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【第161回 直木賞 候補作】原田マハ「美しき愚かものたちのタブロー」

2019/07/12 11:34 投稿

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  • 第161回直木賞
一九五三年六月 パリ チュイルリー公園




 その展示室に一歩足を踏み入れた瞬間、田代雄一は、澄み渡った池に投げ込まれた小石の気分を味わった。
 ふつふつと気泡を吐きながら、光合成の粒をまとった緑藻の森の中を落下してゆく。なめらかな水の腕をすり抜けて、青い影が揺らめく水底にたどり着く。見上げれば、水面を撫でる柳の枝と、その向こうに薄暮の空がどこまでも広がっている。
 ―ああ、これが……。
 田代は、水のゆらめきを全身で感じようと目を閉じた。まぶたの裏に遠い日の思い出の場面が浮かぶ。
 ―あのとき、クロード・モネが見ていた風景なのか。
 田代がいる場所、そこはフランス国立オランジュリー美術館の一室である。クロード・モネの連作〈睡蓮〉が四方の壁を埋め尽くしており、そのさなかに彼は佇んでいた。
 平日の午後ということもあって、人影はほとんどなかった。出張の同行者である文部省の役人、雨宮辰之助は、展示室に入るなり、うわあ、と思わず声を放った。
「すごい。……これが、田代先生がおっしゃっていた……モネ畢生の作〈睡蓮〉ですか」
 そのまま、吸い込まれるようにして巨大な絵画を眺め渡している。その様子は、絵画を鑑賞しているというよりも、霧深い山道をとぼとぼと歩いていて、思いがけず美しい泉に行き着いた旅人のようでもあった。

 日本政府の特命交渉人としてパリに送り込まれた田代と雨宮は、東京・羽田空港をエールフランス便で出発し、サイゴン、カラチ、ベイルートの三都市を経由しつつ、計五十時間余りもかかって、前日の夜遅くにパリに到着したばかりだった。
 到着までに検討しておかなければならない課題が山のようにあったが、狭い機内で隣り合って話をするうちに、ふたりとも次第に疲れてきた。その上、ときおり乱気流に突入し、ロッキード社製コンステレーションの機体は激しく揺れた。そのたびに雨宮は「あっ」と声を発して、座席の肘かけにむんずとつかまり、何かしきりに唱えていた。
「何をぶつぶつ言っているんだ?」
 田代が訊くと、
「念仏ですよ、念仏。とっさのときは念仏を唱えろって、うちの婆さんが……ひゃっ、な、南無阿弥陀仏っ!」
 三十三歳の文部省事務官は、これが初めての海外出張、初めての飛行機である。最後にはぐったりして機内食ものどを通らない始末だった。
 あと数時間でパリ到着、というとき、いよいよ落ち着きなく煙草ばかりふかしている雨宮に向かって、田代は言ってみた。
「なあ、雨宮君。とっておきの絵画の話をしようか」
 煙草の箱から新しい一本を取り出して口にくわえた雨宮は、はあ、と気の抜けた声を出した。
「タブロー、ですか」
「そうだ。タブローの話だ」
 くわえた煙草を箱に戻して、雨宮は「お願いします」と少し元気づいた声になって答えた。
 田代はうなずいて、
「君、クロード・モネを知っているだろう?」
 そう尋ねた。
「そりゃあ、知っていますよ。今回の調査のために、さんざん先生に講義していただきましたから。フランス近代絵画史に燦然と輝く、あの大画家……ですよね」
 雨宮は生真面目に答えて、「と言っても、絵は資料の写真でしか見たことがありませんが」と付け加えた。
「その通り。で、彼の絵は、今回の『返還交渉』リストの筆頭に挙げられているだろう?」
「ええ、穴が空くほど名前だけは見ています」
 雨宮が重ねて言った。田代は、にやりと笑みを浮かべた。
「私はね、雨宮君。実は、モネの家に遊びに行ったことがあるんだよ」
「ええ!?」
 雨宮が大声を出した。狭い客室の乗客―ほとんどがフランス人かイギリス人だった―が、いっせいにこちらを向いた。雨宮はあわてて首を引っ込めた。
「い、いつですか? どうして? 誰と……」
 田代は、さも愉快そうにくっくっと笑い声を立てた。さっきまで神経質そうに眉根を寄せていた雨宮の態度ががらりと変わるとは、クロード・モネの威力は死後三十年近く経ってもまだまだ衰えていないじゃないか。
 シートに座り直して軽く足を組むと、田代は、
「そうだな、あれは……私がまだ君より少し若い時分、フィレンツェに留学する途上で、ロンドン、それからパリを訪問したときのことだ……」
 なつかしそうな口ぶりで、ノルマンディー地方ジヴェルニーという小村にあるクロード・モネの家を訪ねた思い出話を始めた。

