわらず、その玲瓏(れいろう)たる声で誦される梵唄は宮城でも評判で、我が家の法会にぜひと来臨を請う公卿はひきも切らない。
しかし惜しみない称讃を一身に受けながらも、寛朝は自らの心の奥底に虚(うつ)ろな穴が空いたままであることを認めずにはいられなかった。
梵唄に秀でるのは、僧侶であれば当然だ。まだ足りない。朝堂(ちょうどう)一の管絃者たる父を超えるには、この程度で満足してはならぬのだ。
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