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【第158回 直木賞 候補作】『火定』澤田瞳子

2018/01/10 17:30 投稿

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  • 第158回直木賞
第一章 疫 神

 春風にしては冷たすぎる旋風が、朱雀大路に砂塵を巻き上げている。
 どこぞの門口から転がってきたのだろう。がらがらとやかましい音を立てて近づいてくる桶をまたぎ越し、蜂田名代は大路の果てにそびえる朱雀門を仰いだ。
 鴉か、それとも鳶か。巨門の甍に羽を休める影は豆粒ほどに小さく、二十一歳の若盛りの眼を以てしても、その正体は判然としない。
 飛鳥からここ寧楽に都が移されたのは、二十七年前。それだけに明るい陽射しの中で眺めれば、壮大な柱の丹の色や釉瓦の輝きは、いささかくすんで映る。
 どこかに獲物でも見つけたのか、大棟に止まっていた鳥が、不意に空へと舞い上がる。それを見るともなく眼で追っていると、先を歩いていた同輩の高志史広道が振り返り、
「おい、何をやっている。ぐずぐずしていると置いて行くぞ」
 と、形のいい眉をひそめた。
「は、はい。申し訳ありません」
 頭を下げた名代に、広道はわざとらしく舌打ちした。黙っていれば美男子で通る端正な顔立ちが、その途端にふてぶてしい気配を帯びた。
「おめえ、なにか心得違いをしてねえか。今日、新羅からの到来物払い下げに同行させてやるのは、まだ施薬院の仕事に不慣れなおめえのためなんだぞ」
「それはありがたく思っています」
「だったらぐずぐずしねえで、さっさと歩け。施薬院の官人は愚図だ、とんまだと噂が立ったら、すべておめえのせいだ」
 言うなり踵を返す広道は、まだ三十手前にもかかわらず、施薬院の庶務を一手に担う有能な男。ただその一方で、施薬院に配属されて日の浅い名代を顎でこき使い、時には患者の前で悪し様に罵りもする、厄介な相役であった。
(畜生。俺だって、好きでこんなところで働いているわけじゃねえよ)
 二人が勤務する施薬院は、京内の病人の収容・治療を行なう施設。今から七年前の天平二年(七三〇)四月、孤児や飢人を救済する悲田院と共に、現皇后・藤原光明子によって設立された令外官である。
 巷間では両院の設立は光明子の悲願と噂されており、なるほど二院の経営が彼女とその生家・藤原氏からの寄付で賄われているのは事実。だが実のところ、光明皇后及び藤原氏の者が両院を訪れたことは、これまで一度もない。
 両院創建の前年、光明子の兄である武智麻呂・房前・宇合・麻呂――いわゆる藤原四兄弟は、当今である首(聖武)天皇との血縁を恃みに、朝堂の主要な職務を席巻。左大臣であった長屋王を自害に追い込み、国政の執権者の座を占めた。
 それだけに当時、藤原氏を謗る声は世上に高く、四兄弟は妹である光明子を菩薩の如き慈悲深き存在に祭り上げることで、世の非難を少しでもかわそうとした。要は施薬院・悲田院はともに、藤原氏の積善を世に喧伝するためだけに作られた施設なのである。
 設立目的がかように不純では、どんな崇高な務めを荷う機関も、うまく運用されるはずがない。事務を担当する官人は、全員が光明子の家政機関・皇后宮職からの出向者だが、大半の者は任官後まもなく、あれこれ口実を言い立てて院から姿を消す。
 宮城内の医療機関である典薬寮から派遣される医師もそれは同様で、まともな腕を持つ医博士は貴顕の診察に忙しく、稀に施薬院に顔を見せるのは下っ端の医生(見習い医師)ばかり。未熟なくせに鼻っ柱の強い彼らが役に立つ道理がなく、結局、施薬院でもっとも重宝されるのは、銭にも出世にも興味を持たず、ただ病人を救うことだけに心血を注ぐ里中医(町医師)であった。
 名代とてかなうことであれば、さっさと施薬院から逃げ出したい。だが広道を始めとする施薬院の者は、毎日、何かしらの用を言いつけ、名代をどうにか院に留めんとする。今日、こうして宮城内で行なわれる渡来品の払い下げに同行させられたのも、そんな引き止め策の一つに違いなかった。