 田代雄一は日本を代表する美術史家である。戦前には東京美術学校教授、帝国美術院附属美術研究所の所長などを歴任し、戦後は一九五〇年の文化財保護法制定時に政府からの要請で文化財保護委員となった。ちょうど還暦を過ぎてそろそろ一線を退こうとしたところを、政府につかまった態である。「お国のためにもうひと働きしてほしい」と時の首相、旧知の吉田茂から直々の申し入れを受けての決断だった。
 生まれは商人の家で、父は息子が自分の跡を継いで商売をするものとばかり思っていたようだったが、田代少年は絵入り雑誌を熱心に読むうちに絵に興味を覚え、算盤を弾くよりも絵筆をふるいたいと思うようになった。
 秀才だった彼は第一高等学校に進み、同時に画塾に入って水彩画を学びもした。本気で画家になることも考えたが、画塾には彼よりもはるかに秀でた生徒が多くいたし、絵筆一本で生きていくのはさすがに無理だろうと早々に悟って、東京帝国大学英文科に進学した。
 絵筆を捨てたものの絵画への情熱はいや増して、大学では西洋美術史を学び、大学院に進んだのち、東京美術学校などで教鞭を執りながら海外で学ぶ機会をうかがった。そしてついに一九二一年から二五年にかけて欧州留学を果たした。当時、田代が心酔していたアメリカ人美術史家バーナード・ベレンソンがフィレンツェに住んでいたので、なんとしてもベレンソンに学びたいと、文字通り飛んでいったのである。
 研究したのはイタリア・ルネサンス期の絵画であったが、自分が専門とする時代と画家だけを追いかけて「重箱の隅をつついている」ばかりでは美術史は究められない、時代や国や流派を俯瞰して比較することが大事なのだと師に教えられた。
 イタリア・ルネサンスといえば、初期にはマザッチオ、マンテーニャ、ボッティチェッリ、最盛期にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノなどの大天才を生み、遠近法や黄金分割など、絵画の技法が飛躍的に発展し、名画が名画たり得るための「ルール」が成立した決定的な時代である。田代にとってはどれほど深く掘り下げても掘り下げ足りないほどの大テーマだった。
 ところがベレンソンは、ルネサンスの画家ばかり詳しくなってもしょうがない、たとえば同時代に他の国や地域でどんな画家がいてどんな絵が創作されていたのか、比較したときに思いがけない発見があるのだと田代に説いた。
 ベレンソンはロシア生まれのユダヤ人で、少年時代に家族でアメリカへ移住し、ルネサンス芸術を研究するためにフィレンツェに移住した。彼の生い立ちと人生そのものが、彼の研究に「比較」というアイデアを植え付けたのだろう。
 ベレンソンは田代に、たとえば後期ルネサンスと被る一時期に日本では桃山という独特の文化を育んだ時代があったが、この両者を比較することによって思わぬ発見があるかもしれないのだと話してくれた。ルネサンスには華々しい芸術家が揃い踏みしているから研究するのはたやすかろうと君が思っているなら、それは間違いだ。私に言わせれば、ルネサンス芸術ほどの難物はない。古今東西、研究者はゴマンと存在し、読むべき文献は膨大にある。新しい視座を持って取り組まなければ意味がない。そのためにも、まず自国の芸術の歴史を学び、それを視野に入れて研究することを勧める―との師の教えは、どれほど熱く田代青年の胸を打ったことだろう。
 もとより、田代は日本美術史にも造詣が深く、日本の美術界の人々との交流も得ていた。また、学生時代には同人誌「白樺」で紹介されたフランスの近代美術の芸術家たちにひとかたならぬ興味を抱いていた。彼のまなざしはイタリア・ルネサンスばかりにではなく、さまざまな国と時代に向けられていた。だからこそ、ベレンソンの教えが快く響いたのである。
