日本共産党の不破哲三前議長は16日夜、那覇市内で「沖縄県民が主人公の、基地のない平和な沖縄への展望」と題した講演を行いました。県民の不屈の闘争の歴史から現在の辺野古新基地問題を打開する展望までが縦横に語られました。
「戦前戦後を通じて、日本共産党が公然と沖縄で活動するのは初めて」という中、那覇市内の小学校校庭で行われた最初の演説会。「夕方になって暗くなってもなかなか人が集まらない、よく見てみると、まわりの暗やみにたくさん人影があるのです。はじめは共産党というのは何者かとご覧になっているようで、次第に中に出てきて7000人の大集会になりました」
不破氏は翌71年にかけての復帰前の3回の沖縄訪問を通じて、県民の団結の力の大きさを「本当に強く感じた」といいます。
51年に締結されたサンフランシスコ条約第3条は、沖縄は将来、国連信託統治制度の下に置き、米国が施政権者になる、それまでは米国が権力を握る、こう定めていました。「どう転んでも沖縄が日本に戻る道はない。条約上、全く不可能だとされていたこの難関を押し破って沖縄復帰を実現したのは、まさに沖縄の皆さんの団結の力です」
なかでも68年に沖縄で初めて実行された琉球政府の主席選挙で革新共闘の屋良朝苗さんが勝利したことが決定的でした。「23万7643票対20万6209票で祖国復帰勢力が過半数を握った。この事実はアメリカも認めざるを得なくなり、条約上は不可能だった祖国復帰に道を開いた。沖縄が一つに団結した時に、どんな壁でも破れる。それを実証したのが50~60年代の祖国復帰闘争でした」
不破氏は、「新基地建設反対のたたかいでは、さらに進んで『オール沖縄』の団結が実現しました。あの主席選挙が沖縄返還に道を開いたように、辺野古の基地建設絶対反対のたたかいの勝利の道を、『オール沖縄』の力で再び大きく切り開こうではありませんか。そのためにも6月の県議選、7月の参院選で沖縄の心を安倍政権に米政府に、そして世界に示そうではありませんか」と訴え、大きな拍手に包まれました。
続いて不破氏は、本題である「沖縄問題の本質」について四つの問題をあげて解明しました。
「講和条約が結ばれたら沖縄を日本に返して、その日から日本国民として当たり前の生活をする。これが当然の成り行きです。それを戦後、長い間、米国の施政権下においたのは、(日本が占領した領土の解放という)連合国の戦争目的に反する勝手な行動です」
不破氏は、「第2次世界大戦の他の敗戦国であるドイツ、イタリアで、その国の一部を他国の占領状態において、その地域全体が米国の軍事基地になったところはどこにもない」と指摘。その根源にサンフランシスコ条約があると述べました。
「沖縄の基地には世界のどこにもない特殊なことが二つある」。不破氏はこう述べ、第一に「米軍がこれだけ横暴勝手な振る舞いをしている基地は、世界の他の国には存在しない」と指摘しました。
同じ敗戦国のイタリアやドイツではどうか。不破氏は、77年1月に米第6艦隊の基地だったイタリアのナポリを訪問した際、共産党員の市長が「私が当選したら、艦隊の司令官がすぐに来て、今までのようにいてもいいだろうか、と聞いてきた。政権交代ではなく、市長がかわっただけです。国と国の条約であなた方はいるのだから、どうぞご自由に海の上にいてください」と述べたことを紹介。しかも、基地といっても、米艦隊はナポリ湾の海上に停泊しているだけだったのです。会場からは苦笑がもれました。
ドイツでは59年に米軍駐留の地位協定が結ばれましたが、ドイツ側が要求して71年、81年、93年と3回も改定されました。
「なかでも93年の改定は私たちが見るとびっくりするようなものです」。不破氏はこう述べ、まず、第53条で「ドイツの国内法(航空法)は米軍も順守する」として飛行禁止区域、低空飛行制限区域などの国内法の規定も確実に守られていることをあげ、「いまの沖縄はどうか。日本にどんな航空法があっても、米軍は一切無視です。低空飛行しようが、爆音をまきちらそうが、何でもできる」と告発しました。