(ふん、そう思うままになってたまるか)
 諸国では近年、旱魃と水害が頻発している。特に一昨年の冬には西国で大飢饉が発生したこともあり、京に流れ込む流民の数は日毎に増加する一方だった。
 飢民が増えれば当然、病者も増加する理屈で、施薬院の長室(病棟)はここのところ常に満員続き。やせ衰えた病人のために粥を炊き、薬を煎じるばかりの日々に、名代はほとほと嫌気が差していた。
 同じ使部(雑役に当たる下級役人)でも宮城内の二官八省に勤めていれば、いずれは出世の糸口を掴めよう。さりながら貧民ばかりが相手の施薬院では、働けば働くほど仕事が増えるくせに、その頑張りに目を止める上司もいない。順調に官位を上げ、いずれはいっぱしの官僚となる夢も、施薬院に留まっていては到底果たせまい。
 こんなことなら半年前、施薬院に配属されたときに、どうにか口実を拵えて、逃げ出すんだった。胸中でそう溜め息をつく名代を尻目に、広道は朱雀大路と二条大路の辻を斜めに突っ切り、朱雀門へと歩み寄った。厳めしい甲冑に身を包んだ衛士に、広道と名代の身分を示す皇后宮職発行の書きつけを示し、石造りの階を登り始めた。
「いいか。ここじゃ俺たちの態度一つで、皆が施薬院を見る目が変わるんだ。きょろきょろせず、堂々と胸を張れよ」
 だが広道の後を追って階を上がった名代の耳には、そんな忠告はまったく届いていなかった。
 門の内側は小さな広場になっており、その奧には築地塀で囲まれた官衙が建ち並んでいる。幾重にも連なった甍の向こうにそびえる巨大な建物は、帝のおわす内裏だろう。
 色とりどりの官服をまとった官人が、そこここをあわただしげに行き交う様は、まるで様々な花が一面に降り散っているかのよう。そのにぎにぎしさ、華やかさに、初めて宮城の内部に踏み入った名代は息を呑んだ。
 名代が幼い頃にこの世を去った父は、かつては雅楽寮の下官として朝堂に勤務していたという。そして、一昨年、風病(風邪)が元で亡くなった母親は、死の間際まで、名代が亡父のような官人になることを願い続けていた。
 そうだ。母の願いをかなえるためにも、自分は一日も早く施薬院を逃げ出さねば。あんな病人ばかりの場所に閉じ込められ、働き盛りの身を腐らせるのはご免だ。
 きらびやかな宮城を前に、改めて名代がそう誓ったとき、「おおい、広道どの。名代どのォ」という甲高い声が、辺りに響き渡った。
 見れば丸々と肥えた四十がらみの尼が、行き交う官人を押しのけて近づいてくる。施薬院・悲田院の財政を一手に預かる、慧相尼であった。
「ちっとも来ないから、心配したわ。さあ、行きましょう、行きましょう。今日の物代(代金)は、皇后宮職からしっかりいただいてきたわよ」
 慧相尼は本来は、施薬院と同じ敷地内に建つ悲田院の尼。算術の巧みさを買われ、両院の算師(会計係)としても重宝されていた。
「それにしても、仕事ついでに、新羅国からもたらされた文物を見られるなんてね。こんな眼福、そうそうあるものじゃないわ」
 慧相尼はそう言って、きゃははと笑った。年に似合わぬ、若やいだ声であった。
「それで、今回はいったいどんな品が売りに出されるのかしら」
 豊満な身体を揺すって振り返る慧相尼に、名代は懐に入れていた帳面を慌てて差し出した。
「本日、払い下げられる品でもっとも高価なのは、紫檀に螺鈿を施した琵琶だそうです。その他、白銅の香炉に鋺、匙に錫杖。蘇芳や紫根などの染料類。沈香、麝香といった香料もあるとか」
 寧楽には唐を始めとする諸外国からの使者が頻繁にやってくるが、彼らは外交を主目的とするかたわら、国同士の交易使の役割も兼ねていた。
 日本側から派遣される使節もそれは同様で、帰国時には必ず数々の珍品貴品を大量に買い付けてくる。本日これから、購入希望者を相手に払い下げられるのも、先々月、新羅から帰国した使節が持ち帰った品々であった。
「けど、よく買い物をしてくる暇があったわよねえ。今回の新羅使はあちらでひどく冷淡に扱われ、国王への目通りも許されなかったんでしょう」
