暗幕のゲルニカ
芸術は、飾りではない。敵に立ち向かうための武器なのだ。
――パブロ・ピカソ
目の前に、モノクロームの巨大な画面が、凍てついた海のように広がっている。
泣き叫ぶ女、死んだ子供、いななく馬、振り向く牡牛、力尽きて倒れる兵士。
それは、禍々しい力に満ちた、絶望の画面。
瑤子は、ひと目見ただけで、その絵の前から動けなくなった。真っ暗闇の中に、ひとり、取り残された気がして、急に怖くなった。
目をつぶりたいけれど、つぶってはいけない。見てはいけないものだけれど、見なくてはいけない――。
瑤子たち一家は、休日ごとに、マンハッタンにある美術館を訪ねて歩いていた。銀行員だった父の赴任に伴って、家族でニューヨークに移り住んだ年のことである。
父はあまり美術には興味がないようだったが、母が行きたいというのに付き合ってくれていた。母は印象派の作品が特別お気に入りで、ミュージアムショップでモネやルノワールの絵はがきをたくさん買っては日本の友人たちに送っていた。そして十歳の瑤子は、アーティストの名前はわからないが、かわいい女の子やきれいな花が描いてある絵が好きだった。
その日、家族揃って、初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)を訪れたのだった。
おもしろい絵があるわよ、とMoMAに到着してすぐ、母が瑤子に語りかけた。
目が顔のあっちこっちにくっついててね。顔のかたちも四角だったり、三角だったり。ふくわらいのお面みたいなの。きっと、気に入るわよ。
母が言っていたのは、パブロ・ピカソの絵のことだった。そして、母の予言の通り、瑤子はひと目でピカソの作品に引きつけられてしまった。
肖像画に描かれているのは、人なのか生き物なのかもわからない。ロボットか何かのようでもある。けれどじっと目を凝らすと、それは踊り出すような、歌い出すような、瑤子に向かって話しかけてくるような気がした。
瑤子は、いつしか夢中になった。両親から離れて、どんどんひとりで見ていった。ピカソばかりでなく、ゴーギャンや、ゴッホや、ルソーがあった。だんだん楽しくなってきて、スキップするような足取りで、大きな展示室へ入っていった、そのとき。
軽やかな足取りが、そこでぴたりと止まった。
目の前に、モノクロームの巨大な画面が広がっていた。
どのくらいの時間、その絵の前に立ち止まっていたのかわからない。が、瑤子は、磁石に引き寄せられた砂鉄のように、そこから動けなくなってしまっていた。
瑤子、瑤子。
背後で、母の呼ぶ声がした。瑤子は、振り向かなかった。母が隣へやってきて、瑤子の肩に手を置いた。
ここにいたのね。さあ、もう行きましょう。お父さんが出口で待ってるから。
瑤子は、母の手を握って、怖々と訊いた。
お母さん、何? この絵。
母は、巨大な絵を見上げて、〈ゲルニカ〉という題名の絵よ、と言った。
昔ね、戦争があったの。たくさんの人が亡くなったのよ。日本人も、アメリカ人も、スペイン人も……。これは、戦争に苦しむ人たちを描いた絵だということよ。もう戦争なんかしちゃいけないって、ピカソは絵で訴えたの。
絵に釘付けになっている娘の様子を見て、母は笑った。
あなたには、まだわからないかもしれないわね。もっと大きくなったら、また見にきましょう。――いまはまだ、いいのよ。
母の手をしっかりと握ったままで、瑤子はその絵の前を立ち去った。
振り向いちゃだめだ、振り向いちゃだめだ、と瑤子は心の中で繰り返した。その絵の放つ強烈な磁力に、必死に抗った。けれど、室から一歩出た瞬間に、瑤子は思わず振り返った。
画面の中でこちらを振り向いている牡牛と、目が合った。牡牛の瞳は、戦慄していた。それは、世界が崩れ去る瞬間を見てしまった、創造主の目のようだった。
序章 空爆
一九三七年四月二十九日 パリ
むき出しの肩の上にどさりと何かが落ちてきて、ドラは目が覚めた。
セーヌ河の上空を優雅に舞い飛ぶユリカモメが、突然気絶して、ベッドの中めがけて墜落してきたような感覚に、はっと目を開いた。実際には、寝返りを打って背中にぴったり体を寄せている男の腕が落ちてきたのだった。
首にまとわりつく腕、その手のひらに、ぼんやりした焦点を合わせる。かさかさで、分厚い、古い聖書のような手。ところどころに白や黒の絵の具がこびりついている、汚れた手。――創造主の手。