さらにあります。▽ドイツの公共秩序や安全が危険にさらされた時には、ドイツの警察が基地内で警察権を行使できる(28条)▽米軍当局は、軍事活動が環境破壊にならないよう調査する責任を負う、必要な場合は国や自治体の基地内の立ち入りを認める(54条A、B)▽基地内の演習にも国内法が適用されるので、ドイツ当局に事前通知と許可が必要(53条)▽基地外での演習はドイツ国防大臣の承認が必要(45条)▽空域での演習もドイツ当局の承認が必要(46条)…。
不破氏は、「こうしたことを93年の改定で、全部米国に認めさせた。この原動力はもちろんドイツ国民ですが、交渉に当たったのはキリスト教民主同盟という保守政権です。当時の法務局長はこう言っています。『ドイツ政府も今こそ主権国家として、自国のことは自分たちで決めるべきだと考えて交渉した』」。日本政府とのあまりのちがいに、大きな拍手が起こりました。
殴り込み部隊の基地
第二は、沖縄の基地の任務です。「二つ大事な問題がある」。不破氏はまず在沖縄米軍の主力である海兵隊は、海外への「殴り込み」を主な任務としており、「名称も第3海兵遠征軍。日本や沖縄を守るという任務は、どこにもない」ことを指摘しました。このことは、レーガン政権時代の82年4月、当時のワインバーガー国防長官が米上院歳出委員会で「沖縄の海兵隊は日本の防衛にはあてられていない」と明言していたことです。
日米安保条約では形式上、米軍が直接、沖縄や日本本土から外国を攻撃するときは日本政府との事前協議が必要ですが、沖縄から直接出撃しても、「途中、どこかに寄っているはずだ」などとして返還以来44年間、事前協議は一度も行われていません。「米海兵隊が出撃基地として自由に使っている外国の基地は沖縄にしかない。これも世界の常識からして異常なことです」
沖縄から核戦争――この計画が二度もあった
「もっと重大な問題があります」。不破氏は、沖縄が他国を核兵器で先制攻撃する巨大な最前線基地になってきたと述べました。
「これは決して絵空事ではありません」。今年2月に再放送されたNHKドキュメンタリー番組によれば、62年のキューバ危機で当時の米空軍参謀総長が「ソビエトを先制核攻撃すべきだ。ソビエト全土に7000メガトンの原爆を打ち込む」と大統領に提案しました。では発射基地はどこにあるのか。アジアでは「米軍統治下の沖縄。ひそかに1300発の核弾頭が持ち込まれ、配備されていた」。
2回目はベトナム戦争です。当時も米国は北ベトナムを支援するソ連・中国に対して、沖縄から核攻撃の準備をしていました。機密指定を解除された米国防総省の文書に、67年当時で沖縄に約1300発の核兵器配置と記録されていました。
「もしこれらの作戦が実行されたら、攻撃された相手国は当然、攻撃の拠点地域に反撃します。米軍はすぐ退避するでしょうが、沖縄は相手国の核反撃の対象になり、広島・長崎の数十倍、数百倍の悲劇を体験させられる。占領中の沖縄は、その緊迫した事態に確認できるだけで二度もさらされていたのです」
核密約でいまも核戦争の体制が
不破氏は警告します。「それは過去の話なのか。72年に沖縄の核抜き返還が実現したといいますが、それは表向きのきれいごとです」
沖縄返還を合意した69年11月21日の首脳会談で、佐藤栄作首相とニクソン米大統領が、極東有事などの際、米国はいつでも沖縄に核兵器を持ち込むことができる密約に署名。(1)日本政府は事前協議で必ず「イエス」という(2)そのために、これまで建設した核貯蔵庫は「使用できる状態で維持する」とした内容が盛り込まれ、「嘉手納、那覇、辺野古およびナイキ・ハーキュリーズ基地」と具体的に明記しています。
この真相は、佐藤首相の密使だった若泉敬氏の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(94年出版)で明らかになりました。
「核密約は今も生きています。沖縄には占領時代と同じように、どんな戦争にも活用できる核兵器の貯蔵施設がいたるところにあるはずです。いざとなれば米国が膨大な核兵器を持ち込んで、再び核先制攻撃の基地にするための基盤が温存されている。ここに極めて異常な沖縄基地の実態があります」
不破氏は、辺野古新基地建設の狙いの第一に、「殴り込み部隊としての海兵隊基地の圧倒的な強化」があると述べました。