 慧相尼が声を潜めるのに、「ああ、そうらしいな」と広道がうなずいた。
「けどそれは元はと言えば、前回新羅から来た使いを日本が冷遇したのが原因だろう。国同士の体面があるにしても、まったく馬鹿馬鹿しい話だ」
 新羅は百年以上前から、日本の朝貢国。ただ近年、唐国と親しく交わり、国力を強めている新羅は、日本との関係の見直しを進めており、両国の関係は必ずしも友好的ではない。
 加えて一昨年、新羅は日本に断りなく国名を変更。新羅使からそれを知らされた朝堂は激怒し、中納言・多治比県守に使節を糾問させた上、一行をそのまま国外追放したのである。
「あの時は、外国の使節に堂々と渡り合われた多治比県守さまは豪胆なお方だと評判になったわね」
「ちぇっ。何が豪胆だよ。おかげでそれ以来、都に入ってくる新羅商人は、がくっと減っちまった。薬の値段だって、この二年で以前の倍に跳ね上がってるぜ」
 言われてみれば確かに、今回の遣新羅使はよほど急いで買い付けをしてきたのかもしれない。同じ染料でもそれぞれの分量はまちまちだし、錫杖などはなぜかまとめて十本もある。
「それで名代どのは、何を幾らで買いたいと願書(購入申請書)を出したのよ」
 広道の雑言に呆れた様子で、慧相尼は話題を転じた。
「はい。訶梨勒と甘草をそれぞれ三百文で、また桂心を五百文で買いたいと申請しました。念のためそれぐらいの高値をつけておけと、綱手どのが仰られたもので」
「締めて一貫と百文か。うちにしては随分思い切った値ねえ」
 甘草は唐国の北部、また訶梨勒と桂心はともに林邑(ベトナム)・崑崙(東南アジア)といった南国に生える植物。いずれも急病人の多い施薬院には、欠かせぬ生薬であった。
 宮城には朝堂二千人の官吏の診察に当たる典薬寮と、天皇・皇族の診療を職務とする内薬司の二つの医療機関があるが、これらには諸国より奉られた上質の生薬が朝廷から定期的に支給される。
 つまり名代たちが今日、新羅からもたらされた生薬を買いに来たのは、施薬院が典薬寮・内薬司とは異なる宮城外の令外官なればこそ。そう思うと、そんな官司でこき使われている我が身が何とも情けなく、名代は慧相尼が返して寄越した帳面を強く握りしめた。
「さて、刻限だ。行くぞ」
 広道にうながされ、びっしりと建ち並んだ官衙の間を抜け、幾度か角を曲がる。
 やがてたどりついた殿舎は、広縁に調度や織物、香木と思しき包みが並べられ、四、五十人の男たちがそれらを熱の篭った眼差しで品定めしていた。
 男たちの大半は、京内の公卿の家従。しかし中には異国の物品を見てやろうという野次馬だろう、勤めを抜け出してきたと思しき低位の官吏や、どうやってここにもぐり込んだのかと思うような小汚い身形の男まで混じっていた。
 香木が放つ芳香か、それとも織物にき染められた香料か。風が庭先を吹き渡る都度、眩暈がするほど濃厚な薫りが四囲に満ちる。
 すでに提出した願書の値を訂正する者、大急ぎで願書を書き殴る者が殿舎の端に押し寄せ、小さな雑踏を作っていた。
「見ろよ、あの琵琶のきらびやかなこと。あれは螺鈿ってやつだろうな。花の飾りの鮮やかなことときたら、まるで本物みたいじゃないか」
「隣の錦だって、この国じゃ、ついぞお目にかかれねえ紋様だなあ。あれをほんの一尺買うのに、わしの禄のいったい何年分が要るのやら」
 口々に誉めそやす人々の眼は、いずれもきらびやかな調度品に釘づけとなっている。広縁の片隅に並べられた、茶色く干からびた木の実に注意を払う者なぞ誰もいない。
 事前に諸司に配布された目録によれば、今回、遣新羅使が持ち帰った生薬は全部で十種。とりあえず施薬院で頻繁に用いる三種類にのみ願書を出したが、もし他に買い手がいなければ、残る七種の生薬も購入したい。
 渡来品は、もっとも高い値を願書に記した相手に、購入許可が与えられる。そして現時点で購入希望者がいる品物は、傍らにそれぞれの付け値を記した札が置かれる定めであった。