その腕の中から抜け出して、床に投げ捨てられたガウンを拾い上げ、シュミーズの上に羽織る。テーブルの上に積み上げられた雑誌と本と、ありとあらゆるがらくた――ガラス片、紙の束、チョコレートの包み紙、壊れたコーヒーミル、マッチ箱、底の抜けた古い靴――の中から、タバコの箱と、トランペットの形をした真鍮のシガレット・ホルダーを取り上げる。細巻きタバコをホルダーに差し、くわえると、銀色のライターで火をつける。ひと口吸って、ゆっくり吐く。
窓辺に歩み寄り、ガラス戸を開けて、鎧戸を外に向かって開放した。ひんやりとした朝の空気が、澱んだ部屋の中へと流れ込む。
ドラ・マールは、目の前にひらけた風景に向かって、今度は勢いよく煙を吐きかけた。
いい天気だ。春らしい陽気で、遠くの街並みが霞んで見えている。
すぐ近くのグランゾーギュスタン通りをせわしなく車が行き交う音が響いてくる。車の幌が朝の光を弾いて、小川を進む小魚の群れになって流れていく情景を思い浮かべてみる。セーヌ河は白々とやわらかく輝き、貨物船がその上をのんびりと通り過ぎる。絹のドレスを切り裂くように、さざ波が船の後についてゆく。セーヌに浮かぶシテ島には、ノートルダム寺院の尖塔が、空を指差してそそり立っている。
窓辺にもたれてタバコをくゆらせながら、ドラは、部屋の中を見回した。
十七世紀に建てられた古い館は、バルザックが小説の一舞台として選んだという由緒正しき――いや、むしろ曰く付きの――建造物だ。今では賃貸住宅となって、かつてはドラが親しくしている左翼系の活動家が住み、しょっちゅう集会も開かれていた。ドラが暮らすアパルトマンから一ブロックと離れていない。三、四階がまとめて空いたので、ただいまそこのベッドで眠りこけている「創造主」に紹介してやった。広いアトリエを探していた彼は、それはもう大喜びで、すぐさま引っ越してきた。ほんのひと月ほどまえのことだ。そして、たったひと月で、この部屋は「創造主」の作り上げた宇宙になってしまった。
なんという無秩序さだろう。世界中の無用なものを集めて放り込んだゴミ箱さながらだ。ここまでめちゃくちゃだと感動的ですらある。そしていまは、自分ひとりだけがこの乱雑な宇宙に入り込むことが許されている女であるという事実を思い出して、ドラはほくそ笑むのだった。
乱れたシーツに包まって眠る「創造主」。――またの名を、パブロ・ピカソ。
父親ほども年の離れた男の顔には、深い皺が刻まれている。閉じたまぶたの奥に隠れているのは、いかなるものでもその本質を瞬時に見抜いてしまう目だ。暗闇のように黒々としたふたつの目。そこに閃光が走った瞬間、自分は捕らえられてしまったのだ。一年と少しまえのことだった。
ピカソの寝顔を眺めながら、ドラは、ふたりでパリ郊外へドライブに出かけたときのことを思い出した。
野原をそぞろ歩いていたとき、小川のほとりで、見たこともないような美しい花をみつけた。その花を愛でながら、ピカソはごくさりげなく言ったものだ。――神もきっと私に匹敵する芸術家だったんだろう。
傲慢で鼻持ちならない自信家がふと口にした、神への冒涜ともとれるひと言。けれど、ドラには不思議なほどすんなりと受け入れられる言葉だった。
あのときからだ。ドラがピカソを「創造主」として、畏れ、戦き、そして愛するようになったのは。
ピカソの分厚いまぶたが、ゆっくりと開いた。窓辺に佇んでいるドラを、黒々とした目がみつめている。大きく息をつくと、スペイン語でつぶやいた。
「いやな夢をみた」
ふうっと煙を吐き出して、ドラもまた、スペイン語で訊き返した。
「どんな夢?」
ドラは、建築家だった父の仕事の関係で、幼少時をアルゼンチンで過ごした。そのため、スペイン語が流暢である。気まぐれな芸術家の心をつかむことができたのは、彼女の整った容姿と知性、芸術家としての仕事ぶり、さらにはスペイン語を話せたこと、それらのすべてが効力を発揮したからにほかならない。
ピカソは、上半身を起こすと、「タバコ、くれ」と言った。
「とんでもなく不吉な夢だった。目覚めた瞬間に、忘れたがね」
「若い女に追いかけられる夢じゃないの」皮肉を込めて、ドラは言った。いまのピカソは自分だけに夢中に違いない、と思いつつ。
「そんなら、ありがたい夢じゃないか」
ピカソは口の端を釣り上げて笑った。ドラはベッドに歩み寄り、その口にタバコをくわえさせた。銀のライターを差し出し、火をつけてやる。ピカソがヴァンドーム広場にほど近いダンヒルへ出向いてドラのために買ってきたライターには、小さな女の横顔が刻まれていた。
「腹が減ったな。ハイメはまだか」
煙を吐き出して、ピカソが言った。ハイメ・サバルテスは、ピカソがバルセロナで画学生をしていた時代からの友人であり、いまでは彼の秘書を務めている。毎朝、クロワッサンと新聞を調達してから、この館に来ることになっていた。