その一つが、垂直離着陸機MV22オスプレイの配備です。不破氏は、米海兵隊が相手国を攻撃する方法として、(1)上陸用舟艇で海岸から強襲上陸する(2)オスプレイのような航空機で、空から戦場に部隊を投入する―という二つがあるが、今では(2)が主流になりつつあり、「オスプレイの配備はまさに殴り込み作戦の体制強化のためのものであって、日本防衛の“抑止力”などではない」と指摘しました。
さらに、辺野古新基地には4万トン級の強襲揚陸艦が接岸できる護岸がつくられ、部隊もオスプレイもおかれ、弾薬搭載エリアも新しくつくられ「機動力がはるかに大きい巨大な出撃基地が沖縄に新たに出現する」のです。
沖縄基地の永久化
第二に、沖縄の基地を永久化する基盤になるという問題です。
不破氏は、米国防総省が97年9月に作成した文書『日本国沖縄における普天間海兵隊航空基地の移設のための国防総省の運用条件及び運用構想』に、「(辺野古の)海上施設およびすべての関連構造物は、40年の運用年数と200年の耐久年数を持つようにする」と明記していることをあげました。
「国防総省は沖縄に200年居座るつもりで辺野古新基地の建設にあたっているのです。だいたい外国の領土を200年も占領し続けることを考えた政府は、近代世界でほかに例がありません。帝国主義が最も横暴を極めた時代でも、外国の領土を借りる租借地は最長でも99年という期限をつけたものでした。これは辺野古だけではなく、沖縄の基地全体を無期限に使う方針だということです。しかも、そのような基地を日本国民の金でつくろうとしている」
不破氏は言います。「安倍晋三首相はあくまで辺野古を強行するといっているが、200年の基地だと承知の上で強行しようというのか。まさにそれは日本の領土を半永久的に米国に売り渡す問題ではありませんか。もし知らなかったというのなら、ただちに建設を取りやめるべきです」
会場に「そうだ」の声が響き渡りました。
不破氏は、「米国は基地の問題では、軍事上の必要性だけではなく、『政治的受容性』が重要だとされていますが、この面からの研究は、政府より米議会の方がはるかに熱心です。沖縄の状態を非常に心配した文書もたくさんあります。住民の反対意思で包囲された基地は現実の戦争では使い物にならないのです」と述べ、フィリピンの例を挙げました。
フィリピンには100年来の米軍基地がありましたが、民衆のデモを背景に誕生したアキノ政権が「外国軍基地を原則禁止する」とする新憲法を87年に制定し、米軍は92年に撤退を完了しました。
「それ以後も、米国とフィリピンの関係は悪化していないし、きちんとした友好関係を結んでいます。ドイツでもフィリピンでも事態を動かしたのは国民の声でした。辺野古新基地の問題でも国民の声、沖縄県民の声がまさに決定的な力を持つのです」
続いて不破氏は、「オール沖縄」のたたかいが本土のたたかいを大きく励ましたことを紹介しました。
「昨年、戦争法反対で市民が立ち上がり、それが原動力になって、参院選で5野党と市民が共同して政権勢力とたたかう体制ができつつあります。これは本土の歴史のなかで初めてです。今わたしは、日本の社会が変わりつつあることを実感しています」
「そして今、辺野古新基地反対の沖縄のたたかいと戦争法反対の本土でのたたかいが大きく合流しはじめた。このこともぜひ報告したい」。不破氏の言葉に、参加者は強く勇気づけられました。
不破氏は訴えます。「沖縄県民こそ沖縄の主人公、日本国民こそ日本の主人公。この主人公が不屈の意思を固めたときに、誰もその前途を阻むことができないのです。祖国復帰に続く歴史的大闘争の勝利を目指して全力をあげようではありませんか」
こう述べた不破氏は、日本国民の手には頑強な日米両政府を打ち破る「切り札」があると指摘しました。それは日米安保条約第10条の「この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後1年で終了する」という規定です。
「いま本土でも沖縄でも、一つの基地を撤去するのにも大変な力がいります。米国が同意しないとできないからです。しかし、すべての基地をなくすのなら、日本側の意思だけでできるのです。そうなれば米軍も撤退せざるを得ないし、撤退した後は日米が対等平等の友好条約を結ぶでしょう。私たちにはそういう展望があります」