 広縁に近づいた広道の足が、その場に縫い付けられたように止まった。その眼差しの先を追えば、丁子、桂心、甘草、大黄……種別に山積みにされたすべての生薬の傍らには、すでに色鮮やかな朱色の札が置かれている。
 どうやら自分たち以外にも、生薬を買いたい人物がいるらしい。もしその者がつけた値が施薬院より高ければ、ここまでやってきたのも無駄足だ。名代たちはちらりと眼を見合わせた。
「お三方は生薬を買いに来られたのですか」
 不意に間延びした声がした。顔を上げれば、広縁で見張りをしていた若い官人が、にこにことこちらを見下ろしている。
「ええ、はい」
 とうなずき、広道は素早く四囲を見廻した。どこかにいる敵を探し出そうとするような、険しい目付きであった。
「それは嬉しゅうございます。この生薬はすべて、私が新羅で選んだもの。量は決して多くありませんが、質だけは保証いたします」
 新羅から帰国した随員の一人だろう。ただ、のんびりした口調の割に、年は名代より若い。
 その年齢で遣新羅使に加わったとは、よほど出自がいいのか、はたまた特殊な才でも有しているのか。我知らず探る眼になった名代には気付かぬ様子で、男は突然、ふわあと大あくびをした。
「――失礼いたしました。新羅から戻って以来、寝ても寝ても疲れが取れず困っております」
 目尻に滲んだ涙を指先で拭い、ただ、と男は続けた。
「お三方が幾らの値をつけられたのかは存じませんが、ひょっとしたらこれらを買っていただくのは難しいかもしれません。先ほどある御仁が、生薬十種をまとめて求めようと仰せられ、驚くほどの高値をつけられたそうですから」
「高値だと。いったいそれは幾らなんだ」
 広道が、顔を強張らせて詰め寄る。驚いた様子で身を引き、男は「さすがに値までは存じません」と声を低めた。
「ただ、甘草や桂心など一部の生薬にのみ朱札がついているのを眺められ、すべてひっくるめて買おうと仰せられたとか」
「十種まとめてだと」
「はい。願書の整理をなさった大蔵省の官人のご様子からして、並の二倍、いえ三倍もの値をつけられたのではないかと。ここまでお運びいただいたのに申し訳ありませんが、今回は生薬のご入手は諦められたほうが――」
「なによ、それ。あたしたちは皇后さま肝煎りの施薬院から、わざわざ買い付けに来たのよ」
 慧相尼の苛立った声に、男は両の眉を困ったように下げた。
「ああ、施薬院のお方でしたか。ただここでは、高い値をつけた者に権利が与えられる定め。どうしても生薬が欲しいと仰るならば、当事者同士で話し合っていただくしかありません」
 そうこう言っている間に購入者の布告が始まったらしく、野次馬がざわめきながら、広縁の端に寄り集まった。官人が一人、人の輪の中央に無表情に進み出て、重々しい声で帳面を読み上げ始めた。
「――新羅に遣わせし使いの持ち帰りし、白銅五重鋺二帖。正六位下・大久駒人に購入を許す。物代、銭一貫なり」
「ありがとうございます」
 人垣の中から白髪の老人が進み出て、小脇に抱えていた物代を恭しく差し出す。彼が鋺を受け取り、用意の布にくるむ間にも、役人は次々と帳面を読み上げ、あっという間に広縁に残るのは、生薬類と何に用いるのかよく分からぬ皮や布ばかりとなった。
 華麗な調度類が売られてゆくにつれて、見物の者たちは潮が引くように去り、いつしか庭先の野次馬は半分ほどに減っていた。
 見上げれば、空を覆う雲は先ほどより厚みを増し、心なしか吹く風まで強くなっている。今にも雨が降り出しそうな空模様に、気が急いたのだろう。ごほん、と一つ大きな咳払いをして、官人は少し嗄れた声を張り上げた。
「次、新羅に遣わせし使いの持ち帰りし、生薬十種。正三位参議中務卿兼中衛大将・藤原房前卿が家令、猪名部諸男に購入を許す。物代、銭六貫文なり」
「六貫文だと」
 予想外の高値に、そこここから驚愕の声があがった。
 銭一貫文は、米一石の値。つまり六貫文といえば、名代や広道の一年の禄とほぼ同じであった。
 あまりの金額に不審を抱いたのか、数人の役人が立ち上がり、読み上げ係を取り囲む。帳面を覗き込み、ああでもないこうでもないと口々にしゃべり始めた。