 ことさらに、フランス近代美術―印象派とその後の一時代を築いた画家たち、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホの絵の写真を雑誌の中にみつけると、心の海にさざ波が起こった。その当時、モネを除いてはすでに物故作家ではあったが、どの画家も「つい」と付け加えたくなるほど最近までこの世界に存在していたのである。その事実に田代の胸は少なからずざわついた。
 自分が生まれた年、一八九〇年にゴッホがピストル自殺をした―しかも彼の作品は生前にはたった一枚しか売れなかった―と知ったときなどは、どうしてもう少し長く生きていてくれなかったのかと、友を喪くしたかのように口惜しく思ったものだ。もしもいま、ゴッホが生きていたら―どうかして自分が助けてやったのに、と。
 留学の成果として、田代は初期ルネサンス画に関する英語論文を発表し、のちに書籍化されて海外でも広く読まれ、国際的に高く評価された。結局、ベレンソンとの出会いが、いま現在の自分の立ち位置を決定づけるものとなったのは間違いない。
 そして、もうひとつ、彼の人生を決定づける出会いがこの時期にもたらされた。―いや、「決定づけた」というよりも、「豊かにした」というべきだろうか。
 そう、あの人物との出会いがなかったら―もちろん、それでも自分の人生はそれなりのものになっただろう、と田代は思う。が、しかし―あの人と出会わなかったら、自分の人生はいまよりずっと味気ないものになったことだろう。
 そんなふうに思えば、自然とあたたかい微笑が込み上げてくる。
 ―その人の名は、松方幸次郎。
 芸術の泉の縁に佇んで、わしゃ絵なんぞわからん、と文句を言いながら、小石を投げ入れていた。澄み渡った水面に広がる波紋をじっと眺めるうちに、今度は手をひたし、清らかな水をすくい上げてのどを潤した。ついにはざぶりと飛び込んだ。美しい泉は、最後には彼のものになった。
 こよなく絵画を愛した稀代のコレクター「MATSUKATA」の名は、いっとき、パリじゅうに―いや、ヨーロッパ中に知れ渡った。
 彼が絵画を買い集めた理由はただひとつ。欧米に負けない美術館を日本に創り、そこにほんものの名画を展示して、日本の画家たち、ひいては青少年の教育に役立てたいと願ったからだ。
 絵なんぞわからん―と彼は言っていた。
 ―美術館を創るんなら、ほんものでなくちゃ意味がない。しかし、わしは絵がわからんのだ。だから君に、ほんものがどれなのか、嗅ぎつけてほしいんだ。
 いいかい、田代君。そのためになら、わしはいくらでも金を注ぎ込むよ。なあに、惜しいことなんぞこれっぽっちもない、それがほんものなら。つまらんものを買うのなら、たとえ一銭だとて惜しいがね。
 ロンドンで、パリで、私財を投じて買い集めた西洋美術コレクションの作品総数は二千点とも三千点とも。戦争前後に散逸、あるいは焼失し、その全貌は定かではない。
 日本へ送られずにフランス国内に保管されていた数百点の作品群は、戦中も奇跡的に守られたが、サンフランシスコ講和条約に基づいて敵国・日本の在外財産とみなされ、フランス政府に没収されてしまった。
 それを取り戻すことはできないのか―。
そのためにこそ、私はこうしてパリへ舞い戻ったのです。
 松方さん。―あなたのために。

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