不破氏はこう呼びかけました。「辺野古基地反対で立ち上がっている人たち、戦争法反対の声を上げている人たちにも安保条約の問題ではいろいろな意見があることは知っています。しかし、自分たちがこういう切り札をもっていることはきちんと胸に刻んでほしい。沖縄と日本の未来を切り開くたたかいの中で、この切り札が決定的な意味を持つ日が必ず来る。私はこのことを確信しています」
不破氏は最後に訴えました。「みなさん、ともに力を合わせ、沖縄の辺野古新基地建設を絶対に許さないためにたたかい抜こうではありませんか」。万雷の拍手と指笛が響きました。
「基地について、これほど学んだのは初めて。これからの平和のために、私たち一人ひとりの団結が大切だと確信しました」(60代女性)
「安保条約10条に基づいて日本が通告するだけで全ての米軍基地をなくすことを知り、大きな目標ができました」(60代男性)
「安保条約が日本を守るものではないこと、安保条約の終了条項まで話してくれて、もやもやしていたものが一気に晴れました」(那覇市の女性)
「18歳選挙権が与えられたので、テレビや新聞の情報だけでは自分の1票を無駄にしてしまうと思い、参加しました。沖縄が世界でも異常なことを知り、県民・国民の声で社会は変えられると実感しました。オール沖縄の一員として後世に基地のない平和な沖縄を届けられる一員になりたい」(10代女性)
「返還前の沖縄に核兵器1300発というのはびっくり。貯蔵施設も残っていると聞いて大変だと思った。そんなことは、若者は知らないと思います」(27歳、女性)
沖縄県民の団結はどんな壁も破れる
不破氏はまず、本土復帰前の1970年、沖縄で最初の国政参加選挙が行われることになり、10月に沖縄人民党の瀬長亀次郎委員長(衆院)、喜屋武真栄(きゃん・しんえい)氏(参院、革新統一候補)の応援のため初めて沖縄入りしたというエピソードを紹介しました。「戦前戦後を通じて、日本共産党が公然と沖縄で活動するのは初めて」という中、那覇市内の小学校校庭で行われた最初の演説会。「夕方になって暗くなってもなかなか人が集まらない、よく見てみると、まわりの暗やみにたくさん人影があるのです。はじめは共産党というのは何者かとご覧になっているようで、次第に中に出てきて7000人の大集会になりました」
不破氏は翌71年にかけての復帰前の3回の沖縄訪問を通じて、県民の団結の力の大きさを「本当に強く感じた」といいます。
51年に締結されたサンフランシスコ条約第3条は、沖縄は将来、国連信託統治制度の下に置き、米国が施政権者になる、それまでは米国が権力を握る、こう定めていました。「どう転んでも沖縄が日本に戻る道はない。条約上、全く不可能だとされていたこの難関を押し破って沖縄復帰を実現したのは、まさに沖縄の皆さんの団結の力です」
なかでも68年に沖縄で初めて実行された琉球政府の主席選挙で革新共闘の屋良朝苗さんが勝利したことが決定的でした。「23万7643票対20万6209票で祖国復帰勢力が過半数を握った。この事実はアメリカも認めざるを得なくなり、条約上は不可能だった祖国復帰に道を開いた。沖縄が一つに団結した時に、どんな壁でも破れる。それを実証したのが50~60年代の祖国復帰闘争でした」
不破氏は、「新基地建設反対のたたかいでは、さらに進んで『オール沖縄』の団結が実現しました。あの主席選挙が沖縄返還に道を開いたように、辺野古の基地建設絶対反対のたたかいの勝利の道を、『オール沖縄』の力で再び大きく切り開こうではありませんか。そのためにも6月の県議選、7月の参院選で沖縄の心を安倍政権に米政府に、そして世界に示そうではありませんか」と訴え、大きな拍手に包まれました。
続いて不破氏は、本題である「沖縄問題の本質」について四つの問題をあげて解明しました。
沖縄はなぜ戦後、日本本土から切り離されたのか
「戦争に負けたからだ」という見方もありますが、不破氏は、第2次世界大戦で連合国の日本に対する要求を取り決めた43年のカイロ宣言には、連合国は「自国のための利得」を求めず「領土拡張」の考えを求めないと明記し、日本が侵略した領土の放棄を求めただけで、沖縄には一言も触れなかったこと、日本への降伏要求文書であるポツダム宣言(45年)にも、カイロ宣言の条項は履行すべきだと書いてあることを指摘しました。「講和条約が結ばれたら沖縄を日本に返して、その日から日本国民として当たり前の生活をする。これが当然の成り行きです。それを戦後、長い間、米国の施政権下においたのは、(日本が占領した領土の解放という)連合国の戦争目的に反する勝手な行動です」