「願書はちゃんと改めたのか。六百文と書かれていたのを、見間違えたのではなかろうな」
「いいえ、そんなはずはありません。――ああ、ありました。これでございます」
 この時、庭の隅に座り込んでいた男が、不意に立ち上がった。足元に置いていた麻袋を引っ提げ、風に煽られたような歩き方でふらふらと縁先に近づいた。
 年は、三十を五つ六つ過ぎていよう。やせた頬にまばらにを生やし、洗いざらした麻の袍を身に着けている。丈が合っていないのか、上袴の裾からにょっきり突き出した細い脛が、ただでさえ貧相なその印象をますますみすぼらしくしていた。
「なんじゃ、おぬしは」
 およそ宮城には似つかわしくない男の風体に、役人たちが不審の声を上げる。
 しかし彼は無言のまま一同を見廻すや、片手に提げていた袋を広縁に投げ出すように置いた。
 どすんという鈍い音が、不自然なほど大きく、庭にこだました。
「――六貫文、お改めくだされ」
 腹の底に響く低い声に、官吏が顔を見合わせる。真っ先に口を開いたのは、先ほど名代たちに声をかけてきた年若の官人であった。
「そなたさまが生薬の買い主でございますか」
「さよう。藤原房前さまの家令、猪名部諸男でございます。銭六貫文、どうぞお改めを」
「――あれで中務卿さまのお屋敷の者ですって?」
 慧相尼が呆れ返った口調で呟いた。
 無理もない。藤原四兄弟の次男である中務卿房前は、首天皇の信頼厚い公卿。その抜け目なさは氏一とも評判で、立身出世を願うなら、帝より房前に気に入られたほうがよいとも、朝堂では噂されていた。
 浮浪人にしか見えぬこの男が、まさかその房前の家令とは。だが信じられぬといった面持ちの周囲には目もくれず、諸男と名乗った男は銭の入った麻袋をずいと押しやった。
 小走りに近づいてきた大蔵省の官人がその口紐を解き、中の銭を素早く数える。
「銭六貫文、確かにございます」
 驚きのにじんだ声に鷹揚にうなずくや、諸男は「では、これらの生薬はこのままいただいてまいります」と、懐から別の袋を取り出した。広縁に山積みにされた生薬を鷲掴みにし、片っ端からその中に放り込み始めた。
 あまりに乱暴なその手付きに、広道が我に返ったように半歩、前に出た。「お――お待ちくださいッ」と叫びながら、諸男の傍らに走り寄った。
「その生薬を少し、お譲りいただけないでしょうか。もちろん、無料でとは申しません。そなたさまほどの銭は出せませぬが、それなりの物代はお支払いします」
 言い募る広道を、諸男は感情のない眼で眺めた。だがすぐにその肩を押しやり、再び生薬を袋に詰め始めた。
 広縁の役人は、すでに次の購入者の名を読み上げ始めている。あの若い官人がこちらを気遣わしげにうかがうのが、名代の視界の隅にひっかかった。
「お願いいたします。我々にはどうしても、これらの生薬が要るのです」
「――見ての通り、これはわたしが今、正式な手続きを踏んで買ったものだ。どこの誰かは知らんが、それをいきなり譲れとは無礼ではないか」
 慇懃なその声は、砂を撒いたようにざらついている。広道の顔にさっと血の色が差した。
「それは百も承知です。ですが、その生薬を何としても持ち帰らねばならぬ理由が、こちらにはあるのです」
 諸男は薄い唇を引き結び、生薬を次々と袋に放り込んだ。生薬同士が混じり合うことも気にかけぬような、乱暴な挙措であった。
「わたくしは皇后宮職付施薬院の使部、高志史広道。本日は施薬院で用いる生薬を買い求めるべく、罷り越したのです」
「施薬院だと」
 呟きとともに、諸男の手がぴたりと止まった。
 それに手ごたえを感じたのか、広道は「はい、さようでございます」とますます声を張り上げた。
「ご存じの通り、施薬院は藤原家とゆかりの深い施設。あなたさまの御主でいらっしゃる房前さまよりも、毎年、何十斗という米をご寄進いただいております」
 それは別に、房前が貧民救済に心を配る慈善家だからではない。数えきれぬほど広大な田畑を持つ彼らからすれば、両院の経営に必要な銭なぞ、指先から滴るほんの一たらしの水の如きもの。それで藤氏の慈悲深さを人々に印象づけられれば安いものだと、房前は考えているのに違いない。