ドラは、本がぎゅうぎゅうに押し込まれた本棚の隙間にある置き時計をちらりと見て、ガラスの灰皿でタバコを揉み消した。
「もう九時ですもの、そろそろでしょ。とにかくコーヒーを淹れるわ」
「そうしてくれ。特別に濃いのを頼む」
台所でコーヒーの粉をパーコレーターに入れ、ガスコンロにかけてから、ドラは洗面所に行った。顔を洗って鏡を覗き込む。
艶やかな頬の上を水滴が玉になって落ちていく。張りのある、しみひとつない、ほんのりと褐色を帯びた肌。豊かなまつげに縁取られた、鳶色の瞳。形のよい唇。そこにたっぷりと口紅を載せれば、いっそう肉感的に輝く。真っ赤なマニキュアの指先で、唇にそっと触れてみる。
ドラと付き合うようになってから、ピカソの描く肖像画から、金髪で色白の女性像――すなわち、年若い愛人だったマリー=テレーズが、徐々に消え始めた。代わりに彼のカンヴァスを支配しつつあるのが、かすかに日に灼けた色の肌と赤い唇、漆黒の髪の麗人。蠱惑的な微笑をたたえ、長く伸びた赤い爪の指をほっそりした顎に添えている美女。あるいは、牛頭人身の怪物、ミノタウロスに犯される純潔のニンフ。
そのすべてが自分であることを、毎朝、鏡を覗き込むたびに思い出し、そこはかとない満足感を覚えるのだ。同時に、「創造主」の手によって、得体の知れない化け物に自分が変えられていくような恐ろしさも。
コーヒーカップとポットをトレイに載せて寝室へ戻ると、ピカソの姿がない。テーブルの上にトレイを置くと、ドラは、部屋を出て上階のアトリエへと階段を上がっていった。
ノックもせずにドアを開ける。最初に視界に入ってくるのは、赤茶色のトメット(六角形の素焼きタイル)が敷き詰められた床と、広々とした空間に堆く積み上げられた何百枚ものカンヴァス。その向こう、大きな壁一面を覆っているのは、巨大な、真っ白なカンヴァスだ。
ガウンを着て、スリッパをつっかけたピカソが、トメットの床に立ち、無地のカンヴァスに向かい合っている。背中越しに、タバコの紫煙がゆらゆらと立ち上っているのが見える。
いかにしてこの無垢な画面をやっつけてやろうかと、思いを巡らせているのだろうか。ドラが入ってきたことに気づいているはずだが、決して振り向いたりはしない。
ピカソが絵を描き出す瞬間は、いつも唐突だった。雑談したり、くだらない冗談を言ったりしたあとに、モデルをほんの数秒間みつめて、さらさらとコンテを、あるいは鉛筆を動かし始める。スケッチブックや、ノートや、ときにはレストランの紙のテーブルクロスの上を、なめらかな動きで分厚い手が動き回り、気がつくと、世にも不思議な絵ができ上がっている。どこからどう見ても写実的な像ではない、けれどこれ以上ないほどにモデルの特徴を瞬時にとらえ、デフォルメした造形。目をそむけたくなるほど醜くもあり、天上の美しさをも兼ね備えた人物像。
初めて自分をモデルにした肖像画を目の当たりにしたとき、ドラはおかしなくらい戸惑い、頬が赤らむのを感じた。人目を避けてひっそりと自分の中に匿っていた何かを暴かれたような気がした。それでいて、その肖像画は、まさしく素の自分だったのだ。
もちろんピカソほどの知名度はないにせよ、ドラ・マールとてアーティストである。シュルレアリストのグループに名を連ね、仲間の写真家であるマン・レイの影響もあって、写真を自らの表現手段としていた。
あらゆる現実を超えた表象をこそ尊ぶシュルレアリスム運動では、常識を覆す表現や活動がお決まりのはずなのに、ピカソの創作に触れるとき、感情の針がいつも激しく揺れるのを、ドラは感じずにはいられなかった。
ドラは、ピカソの背後に静かに歩み寄った。五十五歳の男の背中は、ずんぐりとしていたが、城壁のようでもあった。何人たりとも寄せつけない堅牢さがあった。
「今日は私、ポーズをとる必要がある?」
声をかけると不機嫌になるかもしれないと思いつつ、わざと無遠慮に訊いてみた。
「そうだな」と背中が短く答えた。指に挟んだタバコの灰が、ぽろぽろと床にこぼれ落ちている。
――いいかげんに下絵に取りかからないと、もう間に合わないでしょう?
そんな言葉がふっと浮かんで、あやうく溢れそうになったが、どうにか止めた。
ピカソの目の前に、霧の中の湖のように、しんとして広がっている真っ白なカンヴァス。
まもなく始まるパリ万国博覧会スペイン館に展示される絵が、そこには描かれる予定だった。
※7月19日18時~生放送
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