不破氏は、「第2次世界大戦の他の敗戦国であるドイツ、イタリアで、その国の一部を他国の占領状態において、その地域全体が米国の軍事基地になったところはどこにもない」と指摘。その根源にサンフランシスコ条約があると述べました。
米国は沖縄にどんな基地をつくってきたのか
世界に例のない米軍横暴勝手の基地「沖縄の基地には世界のどこにもない特殊なことが二つある」。不破氏はこう述べ、第一に「米軍がこれだけ横暴勝手な振る舞いをしている基地は、世界の他の国には存在しない」と指摘しました。
同じ敗戦国のイタリアやドイツではどうか。不破氏は、77年1月に米第6艦隊の基地だったイタリアのナポリを訪問した際、共産党員の市長が「私が当選したら、艦隊の司令官がすぐに来て、今までのようにいてもいいだろうか、と聞いてきた。政権交代ではなく、市長がかわっただけです。国と国の条約であなた方はいるのだから、どうぞご自由に海の上にいてください」と述べたことを紹介。しかも、基地といっても、米艦隊はナポリ湾の海上に停泊しているだけだったのです。会場からは苦笑がもれました。
ドイツでは59年に米軍駐留の地位協定が結ばれましたが、ドイツ側が要求して71年、81年、93年と3回も改定されました。
「なかでも93年の改定は私たちが見るとびっくりするようなものです」。不破氏はこう述べ、まず、第53条で「ドイツの国内法(航空法)は米軍も順守する」として飛行禁止区域、低空飛行制限区域などの国内法の規定も確実に守られていることをあげ、「いまの沖縄はどうか。日本にどんな航空法があっても、米軍は一切無視です。低空飛行しようが、爆音をまきちらそうが、何でもできる」と告発しました。
さらにあります。▽ドイツの公共秩序や安全が危険にさらされた時には、ドイツの警察が基地内で警察権を行使できる(28条)▽米軍当局は、軍事活動が環境破壊にならないよう調査する責任を負う、必要な場合は国や自治体の基地内の立ち入りを認める(54条A、B)▽基地内の演習にも国内法が適用されるので、ドイツ当局に事前通知と許可が必要(53条)▽基地外での演習はドイツ国防大臣の承認が必要(45条)▽空域での演習もドイツ当局の承認が必要(46条)…。
不破氏は、「こうしたことを93年の改定で、全部米国に認めさせた。この原動力はもちろんドイツ国民ですが、交渉に当たったのはキリスト教民主同盟という保守政権です。当時の法務局長はこう言っています。『ドイツ政府も今こそ主権国家として、自国のことは自分たちで決めるべきだと考えて交渉した』」。日本政府とのあまりのちがいに、大きな拍手が起こりました。
殴り込み部隊の基地
第二は、沖縄の基地の任務です。「二つ大事な問題がある」。不破氏はまず在沖縄米軍の主力である海兵隊は、海外への「殴り込み」を主な任務としており、「名称も第3海兵遠征軍。日本や沖縄を守るという任務は、どこにもない」ことを指摘しました。このことは、レーガン政権時代の82年4月、当時のワインバーガー国防長官が米上院歳出委員会で「沖縄の海兵隊は日本の防衛にはあてられていない」と明言していたことです。
日米安保条約では形式上、米軍が直接、沖縄や日本本土から外国を攻撃するときは日本政府との事前協議が必要ですが、沖縄から直接出撃しても、「途中、どこかに寄っているはずだ」などとして返還以来44年間、事前協議は一度も行われていません。「米海兵隊が出撃基地として自由に使っている外国の基地は沖縄にしかない。これも世界の常識からして異常なことです」
沖縄から核戦争――この計画が二度もあった
「もっと重大な問題があります」。不破氏は、沖縄が他国を核兵器で先制攻撃する巨大な最前線基地になってきたと述べました。
「これは決して絵空事ではありません」。今年2月に再放送されたNHKドキュメンタリー番組によれば、62年のキューバ危機で当時の米空軍参謀総長が「ソビエトを先制核攻撃すべきだ。ソビエト全土に7000メガトンの原爆を打ち込む」と大統領に提案しました。では発射基地はどこにあるのか。アジアでは「米軍統治下の沖縄。ひそかに1300発の核弾頭が持ち込まれ、配備されていた」。