 とはいえそんな事情まで、この男に語る必要はない。施薬院に便宜を図ることは、お前の主の意にも沿うと匂わせる広道の口調は、少々押しつけがましかった。
「すべての生薬をとは申しません。ただ甘草と桂心、訶梨勒をいささか頂戴できれば――」
「ふん。ならばなおのこと、お断りだ」
 あまりにきっぱりした口調に、名代は一瞬、わが耳を疑った。
 だが諸男はもう一度「断る」と繰り返し、生薬を納め終えた袋の口紐を、両手でぐいと締め上げた。
「これは、わたしが買った生薬だ。房前さまが施薬院にどれほどの援助をしておられようとも、関わりはない」
 取りつく島もない言いように、さすがの広道が言葉を失っている。その面上を一瞥し、諸男は「それに」と続けた。
「施薬院とは宮城から派遣された官医どもが、病者を診る施設だろう。そんな所のためになることは、わたしは命を取られようともしたくない」
「なんだと、てめえ――」
 広道は突然、それまでの丁寧な口調をかなぐり捨てた。そのこめかみに、見る見る青筋が浮かぶ。名代は慌てて彼の腕を後ろから掴んだが、興奮した広道はそれにすら気付いておらぬ様子であった。
「その言い様はなんだ。てめえ、うちのお医師がこれまでどれだけの命を救ってきたかを知っていて、そんなことを抜かすのか」
 広道の怒声に、周囲の眼が一斉にこちらに集まる。
 なんとか広道を諌めようと、名代は力一杯その腕を引いた。
「広道さま、落ち着いてください」
「馬鹿野郎、これが落ち着いていられるか」
 しがみつく名代を突き飛ばし、いいか、と広道は怒りにわななく指を諸男に突きつけた。
「施薬院の患者どもはみな、銭も、住む家もねえ奴らばっかりだ。真夏にがたがたと震えるほどの瘧に罹っても、これまでひたすら我慢するしかなかったような奴らを、うちのお医師は嫌な顔一つせずに診てくださるんだ」
 現在、施薬院の診察を一手に引き受けているのは、綱手という六十手前の里中医である。
 若い頃に大病に罹ったとかで、顔はおろか全身に木の皮にも似た瘢痕が刻まれている彼は、施薬院に住み込み、病人の容体が急変すれば、日夜を問わず長室に飛んでゆく。私用で市に出かけた折、高熱を発した病人を見つけ、自ら背負って施薬院へ連れ帰ることもあった。
 その様は三面六臂の阿修羅もかくやと思われ、病人やその親族の中には、彼こそ生身の菩薩と涙ながらに伏し拝む者も珍しくない。
 尻餅をついた名代を顧みもせず、広道は諸男にぐいと詰め寄った。形のいい眉が釣り上がり、その端が激しく波打っていた。
「その生薬を、てめえが何に使うのかは知らねえ。けどうちの綱手さまは、人の命を必死にお助け下さる、帝と同じぐらいありがたいお医師だ。そこのところをよく覚えておきやがれ」
 その途端、諸男の唇がわずかに歪んだ。嘲るような笑いが薄っすら浮かんだかと思うと、「ありがたいお方だと」という冷ややかな声が漏れた。
「馬鹿を言うな。医師とて要は、ただの人間。常はどんな皮をかぶっていようと、必要とあれば盗みもし、人も殺す輩だ。医者というだけでそれほど他人を信じられるとは、施薬院の衆は実におめでたい奴らだな」
「なんだと――」
 広道の両の拳に、ぐっと力が籠る。
 とはいえどれだけ激昂していても、ここで藤原房前の家従を殴りつければどうなるかと考えるだけの冷静さは、残されていたらしい。広道は悔しげに全身をわななかせ、諸男を睨みつけた。
 そんな広道に鼻を鳴らし、諸男は生薬の入った袋を担ぎ上げた。
 広縁の官人やぐるりの野次馬たちに一礼し、くるりと踵を返す。悠然とした足取りで、そのまま庭の向こうへと諸男が歩み去ろうとした時である。
 どすん、と鈍い音が起きた。驚いて顧みれば、顔を真っ赤にした三十歳前後の官人が、広縁の端に仰向けに倒れている。


※1月16日(火)18時~生放送

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