2回目はベトナム戦争です。当時も米国は北ベトナムを支援するソ連・中国に対して、沖縄から核攻撃の準備をしていました。機密指定を解除された米国防総省の文書に、67年当時で沖縄に約1300発の核兵器配置と記録されていました。
「もしこれらの作戦が実行されたら、攻撃された相手国は当然、攻撃の拠点地域に反撃します。米軍はすぐ退避するでしょうが、沖縄は相手国の核反撃の対象になり、広島・長崎の数十倍、数百倍の悲劇を体験させられる。占領中の沖縄は、その緊迫した事態に確認できるだけで二度もさらされていたのです」
核密約でいまも核戦争の体制が
不破氏は警告します。「それは過去の話なのか。72年に沖縄の核抜き返還が実現したといいますが、それは表向きのきれいごとです」
沖縄返還を合意した69年11月21日の首脳会談で、佐藤栄作首相とニクソン米大統領が、極東有事などの際、米国はいつでも沖縄に核兵器を持ち込むことができる密約に署名。(1)日本政府は事前協議で必ず「イエス」という(2)そのために、これまで建設した核貯蔵庫は「使用できる状態で維持する」とした内容が盛り込まれ、「嘉手納、那覇、辺野古およびナイキ・ハーキュリーズ基地」と具体的に明記しています。
この真相は、佐藤首相の密使だった若泉敬氏の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(94年出版)で明らかになりました。
「核密約は今も生きています。沖縄には占領時代と同じように、どんな戦争にも活用できる核兵器の貯蔵施設がいたるところにあるはずです。いざとなれば米国が膨大な核兵器を持ち込んで、再び核先制攻撃の基地にするための基盤が温存されている。ここに極めて異常な沖縄基地の実態があります」
辺野古新基地建設の目的は何か
殴り込み能力の強化不破氏は、辺野古新基地建設の狙いの第一に、「殴り込み部隊としての海兵隊基地の圧倒的な強化」があると述べました。
その一つが、垂直離着陸機MV22オスプレイの配備です。不破氏は、米海兵隊が相手国を攻撃する方法として、(1)上陸用舟艇で海岸から強襲上陸する(2)オスプレイのような航空機で、空から戦場に部隊を投入する―という二つがあるが、今では(2)が主流になりつつあり、「オスプレイの配備はまさに殴り込み作戦の体制強化のためのものであって、日本防衛の“抑止力”などではない」と指摘しました。
さらに、辺野古新基地には4万トン級の強襲揚陸艦が接岸できる護岸がつくられ、部隊もオスプレイもおかれ、弾薬搭載エリアも新しくつくられ「機動力がはるかに大きい巨大な出撃基地が沖縄に新たに出現する」のです。
沖縄基地の永久化
第二に、沖縄の基地を永久化する基盤になるという問題です。
不破氏は、米国防総省が97年9月に作成した文書『日本国沖縄における普天間海兵隊航空基地の移設のための国防総省の運用条件及び運用構想』に、「(辺野古の)海上施設およびすべての関連構造物は、40年の運用年数と200年の耐久年数を持つようにする」と明記していることをあげました。
「国防総省は沖縄に200年居座るつもりで辺野古新基地の建設にあたっているのです。だいたい外国の領土を200年も占領し続けることを考えた政府は、近代世界でほかに例がありません。帝国主義が最も横暴を極めた時代でも、外国の領土を借りる租借地は最長でも99年という期限をつけたものでした。これは辺野古だけではなく、沖縄の基地全体を無期限に使う方針だということです。しかも、そのような基地を日本国民の金でつくろうとしている」
不破氏は言います。「安倍晋三首相はあくまで辺野古を強行するといっているが、200年の基地だと承知の上で強行しようというのか。まさにそれは日本の領土を半永久的に米国に売り渡す問題ではありませんか。もし知らなかったというのなら、ただちに建設を取りやめるべきです」
会場に「そうだ」の声が響き渡りました。
闘争の展望
最後の問題は、たたかいの展望です。不破氏は、「米国は基地の問題では、軍事上の必要性だけではなく、『政治的受容性』が重要だとされていますが、この面からの研究は、政府より米議会の方がはるかに熱心です。沖縄の状態を非常に心配した文書もたくさんあります。住民の反対意思で包囲された基地は現実の戦争では使い物にならないのです」と述べ、フィリピンの例を挙げました。
フィリピンには100年来の米軍基地がありましたが、民衆のデモを背景に誕生したアキノ政権が「外国軍基地を原則禁止する」とする新憲法を87年に制定し、米軍は92年に撤退を完了しました。
「それ以後も、米国とフィリピンの関係は悪化していないし、きちんとした友好関係を結んでいます。ドイツでもフィリピンでも事態を動かしたのは国民の声でした。辺野古新基地の問題でも国民の声、沖縄県民の声がまさに決定的な力を持つのです」
続いて不破氏は、「オール沖縄」のたたかいが本土のたたかいを大きく励ましたことを紹介しました。
「昨年、戦争法反対で市民が立ち上がり、それが原動力になって、参院選で5野党と市民が共同して政権勢力とたたかう体制ができつつあります。これは本土の歴史のなかで初めてです。今わたしは、日本の社会が変わりつつあることを実感しています」
「そして今、辺野古新基地反対の沖縄のたたかいと戦争法反対の本土でのたたかいが大きく合流しはじめた。このこともぜひ報告したい」。不破氏の言葉に、参加者は強く勇気づけられました。
不破氏は訴えます。「沖縄県民こそ沖縄の主人公、日本国民こそ日本の主人公。この主人公が不屈の意思を固めたときに、誰もその前途を阻むことができないのです。祖国復帰に続く歴史的大闘争の勝利を目指して全力をあげようではありませんか」
日本の国民の手には切り札がある
「私は、この勝利は必ず基地のない沖縄の実現への新しい段階、新しい局面を開いていくと確信しています」こう述べた不破氏は、日本国民の手には頑強な日米両政府を打ち破る「切り札」があると指摘しました。それは日米安保条約第10条の「この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後1年で終了する」という規定です。
「いま本土でも沖縄でも、一つの基地を撤去するのにも大変な力がいります。米国が同意しないとできないからです。しかし、すべての基地をなくすのなら、日本側の意思だけでできるのです。そうなれば米軍も撤退せざるを得ないし、撤退した後は日米が対等平等の友好条約を結ぶでしょう。私たちにはそういう展望があります」
不破氏はこう呼びかけました。「辺野古基地反対で立ち上がっている人たち、戦争法反対の声を上げている人たちにも安保条約の問題ではいろいろな意見があることは知っています。しかし、自分たちがこういう切り札をもっていることはきちんと胸に刻んでほしい。沖縄と日本の未来を切り開くたたかいの中で、この切り札が決定的な意味を持つ日が必ず来る。私はこのことを確信しています」
不破氏は最後に訴えました。「みなさん、ともに力を合わせ、沖縄の辺野古新基地建設を絶対に許さないためにたたかい抜こうではありませんか」。万雷の拍手と指笛が響きました。
参加者が感想
目標できた/もやもや晴れる
不破前議長の講演には、「話のすべてに勇気と希望をもらった」など、世代を超えて多くの感想が寄せられました。その一部を紹介します。「基地について、これほど学んだのは初めて。これからの平和のために、私たち一人ひとりの団結が大切だと確信しました」(60代女性)
「安保条約10条に基づいて日本が通告するだけで全ての米軍基地をなくすことを知り、大きな目標ができました」(60代男性)
「安保条約が日本を守るものではないこと、安保条約の終了条項まで話してくれて、もやもやしていたものが一気に晴れました」(那覇市の女性)
「18歳選挙権が与えられたので、テレビや新聞の情報だけでは自分の1票を無駄にしてしまうと思い、参加しました。沖縄が世界でも異常なことを知り、県民・国民の声で社会は変えられると実感しました。オール沖縄の一員として後世に基地のない平和な沖縄を届けられる一員になりたい」(10代女性)
「返還前の沖縄に核兵器1300発というのはびっくり。貯蔵施設も残っていると聞いて大変だと思った。そんなことは、若者は知らないと思います」(27歳、女性)
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